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その夜のたび|小説

 その日、私は駅の改札を抜けて、携帯電話の履歴を確認した。妻に連絡した形跡はなかった。仕事の帰りが遅くなるときは、いつも電話で伝えるようにしていたが、たまに連絡したか覚えていないことがあった。家の鍵を掛けたか、ふと不安になるようなものだ。履歴を確認してみると、大抵は電話したことを忘れているだけだったが、その日は電話することを忘れていた。
 私の帰宅は大体遅く、電話もほとんど日課だったが、妻から頼まれたことは一度もなかった。妻も望んでいるかは分からなかった。電話し忘れたことが以前も何度かあったが、翌朝になって顔を合わせても妻は何事もなかったような、いつもと変わらない様子をしていた。連絡がなくても察しはついたから気にしなくてもいいよ。私が謝ってみると、妻はそんなふうに答えたが、私が触れなければ何を言うわけでもなかった。帰宅時間を妻の方から電話で尋ねてくることもなかったから、私は自分で気付かないと、連絡するのを忘れた自覚すらないままになり、そんな日が実際にあったかもしれない。
 その日は履歴を確認して、連絡していないことに気付くことはできたが、もう遅かった。時刻の上では、間もなく明日になろうとしていた。いまさら電話を入れても妻の眠りを妨げるだけだと、私は携帯電話を鞄にしまった。
 駅のすぐ側から始まる目抜き通りを歩いているとき、酒の匂いを漂わせる一団とすれ違った。スーツ姿の男女の集団だった。すれ違いざまに、今日は金曜日だと思い出した。背後でどっと刺すような笑い声が響いた。目抜き通りには遅くまで営業している飲食店が多く、その頃はまだ歓楽的な空気が漂っていた。
 だが終電車がプラットホームを去ると、溢れていたはずの光も賑わいも嘘のように、途端に暗転してしまうのだった。終電時刻にはまだ少しばかりの間があった。
 路地の物陰で抱き合う男女が、束の間、視界に入って消えた。
 カフェの店員たちが、店じまいをしているのが見えた。椅子がテーブルの上に乗っていた。彼らは片付けながら笑い合っていた。
 ガードレールに、若い女が座っていた。携帯電話に向かって何か深刻そうに話していた。その友人と思しき男が傍らにいて、女を心配そうに見つめていた。
 前方でランプが点滅を始めた。私は歩みを速めなかった。音楽が聞こえた。私の知らない曲だった。それは車道から聞こえ、背後から私の横を通過し、目の前をゆるやかに左折し、遠のいていった。ランプは点滅を止め、色が変わった。私は立ち止まり、目を閉じて、目蓋をさすった。次々と横切っていく走行音が、目蓋の向こうで、なぜか海辺の音に似ていた。
 いろいろな色や形をした車の流れがようやく止まり、ふたたびランプの色が変わった。私は白い縞模様の上を歩いて、向こう岸に渡った。そこから道幅はやや狭くなる。
 界隈には洋服や菓子や食器などを扱う小さな店が多くなり、そこかしこにあるのだが、夜遅くまで営業している店はなく、辺りは急に閑散となる。振り返るとすぐ向こう岸に、賑やかな目抜き通りが見えた。河が流れているわけでも大きな崖があるわけでもない、陸続きの土地なのに、車道を一本隔てただけで、どうしてこうも町並みが変わるのか。いささか感覚が狂い、狐に撮まれていたような、撮まれているような、そんな心地がした。
 空に小さな丸い月が浮かんでいた。乳白色の薄雲が掛かっていたが、よく見るとわずかに欠けているのが分かった。夜風がひんやり感じられた。私は目抜き通りを背にして、ひっそりとした道を歩き出した。
 道すがら目に入る店の何軒かにはシャッターが下ろされていなかった。ガラス窓越しに内部の様子が窺えた。店から人が除かれただけで、舞台裏か種明かしでも見ているようだった。ぼんやり広がる青ざめた光が、私の足を止めた。仄明かりを湛える空間に、女物の、色とりどりの服がずらりと並んでいた。営業を終え、辺りにはほとんど人気もないのに、なぜ明かりを灯す必要があるのか、私には分からないが、そうなっているからには何か意図があり、意図した誰かがいるのだろう。まるで水族館の水槽でも眺めているようだった。服だけが存在する水槽。そこでは静けさが奇妙に誇張され、整然と並ぶ服がやけに思わせぶりに見えた。ある種の静物画のように、妙に生々しく、グロテスクにさえ見えなくもなかった。またそんな静物画と同様、服がただ並んでいるだけにも見えた。
