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みづほ館のなごむ食卓②:真っ赤なチゲと発酵する心

【全6話・第2話】

みづほ館でのお試し滞在が始まった、最初の夜。
和(のどか)は、古風な畳の上で一人、膝を抱えていた。

なごむの一汁一菜で味覚は戻った。
みんな温かく迎え入れてくれた。

けれど、明日からは管理人補佐として他の住人たちに挨拶へ行き、入居のサインをもらわなければならない。

「私なんかが、本当にやっていけるのかな……」

昼間の緊張が解けた途端、前職で擦り切れた心の弱音が、頭をもたげていた。
その時、トントン、と部屋の引き戸が遠慮がちに、けれど小気味よく叩かれた。

「のどか、起きてる? 入るよ」

ガラリと扉を開けて入ってきたのは、ソルだった。
昼間の真っ赤なシャツから、ゆったりとしたビビッドピンクの部屋着に着替えている。

その両手には、小さなトゥッペギが抱えられていた。
土鍋からは、グツグツと情熱的な音を立てて、食欲をそそるニンニクと胡麻油の香りが立ち上っている。

「ソルさん……? それは……」

「夜食よ。あんた、夕食ほとんど食べてなかったでしょ。はい、座って座って」

ソルはのどかの前に土鍋をドンと置いた。
蓋を開けると、真っ赤なスープの中で豆腐やアサリ、豚肉が激しく躍っている。

スンドゥブチゲだ。

「あの……私、すごく嬉しいんですけど、お腹がびっくりしちゃうかも……。昨日まで、何を食べても砂の味しかしていなくて、胃も弱っているかも……」

のどかがおずおずと手を振ると、ソルはふっと優しく目を細めた。

「大丈夫。これはただ辛いだけじゃないの。和(なごむ)の出汁をベースに、時間をかけて作った自家製のコチュジャンや、発酵したキムチの旨味がこれでもかってくらい溶け込んでるんだから。まずはスープを一口、飲んでみて」

ソルの真っ直ぐな瞳に押され、のどかはスプーンで真っ赤なスープをすくい、口に運んだ。

ピリッとした心地よい刺激の直後、驚くほど濃厚な「旨味の塊」が口いっぱいに広がった。
アサリの濃厚な出汁と、豚肉のコク。
そして、尖っていない、どこか包み込むような深い甘み。

「美味しい! 辛いのに、すごく、まろやかです……!」

「でしょ? 私たちはね、薬食同源。身体を元気にするための情熱なの。それに、この深みは『発酵』の力。唐辛子もヤンニョムも、じっくり時間をかけて寝かせるから、カドが取れて優しくなるのよ」

のどかはハフハフと息を吐きながら、スプーンを動かす手が止まらなくなった。
汗がじんわりと吹き出し、身体の芯の冷えが、みるみるうちに熱いエネルギーへと変わっていく。

食べ進めるうちに、のどかの目から、今度は涙ではなく、すっきりとした汗が流れ落ちた。

「ソルさん、私……明日から他の部屋を回るの、本当はすごく不安なんです。また前みたいに、誰かの期待に応えられなくて、迷惑をかけたらどうしようって……」

ポツリと漏らした本音に、ソルはのどかの頭をぐしぐしと豪快に撫で回した。

「あんた、真面目すぎるのよ! 住人のサインなんて、ただの口実。焦って完璧になろうとしなくていいの。人間だって料理と同じ。傷ついたり悩んだりする時間は、自分を美味しくするための『発酵期間』なんだから。じっくり時間をかけて深くなればいいのよ。何かあったら、私がいつでも愚痴を聞いてあげるから!」

「発酵、期間……」

ソルのサバサバとした、けれど最高に温かい言葉が、のどかの心のカドを優しく削り取っていく。

「はい! 私、焦らずにいってみます」

のどかが弾けたような笑顔を見せると、ソルは「うん、いい顔!」と満足そうに笑った。

数時間前、ソルが勢いで名簿の一番上に書いてくれた真っ赤なサイン。
それは、ただの気まぐれではなく、「何があってもあんたの味方だよ」という、ソルの深い情熱そのものだったのだと、のどかは気づいた。

土鍋が空になる頃、遠慮がちにドアがノックされ、扉を開けるとなごむが立っていた。
様子を見に来たのだろう。
なごむが遠慮がちに言う。

「ソル、夜遅くにあまり刺激の強いものを食べさせては……」

しかし、のどかのすっきりとした笑顔を見て、なごむはそれ以上何も言わず柔らかく目を細めた。

「……いえ、顔色が良くなりましたね、のどかさん。明日からの管理人補佐の仕事、よろしくお願いします」

「はい、なごむさん!」

なごむが自室へ戻っていくのを見届けると、ソルはのどかに向かって、いたずらっぽくウインクをしてみせた。

「じゃあ、私は戻るわね。いい、明日から仕事も名簿集めも、あんたのペースでやりなさい。これからたくさん、私と女子トークに付き合ってもらうんだからね。さっさと寝て、元気になりなさい!」

ソルの情熱的なチゲで身体を温め、なごむの静かな眼差しに見守られながら、のどかはみづほ館での本当の第一歩を踏み出す勇気を得たのだった。

次回:第3話「完璧なソースと太陽のトマト」

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