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どっちでもいい、ゆえに我あり。ダイエットとコギトの復活(前編)

「あと3キロ痩せたい」と「今の体型くらいがちょうどいい」の間を何十年も彷徨っているおばさんが通りますよ。今日のテーマは「ダイエットと哲学界隈」。

NYT記事紹介の方で、「アメリカでは、ダイエットの話題まで民主党と共和党に分かれて騒いでいる件」について書きました。この記事はそのフォローアップです。

コギト vs 構造

件のNYT記事を書いた方の結論はこうです。

「太ってる女はダメ、体重管理していつも痩せた状態でいろ」という社会的圧力がいつまでたっても無くならなくてウンザリ

それに対して、私は「女の体は常に社会に抑圧されている」という見方そのものがウンザリ、と思ったのでした。

「私は私が痩せたいから痩せたいのである、でいいじゃん?」

と、乱暴に言い放ってしまってから、これはかなりデカルトだな、と気づきました。

Cogito, ergo sum. 
コギト・エルゴ・スム
我思う、ゆえに我あり

という有名なアレですね。世の中、何が真理なのか証明できんけど「考えている自分」つまり「コギト」だけは絶対的に信じられる、それがデカルト的近代の自我。

これに対し、いまどきのWOKEが大好きな構造主義は、そのコギトだって植民地支配とか父権制度とか無意識に刷り込まれた構造をもとに「我、思って」るんですけど?と批判します。

WOKE的に言うと、女の「痩せたい願望」は社会構造による抑圧なのです。

構造の例:

ー ファッション業界はスリムなモデルを使い、女性は自分の体をモデルに合わせようとする。
ーSNSのアルゴリズムは極端なビフォー・アフター写真を流し続け、ユーザーの認知が歪む
ー医療・フィットネス業界が、痩せていることは「健康の証」であると刷り込む

例の記事では、「太らない努力をする良きクリスチャンは神に愛される」という構造の歴史を紹介していましたね。

ボディ・ポジティブの台頭と衰退

構造から自由になり、女性の体を解放しよう!というWOKEな動きを象徴する現象がありました。「ボディ・ポジティブ」です。

「どんな体型も美しい」「すべての女性をエンパワー」という考え方が流行し、ファッションブランドが「太めモデル」を起用しはじめます。下着ブランドが「無修正広告」「体型の多様性」を全面に押し出したり、サイズ展開も「インクルーシブ(= 包摂、つまり幅広い体型に対応)」がトレンドになっていきます。

当時のマーケティングセミナーでは、「世の中の動きについていけないブランドは絶滅する」ってな説教をやってました。あの頃のダイバーシティ広告の猫も杓子も感ハンパなかったわね。

その割には、「絶望的に貧乳でO脚で寸胴」とか「ありえないくらい扁平ケツ」なモデルを見た覚えはないし、需要が増したぽっちゃりモデルも「全体的なシルエットは砂時計型(ウェストの比率は小さい)じゃないと使ってもらえない」という裏話もありました。

「多様性はビジネスチャンス」という企業の下心が透けて見えるようになり、消費者はしらけ、ボディ・ポジティブはあっちゅー間に下火になっていきます。ぽっちゃりの包摂を試みた「ビクトリア・シークレット」は売り上げが落ち、セクシー路線に戻った、というオチつき。

NYTの記事で、ボディ・ポジティブの最盛期には「スリムであることを語ることすら、タブー視された」とありました。つまり「抑圧からの解放を目指す哲学」自体が、抑圧的になってしまったのです。これぞ、構造の批判者が新しい構造に囚われるという現象でございます。

だからWOKEは、いつまでたっても「抑圧者」の話ばっかりしてブーブー言ってる不幸な場所から出てこれないのよ!

私も女性を半世紀以上やってきてですね、「美しくなくても愛されるべき」「多様性こそ正義」には大いに共感してきました。それでも、「スリムになりたい気持ち」は常にあります。

それは、社会構造がそうさせてるのか?それとも、自分の体との対話の中で、何かが芽生えているのか?

「どっちでもいいよ」と言いたい。

その「どっちでもいい」と一緒に、あの古臭いやつを思い出したのです。

Cogito, ergo sum.
我思う、ゆえに我あり。
どっちでもいい、ゆえに我あり。

WOKEな視線からすれば、傲慢で時代遅れなやつ。でも、もしかしたらその古びたコギトが、構造以外の視点を持てないWOKEを、癒してくれるかもしれないのです。

<次回予告:コギトはWOKEを解放するか?>

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