 携帯電話の時計を見ると、すでに明日になっていた。今日は昨日になっていた。私は携帯電話を窓ガラスに向け、カメラ機能で撮ってみた。シャッターの切られる音に模された電子音が辺りに響いた。写真を撮ったところで誰に見せるわけでも、送信するわけでもないのだが、私の携帯電話には、そんなふうに何となく撮った写真が何画像も保存されている。
 撮影された画像には、店の窓ガラスがあたかも写っていないように見えた。写真は、私が見たものを写してはいなかった。画像から目を上げると、窓ガラスには携帯電話を手にした私の姿が映っていた。私は携帯電話を鞄にしまった。ふたたび窓ガラスを見ると、私は携帯電話を手にしていなかった。しかし私の身体はガラス製ではなかった。だから窓ガラスに映るそれは、正確には「私」ではなかった。私は私を見ることができないのだ。では私は何を見ていたのか。
 横を向くと、遠くの方にまだ微かに目抜き通りの光が見えた。つい今しがたのことなのに、自分がそこにいたとは思えなかった。見上げると、月に掛かった乳白色はさらに濃くなったようだった。早く帰って眠りたかった。ベッドに入った私の姿が思い浮かんだ。
 窓ガラスを見ないように前を向き、その洋服屋を後にした。
 時折どこからか思い出したように車の走行音が響いた。だが実際に走っている車は一台も見かけなかった。もしかしたら近くに走行音の収集家がいて、そのコレクションを夜な夜な爆音で聞いていたのかもしれない。道は細く入り組んで、周囲には人家が目立つようになった。店はまばらに見られるだけで、ほとんどが地元向けの店だった。妻や私が入ったことのある店も何軒かあるにはあったが、普段の買い物では妻は自宅近所のスーパーマーケットかコンビニエンスストアを使っているらしかった。もう少し行くと、そのスーパーマーケットとコンビニエンスストアが一軒ずつあるばかりの住宅街に入り、私の家もその一角にある。
 車の往来がまったくないというのに、私は信号が変わるのを待っていた。舗道を挟んで斜め左には、妻の贔屓にしている洋菓子屋が見えた。シャッターが閉まっていて、内部は見えなかった。誰もいない交差点で、信号機たちは互いに何か秘密の信号を交し合っているようだった。よく見て耳を澄ませば、その意味を読み取ることができそうだった。彼らは私の存在には気付いていないようだった。
 その洋菓子屋はモンブランの隠れた名店として知られ、わざわざ遠くから買いに来る客もいるほど繁昌している。その店を見かけるたびに、私は妻を思うのだった。
 いつだったか、その店がテレビで紹介されているのを見て、「あれだけ流行っているのに、何が隠れた名店だ。ちっとも隠れていないじゃないか」と、私は悪態をついた。すると妻が、「隠れた」というのは道が入り組んで見つけにくいからで、永久に隠れ続けた名店など存在するはずがない。誰かに発見されて、初めて、その店は隠れた名店となるのだ、というようなことを冷静に言った。それから、「ねえ、知ってる?」と笑った。
 フランス語を生半可に齧った私に妻は、モンブランという名の由来は山のモンブランを模して作ったからではなく、もともとは犬の名前なのだと言った。
 そのことを、私は思い出すのだった。
 フランスの港町に生真面目で研究熱心なスイス生まれのパティシエがいた。男には毛並みの白さからブランと名付けた飼い犬がいて、親しみを込めてよく「モン・ブラン」と呼んでいた。「私のシロや」と言ったところか。その男の考案したケーキだからモンブランという。だが当初、そのケーキはコキーユ・オ・マロン、栗の貝殻という名で売られていた。というのも山のモンブランを模して作ったケーキではあったが、彼は自分が店を構えるその土地で生涯を終えるつもりでいたから、地元の客に望郷の念を見透かされるのを嫌ったのだ。物珍しさが話題を呼び、次いで味からも支持を受けて、コキーユ・オ・マロンは地元の人々に親しまれるようになった。また彼自身が好人物だったことも手伝い、店も小さいながら繁昌した。いつも気丈に振る舞い、周囲からも受け入れられた彼だったが、それでもどこか寂しげで、他人と完全には打ち解けないところもあったという。周囲はそんな彼の一面を実直で生真面目な性格ゆえだと理解していたようだ。だから素行を崩して愛犬と戯れる彼を見た者は、意外な驚きとおかしみを覚えずにいられなかった。人々はまた彼のケーキに対する愛情も知っていた。そんなわけで彼を慕う人々は、やがて彼の発明したそのケーキを「モン・ブラン」との愛称で呼び習わすようになる。さらに歳月は流れ、今では彼も愛犬も忘れ去られて、ケーキのモンブランだけが広く一般に知られるようになった。だが彼は生涯そのケーキをモンブランと改称することはなかったという。
