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ニーヴィの羽は桜色 ②

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 湿原の柔らかな苔の上で、ニーヴィは目を覚ました。あたりはすっかり夜になっていた。上空の雲はぐんぐん流れているが、地面近くの空気は穏やかである。
 雲の隙間から時折り覗く星座は、これまで見たことのないものだった。片目で空を見上げ、ニーヴィは何が起こったのか思い出そうとした。
「気がついたか」
 声のした方を見ると、ルアンがすぐそばでうずくまっていた。
「ルアン? どうしてここに——僕は、スコールヴァルに喰われたはずだ」
 ニーヴィは身体を起こし、一度身震いしてからルアンの隣で同じようにうずくまった。
「なに言ってるの?」ルアンは呆れたように首を振った。
「お前は恐怖に囚われたせいで、尾羽から風が外れて真っ逆さまに落ちたんだよ。俺は見てた」
 ニーヴィには信じられなかった。あんなにもリアルに背後まで迫っていたスコールヴァルが、自分の心が作り出した幻だったとは。
「だけどルアン、どうして君までここにいるのさ」
 ルアンは困ったように首を傾げて言った。
「お前が落ちたら、放っておけないだろう」
「だって、いち度風から離れたらもう——」
「とにかく、俺はお前を助けるって決めてるんだ」
「それはありがたいけど、よくわからないよ。この状況で君も僕も助かりようがない——」
「あー、もう!」ルアンはうるさそうに顔を背けた。
「お前はいつもネガティブ思考で困るよ」
 ニーヴィはうなだれていたが、やがてぼそっと言った。
「とりあえず、樹の上にあがろうよ。地面は落ち着かない」
 ルアンは急にそわそわした。
「う、うん。それがだな」
「なに?」
「やってみろよ」「え?」
 ニーヴィは地面を蹴って羽ばたき、飛び上がろうとした。ところが、いくら羽をばたつかせても、身体が浮かなかった。彼は真っ青になった。
「と、飛べない?」
 ルアンは星を見上げて言った。
「どうやらここは、そういう場所らしい」

 ふたりは茂みの中で一夜を過ごし、朝を迎えた。明るくなってから辺りを見渡すと、広々とした湿原の向こうに、緩やかな川が流れていた。
 ルアンが顔を輝かせて言った。
「ミストラル川だ! 山からずっとここまで続いていいるんだ。このまま川に沿って下流に行けば、きっとエルドヴァルの森へたどり着けるよ」
 ニーヴィはうんざりした調子で言った。
「へえ、歩いて行くの? まったく君のポジティブ思考にも参るよ」
 ふたりはピョンピョン跳ねたり、歩いたりしながら川までたどり着いた。
 緩やかに見えた川は、近くでみると意外にも流れが速かった。川面に落ちた木の葉は、流れに揉まれてすぐに沈んだかと思うとまた浮き上がり、あっという間に流されて見えなくなった。
 ふたりは、無言で流れを見つめていた。
 すると、まるでニーヴィの羽のような桜色の光が、川面に広がってきた。やがてその光は水面から浮かび上がり、一艘の小舟の形になった。
 小舟は流れる川の真ん中で静止し、気がつくとその上に湿原の女神が立っていた。
 細くしなやかな身体、透き通るような肌、髪は風に舞う花びらのように揺れ、瞳は水面のきらめく光をたたえている。
「私は、シルフィア」
 そう告げた声は、霧の向こうから届く鈴の音のようだった。
 ニーヴィとルアンは、何が起きたの理解できずに固まっていた。シルフィアはゆっくりと目を細め、少し開いた唇の端を上げた。世界中に春が来たような微笑みだった。
 小舟は音もなく岸に近づき、ふたりの前で停止した。
 湿原の女神は、透明な金属のような声で言った。
「風は道を閉ざすことがあります。けれど、閉ざされた道の先にも、また別の風が吹いているのですよ」
 ニーヴィとルアンは、シルフィアにすっかり見とれて夢見心地になっていた。女神はふたりを交互に見て言った。
「ニーヴィ、あなたは《開く風》。ルアン、あなたは《守る風》ですね」
 そして、ふたりに向かって両手を差し出した。
「落ちた者たちよ、空を恐れることはありません。水があなた方を風の道へ返してあげます」
 ニーヴィとルアンは、顔を見合わせた。
「さあ、舟に乗りなさい。空に戻れる場所まで、水があなた方を運びます」
 ふたりは、導かれるままに小舟に飛び乗った。
 シルフィアはまた満開の桜のような微笑みを浮かべると、ゆっくりと右手を上げて下流を指差した。すると、小舟は滑るように動き始めた。

