その「謎の少女」は最強、二つの目で世界の視線を釘付けにする』 第5話
(後編)
海野家のリビングは、異様な重苦しさと緊張感に包まれていた。
部屋の中央に置かれたテーブルの上には、アヌスが置いた3000万円のアタッシュケース。その周囲を取り囲むように、ハルト、あいり、ここな、そして母のサクラの4人が座っていた。
「……来たな、アヌス」
ハルトが立ち上がり、アタッシュケースをアヌスの方へと押し戻した。
「やっぱり、お前にこれ以上お世話になるわけにはいかない。あいりを救ってくれただけで一生かかっても返せない恩があるんだ。その上、こんな大金まで受け取れるわけがないだろ!」
ハルトの表情は頑なだった。自分がこの家を守らなければという強い責任感が、アヌスからの破格の申し出を拒絶させている。アヌスは焦りを感じながら、真っ直ぐにハルトの目を見つめた。
「お願いだから受け取ってほしいんだ。僕はね、君たちみんなに生きてほしい。借金に苦しまず、普通の生活を送ってほしいんだよ……!」

「ダメだ! お前に頼り切って生きていくなんて、そんなの俺たちのプライドが許さない! 一体どうやってこんな大金を用意したんだよ……!」
ハルトの問いかけに、アヌスは静かに、けれど嘘偽りのない眼差しで答えた。
「これはね……僕が昔の仕事で、命がけで働いて貯めたお金なんだ。怪しいお金でも、誰かから借りたお金でもないから……絶対に安心して」
「昔の仕事って……っ。お前、一体……」
絶句するハルトに対し、アヌスは胸の奥に秘めていた切札を繰り出すことにした。
「……じゃあ、あの時のお願い事を聞いてくれる?」
ハルトがピクリと眉を潜めた。「お願い事……?」
「そう、あいりさんを助けた時の約束。僕の願いを聞いてくれる代わりに、この3000万円を受け取ってほしいんだ。……これは『契約』だよ」
「っ……狡いぞ、お前……!」
ハルトが苦々しい顔をする。傍らで聞いていたここなが、「あ、あの時の!」と身を乗り出し、あいりも「どんなお願い事なの……?」と不安そうに尋ねてきた。
ハルトは拳を握りしめ、冷や汗を流しながらも首を振った。
「……だとしても、ダメだ。お前がどんなお願いをしてこようが、この金を受け取る理由にはならない。俺が守らなきゃいけないんだ、この家を……!」
ハルトの閉ざしていた壁は厚かった。アヌスは静かに目を閉じ、強く拳を握りしめた。
胸の奥が、締め付けられるように痛む。
本当は、言うつもりなんてなかった。あまりにも我がままで、身勝手な望み。そんなものを押し付けたら、優しい彼らを困らせてしまうだけだと分かっていたから。
でも——もし、この「契約」という形を使わなければ、僕は生涯、この想いを口にすることすらできないかもしれない。
アヌスはゆっくりと目を開けた。両目の異なる色彩が、揺れる照明の光を反射する。
「……もちろん、無理だって分かってよ」
絞り出すような、小さく震える声だった。
「みんなを困らせちゃうお願いなのも、ちゃんと分かってる。……だからね、本当は一生言わないつもりだったんだ。ずっと胸の奥にしまっておこうと思ってたんだよ」
アヌスの異様な雰囲気に、大人であるサクラやハルト息をのむ。その声に含まれた圧倒的な孤独の深さを、言葉を発する前に察してしまったのだ。
アヌスは部屋にいる4人の顔を、一人ひとり愛おしそうに見つめた。そして、消え入るような、けれど切切とした声で言った。
「……僕の願いはね……君たちの、『家族』にしてほしいんだ」