 話し振りから興奮が窺えた。普段の妻は冷静沈着に見え、感情が表に出にくい性質だった。暑く寝苦しい夜にさえ涼しげな表情で眠っているように見えた。だが突発的に夢中で語り出すことがあり、モンブランのときもそうだった。その発作のたび、私は妻の感情の起伏がむしろ激しいことを思い出した。それを抑えようと半ば無意識に表情を保つので、他人からは誤解や偏見を受けやすかった。態度が悪いとか、強い人間だとか、そんなことだ。同じひとつの石に、神を見る人もいれば、石ころと見る人もいる。だが妻は石ではなく生身の人間で、傷つくし、傷つけることもできる。私は妻を傷つけたくはなかった。
 半ば呆気に取られながら、発作が収まるのを見守るように、私は妻の話を聞いていた。語り終えると適当な相槌を打った。それだけだった。
 なぜそんなことを知っているのか、なぜスイス生まれの男がフランスの、それも港町でパティシエをしなければならないのか、その港町とはどこか、いつ頃のことなのか、そもそもそんな話ならもっと一般に知られているのではないか……後になればいくらでも疑問は湧いたが、そのときの反応は相槌だけだった。
 嘘というより冗談で、妻のユーモアに応えられなかった私は、その時どんな相槌を打ったかも思い出せなかった。
 スーパーマーケットの巨大なロゴが、蛍光灯の白光を受けて、煌々と照っていた。店先の駐輪場には三台の自転車が置き去りにされていた。片隅には証明写真機が一台あった。私はそこで何度か自分の証明写真を購入したことがあった。一枚の印画紙に同じ私の姿が並んでいた。はさみで切り取ると、私を証明する何枚かのポートレートになった。それを履歴書に貼り付けて、氏名や住所や職歴などを書き込むと、私がどういう人間なのかを表す、証明書になるという仕掛けだった。
 紙は木や石油でできていると聞く。そこにフレームを設け、何某かの文字や写真を収めれば、それは履歴書になった。またその同じ紙で鶴を折ることもできた。するとそこに存在するのは証明書であり、折鶴であり、かつては木や石油であり、ただ紙でもあった。
 勤め先がようやく決まると私は余った履歴書を紙飛行機にして飛ばして遊んだ。ポートレートは、撮影した時点から月日が経つともはや証明の効力を失い、証明写真ではなくなるらしく、使い道もなかったが、まだどこかの引き出しにあるかもしれない。だが撮影された瞬間とまったく同じ姿の私は金輪際なく、そもそもの初めから、それは私を証明などしていない気もする。また私は私を見ることができないので、それが本当に私なのか、私には定かでもない。
 静まり返った住宅街に、猫のような、赤ん坊のような泣き声が束の間響いて消えた。ある家の窓からはカーテン越しに明かりが覘き、別の窓からはラジオの音が漏れていた。暗闇に閉ざされている窓もあった。明かりが灯っていても、その部屋に人はいないかもしれないし、暗闇の中でも人はいて、眠らず起きているかもしれない、と思った。外からカーテンの向こうを推し測ることはできても、それは憶測に過ぎないのだ。家があり、窓があり、カーテンが見え、音が聞こえ、明かりが見える。だが人がいるのかいないのか、眠っているのか目覚めているのか、私には分からなかった。だが夜道で見る窓明かりは温かく感じられて切なく、その明かりの下で実は誰かが傷つけられているかもしれないと思うと、皮肉じみて切なかった。明かりも暗闇も私に夢想を唆すばかりだった。
 細い脇道を抜けて、やや広めの通りに出ると、林立する街灯の明かりが地面を照らし、舗装されたばかりのアスファルトが黒光りしていた。踏みしめると、わずかに張りつくような感じがして、なぜだか少しだけ心がはしゃいだ。前方にはT字路が見え、そこを左に折れれば、間もなく私の家だった。