 川は広大な湿原の中を流れ、いくら進んでも辺りの景色はほどんど変わらなかった。
 ニーヴィとルアンは小舟の中にうずくまり、シルフィアはずっと立っている。ルアンは、思い切って尋ねた。
「どうして、ここでは飛べないんですか」
 シルフィアは微笑んで答えた。
「その時が来れば、また飛べるようになります」
 ルアンは少しほっとした。ニーヴィも口を開いた。
「僕、スコールヴァルに食べられたかと思ったんです。ものすごく怒ってましたから。あの後、群れのみんなは大丈夫だったんでしょうか」
 シルフィアは、しゃがんでニーヴィとしっかり目を合わせて言った。
「あなたが食べられたのは、本当です。あなたは生贄だったのです」
 ニーヴィは頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けた。女神は再び立って続けた。
「今年は大地と空が乱れていました。それが風の狼の怒りを買ってしまったのです。こうなることは、わかっていました。だからあなたが必要だったのですよ、ニーヴィ。あなたのおかげで、群れは無事です」
 ルアンはシルフィアの話に驚くと同時に、怒りが湧いてきた。
「だからニーヴィを渡りの一番後ろに? ひどいよ」
 ニーヴィはぽつりと言った。
「僕、役に立ったんだね」

 湿原は徐々に狭まり、川岸に立つ樹木が増えてきた。そろそろ舟旅も終わりに近づいている。
 シルフィアが、前方に見えてきたこんもりと茂る森を指差して言った。
「あそこに見えているのがエルドヴァルの森です。この舟があなた方を運べるのはここまで。心配しなくても、もう飛べるはずです」
 ニーヴィとルアンは顔を見合わせ、羽をブルブルさせてみた。確かに、また空と仲良くなれそうな力がみなぎっている。
「ひとつ、注意があります」女神は続けて言った。「エルドヴァルの森に入る手前には『風の門』があります」
『風の門』——ふたりは、ミストラル山での訓練で学んだことを思い出す。エルドヴァルの森からの精霊風によって、常に南から北への一方通行にしか開かない門のことだ。
「あなた方の群れは、既に三日前にスコールヴァルの風の力によって『風の門』を逆から入ることに成功しました」
 三日前——いつの間にそんなに時間がたっていたのだろうと、ふたりは首を傾げる。
「スコールヴァルの風は、目覚めたときが一番強いのです。風が弱まる前に『風の門』を通過してください」
 ふたりは急に心配になってきた。せっかくここまで来られたのに、門が閉まって入れなかったのでは意味がない。
「さあ、行きなさい」シルフィアが力強く言った。
「女神さま、助けてくれて、ありがとうございました」ルアンが慌てながらもしっかりと伝えた。
 ニーヴィは名残惜しそうに「また、あなたに会えますか?」と訊いた。
 シルフィアは今までで一番大きく笑った。
「また落ちたいの?」
 舟が急停止した。その反動でふたりは飛び出した。
 そして瞬く間に空高く舞い上がった。もう振り返ることもない。
 そんなふたりを湿原の女神は眩しそうに見送った。

 上空には、スコールヴァルの風がまだ強く吹き付けていた。ふたりは尾羽に風をしっかりと結びつけ、『風の門』を目指した。
「これくらいの風なら、快適だね」ニーヴィが軽口を叩くと、ルアンが厳しい表情で返した。
「つまり門が閉じかかっているってことだ」
 ふたりは全速力で飛び続けた。
 果たしてふたりの前方に、巨大な両開きの門が姿を現した。その重厚な扉は、今まさに、内側から閉じようと隙間を狭めているところだった。
「飛び込め!」ルアンが叫ぶ。
 ふたりがぎりぎり隙間を通過した直後に、門扉は盛大に軋む音をさせながら完全に閉じた。
 そして今度は音もなく、ゆっくりと外側に開きだした。
 門の内側から外に向けて、緩やかだか不可逆の精霊風が吹き出して、もう外側から入ることはできない。
「間に合った——」
 ルアンは近くの木に止まり、ほっと一息ついた。ニーヴィもその隣で息を整えた。

「ルアン! ニーヴィ!」
 ふたりを呼ぶ声がした。勢いよく飛び込んできてふたりの間に割って入ったのはフローナだった。
「フローナ!」ふたりは同時に叫び、再会を喜び合った。
「私、信じてたの、ふたりとも絶対にここまで来るって」フローナは涙ぐみながら言った。
「今日、門が閉まりそうだったからずっと見張っていたの。良かった、間に合って」
「本当にぎりぎりだったよ」ルアンもつられて涙ぐみそうになった。
「う——」ニーヴィは泣いていた。
「ニーヴィ!」フローナとルアンは驚いた。今まで彼のここまで感情的な姿は見たことがなかった。
「僕——」泣きじゃくるニーヴィに、フローナが優しく寄り添った。
「さあ、みんなのことろへ行きましょう」