「——え?」
ハルトの思考がフリーズした。あいりもサクラも、思いも寄らない言葉に目を見開いている。
「私、アヌスと家族になりたいっ!!」
末っ子のここなが跳ね起きるように叫び、アヌスの元へ駆け寄ってその腕に抱きついた。
「やったー! アヌスと家族になれるの!? 私、絶対アヌスと家族がいい!」
「こ、ここな、お前ちょっと待て!」
ハルトが慌てて割って入る。
「家族になるって……そんな簡単なことじゃないだろ! アヌス、お前正気か!? 俺たちは借金まみれで、いつ崩れるかも分からない家なんだぞ! お前みたいな奴が、俺たちの家族になるメリットなんて何一つ——」
「メリットなんて、いらないんだよ……!」
アヌスはハルトの言葉を、痛々しいほどの叫びで遮った。
普段の冷静で大人びたアヌスからは想像もつかない、剥き出しの感情だった。
「家族って……そんな理由でなるものなの……?」
「アヌス……?」
「家族」という言葉を口にした瞬間、アヌスの胸の奥にしまい込んでいた記憶が怒涛のように溢れ出してきた。

「……僕はね……施設で育ったんだ」
ぽつり、ぽつりと、アヌスは語り始めた。
「親の顔も知らない。生まれた時からずっと一人だった。……この髪の色と、左右で色の違う目が変だって……みんな僕から離れていった。中学生になって一人暮らしを始めても、暗い部屋に帰るのが怖かった。コンビニのお弁当を一人で食べて、自分の誕生日もただ通り過ぎていくだけで……誰にも『おかえり』って言ってもらえない毎日だったんだ」
あいりが痛ましそうに口元を押さえ、息を殺した。サクラの目からも静かに涙がこぼれ落ちる。
「一人でも生きていけるように、過酷な仕事を必死でこなしてきた。誰にも頼らず、自分を守るための強さとお金を得るために働き詰めてきた……。でもね、本当は……誰かと食卓を囲んで、今日あったくだらない話をして、一緒に笑い合える……そんなあたたかさに、ずっと憧れてたんだ……!」
アヌスの目から、一筋の涙が頬を伝った。アヌスは慌てて手甲でそれを拭い、歪みそうになる唇を必死に吊り上げて、無理に笑顔を作ろうとした。
「ご、ごめんね……こんなの、困らせちゃうよね。だから忘れて——」
その時。
柔らかな温もりが、アヌスの頭を優しく包み込んだ。
「——もう、無理して笑わなくていいのよ」
見上げると、母のサクラがアヌスの目の前に膝をつき、愛おしそうに頭を撫でていた。その目には、溢れんばかりの涙が溜まっている。
「ずっと……寂しかったのね。一人で、たくさん傷ついて生きてきたのね……」
「あ……お母、さん……?」
「あのね、アヌス。私は難しいことは分からないわ。過去がどうとか、そんなのどうでもいいの。……ただね、私たちを助けてくれたこの優しい子を、絶対に一人にしたくないの」
サクラは立ち上がり、静かにハルトの肩へと手を置いた。
「ハルト……もう、一人で何もかも抱え込まなくていいのよ。アヌスの想いを、受け取ってあげなさい」
「母さん……」
ハルトの心が大きく揺らぐ。自分が家を守る柱にならなければと必死だった。助けられる側になることをプライドが拒んでいた。けれど、本当の家族とは一人で重荷を背負うことではないのだと、家族の言葉とアヌスの涙が教えてくれていた。
あいりも涙を拭いながら歩み寄ってくる。
「ハルト……アヌスはもう、命の恩人なんかじゃないよ。大切な……私たちの家族だよ」
「そうだよ! みんなで幸せになろうよ!」
ここなも必死に訴えかける。
葛藤を乗り越えたハルトは深く息を吐き出すと、閉ざしていた壁を取り払い、ぶっきらぼうに手を差し出した。
「……はぁ。分かったよ。……今日から、お前も俺たちの家族だ。よろしくな、アヌス」
「ハルト……!」
アヌスはその手を両手で握り返した。力強い人間の温もりが伝わってくる。
「あ……そうだ! はい、これ!」
アヌスはハルトの手を握ったまま、テーブルのアタッシュケースを押し付けた。
「お願い……受け取って。これが……家族になった僕の、最初のお願いだから」
まっすぐで澄んだオッドアイで見つめられ、ハルトは降参したように息を漏らした。
「……ったく。分かったよ、この3000万、使わせてもらう。借金を全部返して、俺たち、絶対に幸せになってやるからな」
「うん……! うん……!」
サクラは再びアヌスに向き直り、包み込むように手を重ねた。
「今日から、ここはあなたの家よ」

