Photo by
nekonosara
「普通はさー」は、静かな暴力だ
「普通はさー」
「この人、自分と考え方が違う」とイライラすると、「普通はさー」と言いたくなる。
しかし、そういう時はたいてい、自分の考え方を相手に押しつけている。
自分と相手の「普通」は違う。
人の数だけ「普通」は存在する。
「普通はさー」というのは、勝手に大多数を味方につけたと思い込んでいる発言。
仮にその考え方が、本当に大多数も同じように考えていたとして、だから何だというのだろう?
普通。
常識。
当然。
自然。
たしかに人々が暮らす上で、暗黙の了解は多いほうが生活しやすい。
法律。
ルール。
道徳。
マナー。
これらが明文化、暗黙の了解化されているから、生活が成り立つ。
「赤信号で止まるのは、あなたの考えでしょう!」
なんてみんなが言い出したら、怖くて道路に出られない。
だから「普通」が悪いわけではない。
「普通」も大いに必要。
しかし「普通はさー」と言いたくなったら、「ちょっと待てよ」と、その「普通」を疑う余地が欲しい。
たとえば「普通はさー、ひとりだけ外さないんじゃない?」と思った時。
その「普通」はどこから来たのか?
その考え方が踏みにじられた時の傷?
悔しさ?
怒り?
「ああ、自分はこういう経験があるから、『普通はさー』と言いたくなるんだ」
そこまで思わないともったいない。
せっかく人にイライラするくらい強い気持ちが出たのだから。
自分の考え方を押しつけたくなったのだから。
その考え方が悪いわけではない。
その考え方が、人を、自分を守ることもある。
大いに怒っていい。
イライラしていい。
しかしそれを「普通はさー」で片づけるのは、理由のない暴力。
「自分はこういう経験があるから、こう考えるんだ」ということを、相手に言わなくても、せめて自覚しておきたい。
自戒を込めて、そう思った。