 目の前を女がゆっくりと横切っていった。はっきりと姿を確認できる位置だったが、彼女のほうでは私に気付いていないようだった。私はT字路の突き当たりまで進むと、その後姿を見遣った。季節の変わり目で油断したのか、スカートにノースリーブシャツだけの格好で、夜更けの町中をふらふらと歩いていた。その女は私の妻だった。右手にはビニール袋を提げ、左手には缶を握っていた。
 真夜中に時々、彼女が出歩いているのは知っていた。私が帰宅しても部屋にいないことがあったからだ。電話してみると買い物に出ているとのことだった。ほどなく彼女はコンビニエンスストアの袋を提げて帰ってきた。そんなことが何度かあった。だが実際に出歩いている姿を見たのは、そのときが初めてだった。
 彼女は家を背にして歩いていた。私はしばらく見送っていたが、やがて遠ざかる後姿に吸い寄せられるように、彼女を追って歩き出していた。
 辺りは寝静まったように、しんとしていた。彼女は立ち止まることなく歩き続け、目的地でもあるような足取りだったが、どこへ向かっているのか見当がつかなかった。あるいは私にそう見えただけで目的地などなかったのかもしれない。彼女は時折、缶に口をつけているようだったが、私の位置からでははっきりしなかった。
 剥き出しの二の腕は私に淡い黄色のカーディガンをしきりに連想させた。それはあやふやなイメージのようなもので、自分の意思とは関係なしに、勝手にやってきては消えていった。初めてのことではなかった。彼女には涼しくても薄着で外出したり、雨が降りそうでも傘を持たなかったりすることがよくあった。たとえ忠告してみても大丈夫の一点張りで言うことを聞かず、むしろ忠告されるほど依怙地になった。私もいつからか、彼女に忠告めいたことは言わなくなった。
 次第に漠とした物思いにばかり耽るようになっていた。彼女が角を曲がり、姿を見失うと、私は彼女を追っていたことを思い出した。だが歩調を速めることはせず、後姿をふたたび捉えると、また取り留めのない物思いに戻っているのだった。目の前に薄い膜があって、すべてはその外側での出来事のようだった。
 前方から一台の車がやってきて、彼女と私の横を通過していった。彼女は立ち止まった。私も立ち止まり、振り返るかもしれないと思った。だが隠れる気力は起きなかった。そうすることの意味を瞬時に見出せなかった。
 彼女は缶の残りをぐっと飲み、ビニール袋の中に入れた。新しい缶を取り出して、蓋を開ける音が鋭く響いた。眠りから無理やり引き戻されるときのような、ひどく乱暴で不快な音に聞こえた。彼女は飲み物に口をつけず、少しのあいだじっとしていた。缶を手にした腕がだらりと垂れるのが見えた。彼女は空を見上げた。一連の動作が妙に生々しく見えた。まるで別人を見ているようだった。
 彼女は空を見上げたまま、動こうとはしなかった。私も彼女を見つめたまま、動かずにいた。何もかもが静止してしまったようだった。自分が何をしているのか分からなかった。声も掛けずに跡をつけて、それでどうなるのか。何をしたいのか。彼女は夜道でひとり、立ち尽くして空を見上げていた。それを黙ったままじっと見ている私は彼女の夫で、彼女は私の妻だった。
 フウフ、と響きだけが脳裏を浮遊していた。
 例えば空に、背後に、周辺に、私は視線を移したかった。何も拘束しているものはないはずなのに、彼女から視線を逸らすことができなかった。腕に掛かったビニール袋と手にした缶の重みで、彼女は地面に固定されてしまったように見えた。私は彼女が動き出すのを期待しながら、同時に留まったままでもいて欲しかった。
 飲み物に軽く口をつけて、ふいに彼女は歩き出した。私はすぐに反応することができず、立ち止まったまま彼女を見ていた。彼女はどんどん遠ざかっていったが、それでも私は動き出すことができなかった。やがて角を曲がると、彼女は視界から消えた。
 私は佇んだまま彼女が消えた角を漫然と眺め続けていた。ぷつりと糸が切れて、虚空の中にいるようだった。彼女の後姿はもう目の前になく、私を誘い、引き寄せるものは何もなくなっていた。熾火のような疼きが胸の奥で微かに、だが執拗に燻っていた。