『もう一人じゃないからね』
その言葉が、アヌスの心に溜まっていた暗い氷を溶かしていく。
泣いてはいけないと、必死に唇を噛んで笑おうとした。けれど、もう限界だった。
「あ……ぅ……っ……あぁぁぁ……っ!」
張り詰めていた糸が切れ、アヌスは両手で顔を覆って子どものように声を上げて泣きじゃくった。
誰にも「おかえり」と言われなかった夜。一人で傷を抱えながら耐え続けた日々。その全てで流せなかった涙が、溢れて止まらない。
サクラはアヌスを力強く抱きしめ、背中を優しく撫で続けた。

「よしよし……頑張ったわね。もう大丈夫よ……」
◇
数分後。
ようやく涙が引き始めたアヌスは、真っ赤にした目でサクラから体を離した。ズビズビと鼻を鳴らし、自分の醜態に気恥ずかしさが込み上げてくる。
「うぅ……ごごめんなさい……! 服、濡らしちゃった……」
頭を下げてペコペコと謝るアヌスに、あいりは思わず微笑んだ。
「ふふ、大丈夫だよアヌス。家族なんだから、泣きたい時はいくらでも泣いていいんだよ」

アヌスが小さくなると、部屋に温かな雰囲気が広がった。
「ハルトお兄ちゃん! 最初から素直になればよかったのにー!」
ここなが勝ち誇ったようにハルトを指差す。ハルトは頭を掻き回し、苦笑いを浮かべた。
(まったく……頼りになるんだか、手がかかるんだか分からんやつが出来ちまったな)
◇
夜が更け、アヌスが海野家を去る時間になった。
玄関まで家族全員が見送りに来てくれる。
「アヌス、明日の夜はうちでご飯食べていきなさいね」
「あ、ありがとうございます……サクラさん!」
「お母さん、でいいのよ?」
「うぅ……お、お母さん……!」
また目頭が熱くなるアヌスに、ここなが手を振り、あいりも優しく見守る。
ハルトはドアを開け、夜風が吹き込む外を見つめながら言った。
「また明日な、アヌス。……あ、そうだ」
「なに? ハルト」
振り返ったアヌスに向かって、ハルトは少し照れくさそうに告げた。
「帰ってくる時は、鍵開いてるから勝手に入れよ。……『ただいま』って言えよな」

アヌスの胸が、熱いもので満たされていく。
「うん! ……行ってきます!」
アヌスが答えると、玄関口に並んだ家族たちが声をそろえた。
「「「「いってらっしゃい!」」」」

サクラの温かな眼差し、あいりとここなの弾けるような手振り、ハルトの照れくさそうな見送り。その光景を目に焼き付けるように、アヌスはくるりと振り返り、心からの笑顔を弾けさせた。
冷たい闇の中で命を削りながら戦い続けた日々。誰にも必要とされず、ただ生きるためだけに強さを求めていた自分。
そんな自分に、ついに灯火がともった。
頬を撫でる春風は、もう寒くなかった。
冥路アヌスは今、初めて——「おかえり」と言ってくれる、温かな帰る場所を手に入れたのだから。
その笑顔は、
今まで誰にも見せたことのない、
本当の笑顔だった。

