石田城と豊臣秀吉(愛知県新城市)
新城市石田には、かつて石田城というお城がありました。1590年から1600年までの10年間存在していたお城です。
豊臣秀吉は1590年、家康を関東に配置替えし、三河を治めるにあたり現在の豊橋・吉田城に池田輝政を置き、輝政の重臣「片桐半右衛門」に、石田城を築かせました。
城主「片桐半右衛門」は池田輝政の老臣でした。
池田輝政といえば織田信長の乳兄弟、信長協奏曲(漫画)で「つねちゃん」と呼ばれ信長に寵愛された池田恒興の子供です。輝政は、信長、秀吉、家康の三人に仕え、「片桐半右衛門」が築城を命じられたのは、信長の死後、秀吉の家臣となってからです。

石田にお城を築いた理由としては、吉田城と船で行き来できる位置として最適だったからと思われます。吉田城までおよそ16km。この航路はその後明治時代に鉄道が敷かれるまで続いたようです。
石田城を築城するにあたり、水源(水堀)を確保する為に当時としては大変大掛かりな土木工事が施されたようです。
2kmほど上流の高台にあった道目記城の横の道目記川(現在の臼子川)から新しく用水路を石田城まで引いたのです。
これがすごいのは、今でもその用水路が残っている、ということです!


片桐半右衛門は道目記城の西、鼓が滝の上から水路を分け道目記城の北を通り2キロ先の石田城まで水を引きました。
現在新城市立千郷中学校のグラウンドの南西の一部(弓道場の的場下)を暗渠で通りカーマホームセンタ―の横から市道を潜り、周辺の水田を潤しながら石田まで水路が引かれています。土地改良で多少変更していますがほぼほぼ昔のまま、貴船神社横を通り一気に石田城方面へと水路が伸びています。


地元民でも見落とす場所です。


豊臣秀吉の命で、池田輝政が豊橋の吉田城に入り、輝政は老臣の片桐半右衛門に知行を与え石田に城を築かせて入城させた。石田と豊橋を舟が行き来し、物資を運んだ。その後石田城含む新城はは1600年の関ヶ原の戦いで「徳川家康」が天下を取ったきっかけで、豊臣領から天領(幕府直轄地)となり、石田には代官が入り周辺に代官屋敷ができ、石田城から2K上流に「新城城」が出来る。船着き場は場所を変え、代官屋敷のほとりから物資が田峯城へと運ばれる。新城の船着き場は町民・庶民の波止場となる。
新城「山湊馬浪」のはじまりです。

戦国時代からあちらこちらに築かれたお城は、この石田城がトリ、新城城が大トリとなって築城ラッシュが終わります。




ちさと郷土研究会で作成した旗「石田城跡」です。
川沿いにあり、戦いがほぼ無くなった時期にできたお城なので、城を守るジョー君は豊川で釣りをしています。わんぱくで陽気なイメージなのでオレンジ色です。
参考文献:千郷村史
:石田千年の歴史
次回、下り地城を書きたい・・・