 しばらくして、私は歩き出した。彼女が心配で、何かを伝えたくて、二人の関係を変えたくて、動き出したわけでは、しかしなかった。いつまでも立ち尽くしているわけにいかなかった。だが、どうすればいいのか分からなかった。時の経過と足の疲れが私を急き立てた。闇雲に歩いても、どうにもならないことは分かったが、それでも歩き出さずにいられなかった。変えたくなかったのだ。彼女との関係を、だと思う。朝になるまでその場にいたら、二人の関係は恐らく変わる。だから歩き出したのだ。私が望んでいたのは、新しく何かを得ることではなく、失わず、変わらないことだった。
 歩いてみると焦りもいくらか和らいで頭も少しは働くようになった。角まで行ったが彼女の姿はもちろんなかった。彼女がどこにいるのか知りたかった。状況があまりに不確かで、どう動いていいのか判らなかったからだ。
 彼女に電話することにした。何と言って切り出そうかと一瞬迷い、どこにいるのか聞けばいい、と思い直した。呼び出しのベルが何度か鳴った。女の声が機械的に彼女の不在を告げた。それからメッセージを残すよう言った。私は無言で電話を切った。彼女は電話に出なかった。不意に不安がせり上がってきた。溜息を吐き、空を見上げた。全体を薄い雲が覆っていた。月明かりがぼんやりとしていなければ、あまりに薄くて澄み渡っているようにさえ見えた。前を見れば道は枝分かれしながらどこまでも続き、道があるかぎり歩き続けることはできた。そのせいで彼女が見つかる保証はなかった。彼女は帰宅しているかもしれなかった。まだそう遠くには行っておらず、探せば見つかるかもしれなかった。確かなことは何も分からなかった。私は彼女を探し続けた。もう少しだけ、近隣を。気は進まなかったが、それで見つからなければ帰ろうと、私は携帯電話をジーンズのポケットに入れた。
 彼女を探しながら感じていたのは、心細さと恐怖だった。探し始めた途端から感じて、忽ち膨らんでいった。もし見つからなかったら、とは考えなかった。考えていたのは彼女が見つかったときのことだ。私は声を掛けず、更に跡をつけるつもりでいた。下手に関わるより、そっとしておく方がよかった。怖かったのは彼女に見つかることだった。鉢合わせになり、彼女が帰ろうとしなかったとき、一体どうすればいいのか。うまくこなせそうになかった。うまくこなすということが、具体的に何を指すのか、まったく想像できなかった。想像できたのは、うまくこなした結果だけで、彼女を失わないことだった。
 帰ってしまいたい気持ちを引きずりながら、私は歩き続けた。もう彼女も家に着く頃だろう。私もまた何事もなかったように帰宅し、いつも通りにふたりで眠るのだ。
 遠目に公園が見えた。そこにいなければ帰ろうと思ったが、私は彼女を見つけてしまった。
 正面の左側には数本の木々が植わっている。隣には入り口があり、鉄の柵が三本、三角に配置され、乗り物の進入を防ぎ、小さな敷地を照らす白光を反射している。入り口の右隣には、低く水平に刈り込まれた緑に、ピンクのツツジが咲いている。その一部は花びらが黄土色に枯れている。歩いてきたどの道よりも静寂は濃く、敷地全体がまるで見えない壁に覆われ、密閉されているようだ。吸い込む空気は重く湿り、夏の夜の公園の匂いがする。
 照明のポールのすぐ横にあるベンチに、彼女は座っていた。間歇的に、きれぎれに何か呟いていたが、私の位置からでは意味を成さない音でしかなく、花のように、今にも重たい空気に押し潰されそうでありながら、それでいて妙に響く音だった。ビニール袋の把手部分だけが、彼女の膝越しに見えた。手には菓子パンを持ち、腿の上に乗せていた。二の腕は相変わらず剥き出しのままだった。彼女の視線の先には黒地に白のまだらな猫がいた。状態を低くして彼女を見つめていた。彼女を見つめる猫を私は見つめた。木隠れからだ。
 呟きではなくハミングだと、少しして気付いた。彼女は歌っていた。私は考えないようにした。考えたくないそれを押さえ込むように、猫を凝視し続けた。
 膠着した状態が続いた。いつまでも終わらない気がした。訳も分からず嵌まり込んだ、ぬかるみにいる三匹のようだった。私は何かを期待していた。それは彼女でもよかったが、自分から動き出すつもりはなかった。
