「徳定城」伴到弘と神ノ前古墳
愛知県新城市には戦国時代、長篠城、野田城の他に実にたくさんのお城がありました。「徳定(とくさだ)城」もそのうちの一つです。

築城は1556年、野田城二代目城主菅沼定村(さだすえ)が弟の又左衛門に建てさせ周辺の警備をさせたようです。この当時、駿府の今川方に組していました。又左衛門は13年後引佐郡「刑部城」(今の静岡県)に移りました。配置換えというか転勤というか。
その後、野田城菅沼定忠家臣、塩瀬久次が徳定城に移り住んできました。
この地域は、今川・織田・松平・武田に翻弄され、誰についたら領土や家を守れるのか?山家三方衆と呼ばれた菅沼家・奥平家は何か事が起こるたび判断に迷い必死だったことでしょう。
秀吉がこの地をまとめた1590年、徳川の関東入りに伴い廃城となりました。

城跡は現在民家となっています。高台に位置し南側は遠く豊橋まで見渡せます。450年前は空気もきれいで海も見えたことと思います。
さて、この徳定城、もっともっと昔をたどると古墳時代まで遡れます。その当時この辺りは大伴氏(伴氏)の治める所だったようです。
徳定城の南に「神ノ前古墳」というのがあります。

「伴到弘」氏のお墓があったといわれています。二つ塚(石塚)碑塚。
伴氏は景行天皇の御守(大伴倭宿)を祖先としており、753年に大倭宿祢小東人(ヤマトノスクネコアズマンド)が、三河国司に任命されているようです。1000年代、伴助高という人の子供(助行・助親・資兼・到弘)がそれぞれ設楽、八名、三河の重要な役に付き、到弘さんは、徳定城のあるこの地の御領主さま。近くにある八幡神社は祭神が「誉田別尊」で、1093年大伴到弘地主神として勧請という記録があります。
到弘さまの父・助高から遡ると大伴家持、安麻呂の名も出てきます。古墳が盛んに造られた時代は七世紀までだったようなので、神ノ前古墳は到弘さまでも助高さまでもないのかもしれませんが、大伴氏代々の墓がそこにあるのだとすれば大伴氏ゆかりの偉い人物の古墳だと思われます。
※宿祢・・・天皇一族と関係の深い者に与えた姓

数年前、徳定城跡に住んでおられる方から
「あんた土器とか好きだら?」
「こんなんがあるから持っていっていいよ(笑)」と、いただきました。
蔵の跡地やあっちこっち掘り起こすと出てくるそうです。素焼きの土器と思われます。古墳時代よりもっと昔、弥生時代から人が住んでいたのですね。神の前古墳の近くには、荒井古墳、堂塚、遺跡もあります。
また、大伴氏の馬術調練場であったという馬場、大伴氏が祀った水神、そばを流れる水神川、大伴氏が開設した市場、大伴氏が神に供物をささげた場所(ツクエ)等々、大伴氏にゆかりのある地名が数多くあります。
大伴氏(伴氏)と冨永氏の関係は、助親の代から枝分かれしていくようです。また、1200年代に資経という人が冨永家の娘と結婚して塩瀬村に住み、有名な塩瀬饅頭の基盤を作ったようです。
戦国時代に、徳定城を築いた菅沼又左衛門、後を継いだ塩瀬久次、いずれも大伴氏ゆかりの人物なのですね。
徳定城のある「新城市徳定」というところは太古の昔よりお茶の栽培が盛んだったようで、現在「新城茶」というブランドで市場に出ているお茶の源のようです。
江戸時代、徳定にはお城は有りませんでしたが新城のお殿様の家臣が徳定の近くのお寺に奉納したという「将軍地蔵様」があります。

かなり古いものです。

地元ちさと郷土研究会で作成した「徳定城を守る徳定ジョー君」です。
お茶の産地で、緑色。将軍地蔵に因んで、下半身が馬です。

参考文献:千郷村史
