「役に立つ」とは、何だろう?
先日、津久井やまゆり園の事件から10年が経った。
新聞のオピニオン欄に、識者の意見が載っていた。
「『社会の役に立つ』『生産性が大事』という価値観を問い直そう」
という内容だった。
ああ。
俺はこないだ、「役に立つ」「生産性」という話をしたばかりだ。
職場の学校での研修会講師として。
「勉強すると、人の役に立つ」
「アナログな活動は、生産性につながる」
などの内容を。
そう。
識者の「『役に立つ』『生産性』によって差別してはならない」という意見はその通りだ。
しかしもう一方で、「『役に立つ』『生産性』がないと、社会が成り立たない」という現実もある。
綺麗事でなく。
そのため、役に立てる人、生産性がある人は、より役に立つこと、生産性を高めることを目指す。
役に立てる人?
生産性がある人?
たとえ仕事や家事ができなくても、その人がいるだけで役に立つことがある。
家族や友人は、その人の存在に励まされる。
それもまた生産性ではないだろうか。
だから厳密に言うと、「役に立たない」「生産性がない」ではない。
「今の社会で、労働収入を得ることが難しい人」「家事労働が難しい人」になる。
その人たちへのサポートは必要だ。
そしてサポートする人には、「役に立つこと」と「生産性」が必要だ。
これも厳密に言うと「労働収入を得られる人」「家事労働ができる人」「ボランティア等で、人をサポートできる人」となる。
サポートする人とされる人の乖離が進むと心配だ。
サポートする人の負担が増すと、事件につながる考えが増す。
だからサポートする人はチームを組んで、負担を減らす必要がある。
意識としても、「たまたま自分はサポートすることができるだけだ」と思えると良い。
これは高尚な意識になってしまうかもしれないが。
サポートされる人への意識も、「まあ、そういうもんだ」と思えると良い。
少し話はズレるが、サポートされる人の状態が軽い場合、「サポートする人兼サポートされる人」という人も存在する。
その人の存在は大きなカギだ。
どちらの気持ちも、当事者として分かるからだ。
今日受けた研修会で、「10~20年後、AIの影響で、働かなくても良い時代が来るかもしれない」という考えを聞いた。
労働収入を得ることが難しい人は、ベーシックインカムを得られると良いだろう。
これはまだ夢物語だが、もし社会全体が、労働収入が必須でなくなれば、働けないことへの差別は減るかもしれない。
それまでは、労働収入がある人、家事ができる人は、そのこと自体に感謝しよう。
「役に立つ」も「生産性」も、考えたい人は考える。
それらを意識しなくても何とかなる。
そんな社会になると良い。
