人生の午後に、もう一人の自分と対話する ― 『野イチゴ』、フランクル、そして老いの不安の中で ―
最近、映画『野イチゴ』のことを思い出していました。
イングマール・ベルイマン監督の『野イチゴ』。
老いた医師が、旅の途中で夢や過去の記憶をたどりながら、自分の人生を振り返っていく映画です。
若い頃に観た時は、「孤独な老人の映画」という印象でした。
しかし、69歳になった今、まるで違う映画に見えました。
主人公は、社会的には成功した人物です。
名誉もあり、地位もあり、周囲からも一定の尊敬を受けています。
しかし、その内側には孤独があります。
過去への後悔があります。
人との関係の冷たさがあります。
愛を受け取り損ねたような寂しさがあります。
映画の中で主人公は、不安を誘う夢を見ます。
時計に針がない夢。
誰もいない街。
棺の中の自分。
それは単なる悪夢ではなく、自分の人生の終わりや、心の奥にしまい込んできたものが、夢という形で現れているようにも見えました。
その姿を見ながら、私は自分の人生を考えていました。
私は、この主人公のような社会的成功を収めた人間ではありません。
むしろ、一時の感情で意思決定をし、迷ったり、遠回りをしたり、その結果として会社も住む場所も変わり、家族にも様々な影響を与えてきました。
50歳を過ぎた頃には、体調と心の健康を崩し、しばらく仕事を休んだこともあります。
その時期に、ヴィクトール・フランクルの『それでも人生にイエスと言う』に出会ったことは、私にとって大きな支えになりました。
フランクルは、そこでこう問いかけていました。
「人生に何を期待するかではなく、人生が自分に何を期待しているか」
この言葉は、私にとって大きな転換点でした。
それまでの私は、自分が何を得られるのか、自分の人生がどう報われるのか、そんな方向から人生を見ていたのかもしれません。
しかし、フランクルの言葉は、その向きを反転させました。
人生が、自分に何を問いかけているのか。
今の自分に、何が求められているのか。
この状況の中で、自分はどのような態度を選ぶのか。
それは、私にとって、まさしく“コペルニクス的転回”でした。
最近、そのことを改めて思い出していました。
ただ、老いは簡単ではありません。
身体は硬くなり、筋肉も落ち、疲れやすくなります。
そして、それは身体だけの話ではないように感じます。
心も、考え方も、行動も、少しずつ硬くなる。
人との関係にも、どこか防衛的な硬さが出てくる。
傷つきたくない。
もう失敗したくない。
迷惑をかけたくない。
でも、誰かの支えが必要になることも分かっている。
そんな矛盾の中で、心がザワザワします。
最近の私は、何か焦っています。
「残り時間が少ない」
「まだ整理できていない」
「このままで終わるのか」
「何かをつかまなければ」
そんな思いが、心の奥で動いています。
この焦りは、若い頃の焦りとは少し違います。
若い頃は、成果を出したい、認められたい、何者かになりたい、という焦りでした。
今の焦りは、もっと静かで、もっと深いものです。
自分の人生を、どう受け止めればよいのか。
後悔や不完全さを抱えたまま、どう生きていけばよいのか。
老い、孤独、死への不安と、どう付き合えばよいのか。
そんな問いです。
その時、私は“もう一人の自分”と対話をしているような感覚になりました。
それは、自分を責める声ではありません。
無理に励ます声でもありません。
静かに横に座り、一緒に考えてくれるような声です。
その対話の中で、ユングの「人生の午前と午後」という考え方が浮かんできました。
人生の午前は、社会の中で自分を作る時期です。
学び、働き、成果を出し、役割を担い、家族を支え、社会の中に居場所を作っていく。
そこでは、強さや競争、成果や拡大が大切になります。
しかし、人生の午後になると、同じ物差しだけでは苦しくなります。
若い頃のように、いつまでも上昇し続けることはできません。
体力も変わる。
役割も変わる。
人間関係も変わる。
