『重なる心拍』第二話『うまく言えなくて』
あれから、駅まで送るのが当たり前になった。
LINEのやり取りも増えた。
気づけば、「お疲れさま」が「おやすみ」に変わっていた。
駅までの道のりが、少しずつ長く感じられるようになっていた。
「先輩」
「ん」
「あの」
陽菜が足を止める。
「今日で、ちょうど一年です」
「一年?」
「バイト始めて」
「そっか」
「その」
陽菜は俯いたまま、両手を握りしめていた。
「一年間、ありがとうございました」
「別に、大したことしてない」
「してます」
いつになく強い声だった。
「先輩がいたから、続けられました」
徹は何と返せばいいか分からず、黙っていた。
冷たい風が、二人の間を通り抜ける。
「陽菜」
「はい」
「俺と」
言いかけて、止まる。
深入りしないつもりだった。
それなのに、もう戻れないところまで来ていた。
「付き合ってほしい」
陽菜が顔を上げる。
目が、驚きと、何か別のもので揺れていた。
「……いいん、ですか」
「聞いてるのはこっちなんだけど」
「嬉しくて、変なこと言いました」
「いいよ、別に」
「はい、じゃあ」
「じゃあ?」
「よろしくお願いします」
その言い方が、あまりにも生真面目で。
徹は思わず笑ってしまった。
「なんで笑うんですか」
「いや、陽菜らしいなと思って」
「からかいました?」
「してない」
「してます」
それでも、陽菜の頬は緩んでいた。
付き合い始めても、二人の関係はそう変わらなかった。
バイトが終われば送っていく。
休みの日には出かける。
初めて手を繋いだ日のことを、徹はよく覚えている。
「汗、すごくないですか」
「俺も」
二人で笑って、それでも手は離さなかった。
手を繋ぐことにも、少しずつ慣れていった。
それでも、その先には進んでいなかった。
デートの帰り道。
陽菜は何度か口を開いては閉じた。
でも、その先はいつも言葉にならなかった。
交際して三ヶ月が過ぎた頃。
陽菜が、初めて自分の部屋に徹を招いた。
「散らかってて、すみません」
「全然」
小さなワンルーム。
テーブルの上に、二人分のカップが並んでいる。
他愛ない会話をして。
映画を観て。
気づけば、外はもう暗くなっていた。
「終電……なくなっちゃいますね」
陽菜が、時計をちらりと見て言った。
沈黙。
「……泊まって、いきますか」
目を合わせずに、それだけ言った。
「……いいの?」
「はい」
短い返事だったけれど、そこに込められたものは、
徹にも伝わった。
部屋の灯りを落とす。
陽菜の呼吸が、いつもより浅い。
徹自身も、心臓の音がうるさいくらいに聞こえていた。
緊張していた。
それでも、期待もしていた。
だから。
うまくいかなかったとき。
自分でも、何が起きたのか分からなかった。
「……ごめん」
陽菜は何も言わなかった。
ただ、徹の背中に手を置いた。
「大丈夫、です」
陽菜の声は、静かだった。
責めるでもなく。
笑うでもなく。
ただ、静かだった。
陽菜は、それ以上何も聞かなかった。
「ごめん」
もう一度、同じ言葉しか出てこなかった。
天井を見つめながら、徹は自分の鼓動を数えていた。
速いのに、どこか虚しい音だった。
陽菜の呼吸が、隣で静かに続いている。