 もちろんいつまでも続くことなどなく、猫は警戒しながらソロソロと近づいていった。ハミングが止んだ。私は彼女を見た。缶酎ハイを一口ぐっと呷り、彼女は猫の方を見た。束の間、私の視線は猫を探し、彼女のやや手前に見つけた。猫は彼女を見上げ、それから首を垂れた。匂いを嗅いでいるようだった。私の位置からではよく見えず、身を乗り出して角度を変えた。パンの欠片だった。たぶんクリームパンだろう、と思った。彼女はクリームパンが好きなのだ。猫は首を上げて、ふたたび彼女を見遣った。
 猫がパンを食べるかどうか、私の頭にあったのはそれだけだった。公園があり、空気があり、匂いがあり、つつじが咲き、枯れ、照明灯がありブランコがありシーソーがあり、空には月あかり、雲は流れ、猫がいて、酒があり、彼女がいて、彼女は軽装で、妻で、女で、人間で・・・・・・そこには無数の物事と、その始まりと終わりが同時に存していたはずで、どの物事も物語りの中心でありえた。それにも拘らず、私は猫を中心として、果たしてパンを食べるかどうかの成り行きを見守っていた。そのとき、常に、多くの物事を取りこぼしながら。猫がクリームパンを食べることを、私は望んでいた。
 ふいに猫がこちらを見遣り、固まった。私を見ている、と気付くのに五秒ほど掛かった。スクリーン上の俳優と目が合っても、まさか自分を見つめているとは思わず、映画ではなく舞台を見ていたのだと気付くまでの五秒に、それは似ている。猫は目を据えたまま逸らそうとせず、私もしばらく猫を見ていた。知らぬ間に流れ着いた孤島にでもいるようだった。唐突のことで自分の置かれた状況をすぐに把握できなかったのかもしれない。戸惑いすら起きなかった。
 猫は私への興味を失ってくれそうになかった。彼女も猫の様子で私に気付いたかもしれない。そちらを見遣ることはできなかったが、たぶん見つかっていたと思う。いずれにせよ、私が観念するのに時間は掛からなかった。この瞬間の後には次の瞬間が来て、猫が去っても、すべてが幕引きになるわけではなかった。私の物語はきっとまだ続く。彼女に目を向けられないことだけで、私たちの関係は十分に了解でき、いくら先延ばしても、もう同じことに思えた。そんな余力も残っていなかった。私は諦めて、木と木のあいだから公園に踏み込んだ。
 猫は目線を外さずに何歩か後退りした。さらに近づいていくと、素早く駆け出して草陰に飛び込んだ。私はしばらく草陰を見つめ、それから下を向いた。私の世界から猫は消え、パンの欠片は残った。
 そのパン屑はあまりにも見窄らしく見えた。惨めで、憐れで、虚しくて、遣り切れないものに映った。私は彼女を見遣り、向き合った。わずかに顎を上げ、とろりとした目で私を見ていた。驚きも動揺も見えなかった。いくら考えないようにしても追い払えなかったことは、もはや目の前にあった。
「奈菜」
 久しぶりに発した声は掠れ、私は唾を飲み込んだ。奈菜の表情は変わらず、黙ったまま私を見ていた。半ば諦めたような、淡い期待が立ち籠めていた。いつからか零れ落ちて、気付けばそれだけになっていた。それだけが、もう長いこと私たちのあいだを漂い続けていた。こんな寂しい場所に奈菜を追い込んだのは私だった。私をこんな場所に追い込んだのは奈菜だった。私は奈菜に何か言いたかった。だがいくら探しても言葉は出てこなかった。もうどこへも行けなかった。
 奈菜がわずかに微笑んだ。消え入るような笑みだった。
 私は何食わぬ顔でクリームパンの欠片を拾い上げ、奈菜のうつろな瞳を見た。この瞬間をまたなし崩しにやり過ごせたとしても結果は見えていた。私はクリームパンの欠片を口の中に放り込んだ。
「えっ?」
 と、奈菜は言った。ハハハハハッと私は笑った。
 沈黙。奈菜はキョトンと私を見つめたままだが、わずかながら顔つきが変わり、目の色にも変化が窺えた。
「思わぬことが起こりうると、それを伝えたかった。伝わったかな?」
 奈菜は、ううん、と頭を振った。瞳にはきっと小さな私の輪郭が映っていただろう。奈菜は私を見ていただろう。だがそれは私が思う私とはきっと違う。私が知覚している奈菜のように。だから問うことを恐れてはいけない。
 奈菜の髪は灯に照らされて、白い光を放っていた。私は奈菜の背後の木々や金網のフェンスを見た。奈菜の座るベンチを見た。ビニール袋を、缶を、クリームパンを見た。空を見上げ、公園全体を見回した。それから奈菜を見て言った。

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