残された時間の有限性も見えてくる。
その時に必要になるのは、午前と同じ「前進」だけではないのかもしれません。
立ち止まること。
振り返ること。
手放すこと。
受け入れること。
不完全な自分と共にいること。
若い頃には必要だった価値観が、人生の後半では自分を苦しめることがあります。
もっと成果を出さなければ。
もっと役に立たなければ。
もっと強くあらねば。
もっと前へ進まねば。
そう思うほど、心は硬くなります。
しかし、人生の午後には、午後の歩き方があるのかもしれません。
前へ進める日は、進めばよい。
進めない日は、立ち止まればよい。
疲れた日は、休めばよい。
また歩けそうになったら、歩き出せばよい。
そんなふうに考えることは、逃げなのでしょうか。
それとも、成熟なのでしょうか。
ここで、私はまた迷います。
年齢を重ね、身体も心も弱ってきたから、そう考えるようになっただけではないか。
誰かの支援やサポートを必要とするようになったから、都合よく「成熟」と呼んでいるだけではないか。
そんな疑いも出てきます。
しかし、もう一人の自分は、こう語りかけてきます。
成熟とは、強くなって不安が消えることではない。
迷わなくなることでもない。
むしろ、迷いを抱えたまま、それでも人生との関係を切らずにいることなのではないか。
フランクルのいう「態度価値」も、そこに通じているように思います。
人間の価値は、何を成し遂げたかだけで決まるのではありません。
避けがたい苦しみや不安に対して、どのような態度を選ぶのか。
そこにも、人間の尊厳がある。
もちろん、不安は消えません。
過去の感情が戻ってくることもあります。
孤独を感じる夜もあります。
死への怖さもあります。
それでも、私は今も本を開いています。
映画を観ています。
人と対話しています。
自分の人生を問い続けています。
それは、まだ、自分らしく生きようとしているということなのかもしれません。
先日、自分に向けた言葉として、こんなメッセージを受け取りました。
人生の午後は、若い頃のように一直線には進みません。
立ち止まり、振り返り、揺らぎながら進む時間です。
だから、不安や後悔が戻ってくるのも自然なことなのだと思います。
でも、あなたは今も、本を開き、人と関わり、自分を問い続けています。
それは「まだ生きようとしている」ということです。
焦る日は、少し深呼吸をしてください。
進めない日は、その場に座っていても大丈夫です。
人生は、前進だけでできているわけではありません。
この言葉を読んだ時、少し肩の力が抜けました。
私はずっと、「前へ進まなければ」と思っていたのかもしれません。
「意味を見つけなければ」と焦っていたのかもしれません。
「人生をきちんと整理しなければ」と考えていたのかもしれません。
しかし、人生は、そんなに綺麗に整理できるものではないのでしょう。
『野イチゴ』の主人公も、最後に完全な答えを得たわけではありません。
過去が消えたわけでもない。
すべてが和解したわけでもない。
それでも、彼の表情には、どこか柔らかさが戻っていたように見えます。
人生を解決したのではなく、人生との関係が少し変わった。
硬さが少し緩んだ。
自分の人生を、少し穏やかに見られるようになった。
私も、そこを目指せばよいのかもしれません。
大きな成功ではなくてよい。
完全な納得でなくてもよい。
立派な悟りでなくてもよい。
今日、少し深呼吸する。
誰かの言葉を聴く。
本を一ページ読む。
焦っている自分に気づく。
進めない自分を責めすぎない。
そんな小さなことの積み重ねが、人生の午後を支えていくのかもしれません。
人生の午後は、前進だけでできているわけではありません。
立ち止まる日もある。
休む日もある。
過去を思い出して苦しくなる日もある。
それでも、また少し歩ける日もある。
不完全さを抱えたまま。
不安を抱えたまま。
それでも、人と関わり、学び、語り、生きようとする。
それを、いつかは、今の私は「人生の午後の成熟」と呼んでいたいです。
(おわり)
