満たされるだけで、いいのか
勤務先の学校で、「人権に関わる教員研修会をしてほしい」と言われた。
以前勤めていた学校でも依頼されたことがあって、その時はLGBTの話をした。
今回も結構幅広く、どんな話でもいいらしい。
最近学校で思うのは、発達障害であってもなくても、まだまだ子どもの性質に対して、教員が理解、配慮するのは難しいということ。
たとえば子ども本人のペースがゆっくりで、周りの子の速さについていけない。
または教員が怒る姿を見るのが怖くて、学校に行きたくない。
教員からすると、「行動がテキパキと速く、怒られることに慣れ、すぐに切り替えるのが適応」。
そりゃまあ、そうなんだろうけど。
集団を動かすためには、いちいち待ったり、怒らないように気遣ったりなんて、できないんだろうけど。
速いこと、鈍いことだけが正義ではない。
じっくり時間をかけたり、ビクビク怯えたりするからこそ見えてくる世界もある。
先日、記事へのコメントに対して、俺は
「注意を向けられた子どもは安心感を得て、満たされるようになる」
と返信した。
そうなんだけど、こうも思った。
「満たされれば、それでいいのか?」
極端なことを言うと、ゴッホや太宰治は満たされてなかっただろう(勝手な想像です。すみません)。
満たされていたら、あのような素晴らしい作品は生み出されなかったに違いない。
満たされて、幸せであることは大切。
しかしもっと極端な話、有史以来全ての人類が満たされていたら、芸術作品も、発明も、社会運動も存在しなかっただろう。
そうすると、子どもの性質が配慮されて、満たされてほしい一方で、満たされないことを原動力にしてほしいと願う気持ちもある。
ああ、なんてワガママな。
でもまあ、良いのか悪いのか、現状、子どもに配慮が行き届いて満たされるのには程遠い。
すると俺は教員に配慮を求めつつ、行き届かない(教員は悪くない。当然限界はある。消耗しないことはものすごく大事)部分は子どもを応援するしかない。
「ゴッホや太宰になれ」とは言わない。
満たされて、幸せになってほしい。
もう一方で、世界を変える力も身につけてほしい。
そんな話を教員研修会で…。
できるのか!?(笑)