 ヴィンドラ族の群れは、エルドヴァルの森でひと冬を過ごす。もう若鳥の飛行訓練は必要ない。この豊かな森では、ひたすら食べて体力を蓄える。春の渡りと、その後の繁殖に備えるためである。南から北への帰路は精霊風に乗って、ゆっくりと数日かけて渡ることになる。
 森の木々には群れの仲間たちが三々五々集まって、それぞれに寛いでいた。長老の木は決まっていて、やはり森で一番の樹齢と風格を誇る巨木である。
 フローナは、ニーヴィとルアンを長老の元へ案内した。その途中で会った群れの仲間たちは、もうニーヴィを見ても眉を顰めたりはしなかった。それどころか、会えたことが嬉しいとでもいうように、微笑みかけてくる者さえあった。
 ニーヴィは、そんな周りの変化に戸惑っていた。
「長老、ニーヴィとルアンが到着しました」
 フローナが話しかけると、うずくまっていた長老がゆっくりと顔を上げてふたりを見た。少し痩せたようである。
「ニーヴィ——」長老に話しかけられて、ニーヴィは一歩進み出た。
「お前はやはり『兆し』ではなく『鍵』であった。お前が厄災を呼んだのではない、厄災からお前が群れを救ったのだ。お前は渡りのしんがりを立派に務めた。よくやった」
 ニーヴィは、スコールヴァルに吞み込まれた瞬間を思い出して身震いした。
「それから、ルアン」長老に呼びかけられて、ルアンが前に出た。
「お前が我が身の危険も顧みず、ニーヴィの後を追って自ら落ちたことは、決して褒められた行動ではない」
 ルアンはきまり悪そうに視線を泳がせた。
「だが、その勇気は讃えよう」
 長老の言葉に、ルアンの頬が紅潮した。
「ゆっくり休むがよい」
 そう言って長老自身も目を閉じた。

 もう、ニーヴィの羽色に嫌悪感を示す者はいなくなった。彼は群れに受け入れられたのだ。
 ニーヴィは今、生まれて初めて心から寛いだ気分で羽繕いをしていた。彼が一心不乱に自身の羽根をつつくたびに、桜吹雪のような羽毛がふわふわと辺りに舞った。
 ヴィンドラ族は、越冬地で換羽期を迎える。年に一度、すべての羽毛が抜けて新しく生え替わるのだ。換羽の最中は体力を消耗するので、みなだるそうにしている。若い者ほど一気に生え替わり、年を取った者は少しずつ時間をかけて生え替わるが、とくに年かさの者にとっては、乗り越えられない場合すらある危険な時期でもある。
 ニーヴィの隣にフローナが来て、やはり羽繕いを始めた。すると、トレードマークだった一本の灰色の尾羽が抜けて落ちた。
 ひらひらと舞い落ちていくその羽根を、ニーヴィはなんとなく目で追っていた。羽根が落ちた地面に、ぬらぬらと光る長いものがいた。
「蛇だ!」ニーヴィは叫ぶと同時に飛び上がった。
 フローナも、付近にいた仲間たちもみな一斉に飛んだ。
 蛇は彼らの天敵である。エルドヴァルの森は一年中温暖で、冬眠することのない蛇には常に警戒が必要なのだ。
 ニーヴィとフローナは、離れた場所の高枝に飛び移り、ほっと一息ついた。
「危なかったわね。気がついてくれてありがとう、ニーヴィ」フローナが言った。ふと見ると、目の前の枝にルアンがいて、ガタガタと震えている。
「ルアン、大丈夫?」ニーヴィが声を掛けると、ルアンははっとして目を見開いた。その目は何も映していないように虚ろで、言葉をすべて失ったかのように、開いた口からは何も出てこなかった。
 ルアンの様子がおかしいので、ニーヴィとフローナは彼の枝に飛び移り、間に挟んで止まった。
 フローナは嘴でルアンの羽を優しく繕いながら言った。
「蛇が怖いのね。みんなそうよ。ここまでは上がって来られないから安心して」
 ルアンは首を振り、かすれた声で言った。
「君にはわからないよ、フローナ」
 フローナの嘴が止まった。ルアンは震えながらぽつりぽつりと話しだした。
「君は、特別だ。巣の中で、君だけが選ばれたんだ」
 フローナの表情が曇った。
「俺は——選ばれたわけじゃない。残されたんだ。巣の中で、俺ひとり」
 ニーヴィもフローナもじっと固まって聞いていた。
「俺はたまたま、一番後ろにいたんだ、俺の前にいたきょうだいは、全員喰われた。奴に。俺が喰われなかったのは、俺の前で奴が腹いっぱいになったからだ」
 森の精霊たちが一斉に沈黙したような静寂の中、ルアンは続けた。
「フローナ、君は誰もが認める長老の後継者だ。わかりきってる。光り輝く卵から生まれた時に決まっていた。だから長老直々の教育も受けている。君には他のきょうだいの命を奪っただけの価値がある」
 フローナが首を横に振った。ルアンは構わずに続けた。
「俺は? 俺の前にいたきょうだいの方がずっと優秀だったんじゃないのか? 力もあって、賢くて、だから前にいたんじゃないのか?」
 フローナの目から涙がとめどなく溢れ出した。
「俺は、なんの価値もないのに生き残った。だから、だからせめて——」
 ルアンはニーヴィを見た。
「役に立ちたかったんだ。俺より——俺より弱そうな奴の——」
 ルアンはふたりの間から飛び出すと、離れた枝に止まった。
「だけど、お前はもう俺の助けなんかいらない。群れを救ったヒーローだからな」
「ルアン!」
 ニーヴィが叫んだのと同時にルアンは飛び立った。そして、薄暗くなりかけている森の奥へ消えていった。

