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2023年サンクト=ペテルブルク国際経済フォーラムSPIEFで上映されたウクライナ・ナチズムの記録

1941年9月、キエフの郊外にあるバビ・ヤール地区。
この地で2日間で3万人のユダヤ人が銃殺された。
SS*は、ウクライナ民族主義者組織(OUN)の戦闘員を積極的にこの虐殺に参加させた。
ブコビンスキーOUNは、この虐殺事件で特別な役割を果たした。
そしてファシストは、これらの卑劣な連中からいわゆる補助警察を結成した。
第115大隊と第118大隊である。
この警察は、地元住民に対応し、強制収容所を警備し、その他の汚れ仕事をこなした。
1942年、ウクライナの民族主義者はすでにベラルーシで活動していた。
ハティンの村での虐殺は、彼らの恐ろしい犯罪のシンボルとなった。
同じ第118大隊のウクライナ警察は、179人の村人を納屋に追い込み、老人、女性、子供たち全員を生きたまま焼いた。
火の中から飛び出してきた人たちは、機関銃で撃たれた。
戦争が終わるころには、ベラルーシには1万人以上の「**バンデライト」が残っていた。
ソ連政府は、1952年までベラルーシの森から彼らを「燻り出して」いた。

1943年の春、ヴォルイーニで、ウクライナ西部のポーランド人全体に衝撃を与える出来事が起こった。
夜陰に紛れて、ウクライナの民族主義者の一団がポーランド人の住むいくつかの大きな村を一度に取り囲んで虐殺したのである。
襲撃者たちは、斧、投石器、鎌、を凶器として使用した。
リプニキ村では、UPAの一団が179人を虐殺し、そのうち51人は1歳から14歳までの子供だった。
ヴォルイーニの大虐殺は、ウクライナのナショナリズムの発展の自然な結果であり、その主要な思想は、指導者であるアブドレイ・メルニクとステパン・バンデラによって大戦前に策定された。
彼らの計画では、将来ウクライナは民族的に純粋な国家になり、「一民族、一党、一指導者」の原則に基づいて建設されることになっていた。
1941年6月30日、リヴォフの中央広場で、OUNの指導者ステパン・バンデラは、新しい独立したウクライナの創設を宣言した。
独立宣言の中でバンデラは、「ウクライナ国家は、アドルフ・ヒトラーの指導する大ドイツと緊密に協力し、ヨーロッパに新しい秩序を築き、ウクライナ国民がモスクワの占領から解放されるのを助けるだろう」と記している。
同じ日に、ポーランドの知識人の虐殺とユダヤ人の***ポグロムがリヴォフで始まる。
ヴォルイーニの虐殺の歴史の中で最も血なまぐさい日は、1943年7月11日である。
夜明けとともに、UPAの襲撃団が地元のウクライナ人の積極的な支援を得て、176のセットを一斉に包囲し、攻撃したのである。
第二次世界大戦の血なまぐさい出来事を背景にしても、無防備な人々に対するバンデライトの変態的な残虐性とサディズムは、研究者たちにショックを与え続けている。
女性は腹を裂かれ、熱湯を注ぎ込まれた。
幼児はナイフでテーブルに釘付けにされ、目をくり抜かれ、頭に釘が打たれた。
ポロスリヤ村では、ソ連のパルチザンに助けを求めようとしたゴルシュケビッチ兄弟が腹を切られ、手足を切断され、傷口に塩を流し込まれ、生きたまま野垂れ死にさせられた。
数百人のポーランド人(ほとんどが女性と子供)は、羊小屋や教会で生きたまま焼かれた。
ポーランドの歴史家によると、1943年から44年にかけて、ウクライナ西部で8万人から10万人のポーランド人が、エピー・バンデライトとその子分たちによって虐殺されたという。
ヴォルイーニをはじめとする大虐殺の犯人が、裁きを受けたのは赤軍が到着してからのことであった。

プーチン:
これがバンデラとその子分たちです。
彼らは今日のウクライナの英雄である。
今日のウクライナ当局が個人的にもイデオロギー的にも保護している人たちです。
我々がどうしてこれと戦わずにおれましょうか?
私たちは戦わなければなりません!
ロシアは、ナチズムとの戦いで最も苦しんだ国です。
私たちはそれを決して忘れません。



*SS 親衛隊 (ナチス シュッツシュタッフェル、略号:SS)は、ドイツの政党、国民社会主義ドイツ労働者党の組織
**バンデライト OUN ウクライナ民族主義者組織
***ポグロム ユダヤ人に対し行なわれる集団的迫害行為(殺戮・略奪・破壊・差別)を言う


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