 その夜、群れのねぐらにルアンの姿はなかった。
 翌朝、ニーヴィは彼を探しに行こうと決意した。
「君はいつも僕を救ってくれた。今度は僕の番だよ、ルアン」
 ニーヴィは、ひとり鬱蒼とした森の奥へ進んでいった。
 ほどなくして、広い湖のほとりに出た。どうやらここにミストラル川が流れ込んでいるらしい。
 ニーヴィは水際に降り立ち、湿原を渡ったときの勢いよく流れていた川と、美しい女神のことを思い出した。
「シルフィア——」思わずその名前を口にした。
 すると、ふいに鋭い風が目の前を横切った。そしてどこからともなく声が聞こえた。
「湿原の女神を知る者よ。そなたは《開く風》か」
 ニーヴィはキョロキョロと辺りを見回した。すると目の前に、森の古精霊でありその名が森そのものでもあるエルドヴァルが姿を現した。
 エルドヴァルは全身が光でできており、その姿形はとらえどころがなく常に変化しながらも、威厳と深いやさしさに満ちていた。
 ニーヴィはどぎまぎしながら答えた。
「女神が僕のことをそう呼んでいました。あなたは、女神のお知り合いですか? この湖が、きっと女神の川と繋がっているんですね」
 エルドヴァルが、顔のあるあたりで笑ったように見えた。
「そうだ。北からのしらせは、水が伝えてくる」
 ニーヴィは、この精霊ならきっとルアンの居場所を知っているのではないかと思った。
「あの、僕、ルアンを探しているんです」
「ルアンとは」古精霊が訊いた。
「僕の——ともだちです」そう答えて、ニーヴィの身体は熱くなった。
 エルドヴァルの光がまたたいた。
「その者は《守る風》であろうな」
 ニーヴィはぱっと顔を上げてから、力強く頷いた。
「女神が彼のことをそう呼んでいました」
 すると、エルドヴァルはルアンに似た姿に変身した。
「その者は、このような形であろうな」
「そうです! そうです!」ニーヴィは嬉しくなって叫んだ。
 その途端に、エルドヴァルの姿は忽然と消えてしまった。
「——え?」
 ニーヴィは茫然と立ち尽くした。てっきり居場所を教えてもらえると思ったのに、あまりにも突然に古精霊はいなくなってしまった。
 『その者は、このような形であろうな』——精霊の言葉が頭の中で反芻される。
「僕はルアンのこと、本当は何もわかっていなかったんだ」
 ニーヴィはそのことに気づいた。
 その時、ふいに強烈な悪寒が背中に走った。
 振り向くと、目の前で大蛇が今にも噛みつきそうに大きな口を開けていた。その姿は禍々しくぬめり、開けた口の広さはニーヴィの背丈を優に超えている。ニーヴィは凍り付いた。
 大蛇の牙からは毒液が滴り落ち、目は無表情にニーヴィを見据え、今まさに飛び掛かろうとしている。逃げなくては。だが身体が痺れて動けなかった。
 大蛇が一瞬の動きでニーヴィを呑み込もうとしたとき、あいだに何者かが飛び込んできた。
 ルアンだった。
 ルアンは、ニーヴィの目の前で、スローモーションのように大蛇に呑み込まれていった。
「だめ! だめだめ!」ニーヴィは叫んだ!
 同時に、ニーヴィも大蛇の口の中へ飛び込んだ。
 ——そのつもりだったが、そこに大蛇はいなかった。
 ただ、ルアンが倒れていた。






へつづく


画像:いしも ともりさん


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