第41回「焼き討ちにされたオニールの館」演奏:ウェクスフォードの少年、ささやきのハープ オニール編
ささやきのハープ・オニール編、第41回です。この番組では18世紀アイルランドの盲目のハープ奏者、アーサー・オニールの回想録を、演奏を交えながら解説しています。
前回は、オニールが設立しようとしたハープ学校の理念についてご紹介しました。彼は、アイルランドの国章でもあるアイリッシュハープを、生きた伝統として存続させるべく、当時すでに高齢でありながら後継者の育成に尽力しました。また、アイルランドの慣習に基づき、視覚障害者や身体障害者が身につける職業として、無償で教育を授けるための寄付を募っていました。しかし、1798年のアイルランド反乱、武装蜂起によって、支援者だったサマーヴィル大尉が亡くなり、この計画は頓挫してしまいました。
さて、ここからオニールの回想録は、時代が1780年代へと戻ります。
「私が最初のグラナード・フェスティヴァル、すなわちボールの知らせを聞いたのは、グレナートの兄弟フェルディナンドのもとにいたときだった。そこからロングフォード州へ向かったが、途中でいくつかの紳士の館に立ち寄った以外、特に出来事はなかった。同じくグラナードへ向かっていたパトリック・カーとも道中で出会った。私はグラナードの町やその周辺に、およそ一か月滞在した」
このあと、いよいよグラナードで開かれたハープ・フェスティヴァルの話に入るのですが、その前に、オニールの兄弟フェルディナンドについて少しお話ししたいと思います。
直前に1798年の反乱のお話が出てきましたが、実はフェルディナンド一家とアーサー・オニールも、この事件に巻き込まれていました。しかし、オニール自身の回想録では、この出来事についてほとんど触れられていません。
音楽学者フラッドは、次のように述べています。
「カレドン近郊のグレナーブにあった彼の祖先の屋敷は、1798年の反乱の混乱の中で焼失し、彼は再び旅の音楽家としての生活を始めた」
また、金属弦ハープ研究者ロバート・ブルース・アームストロング Robert Bruce Armstrong (1838-1913) は、オニールのハープについて次のように書いています。
「グレナーブのオニール家の屋敷が焼かれたとき、アーサー・オニールお気に入りのハープも焼失したという伝承が残っている」
グレナートはこの地の古い呼び名で、現在はグレナーブと呼ばれています。フラッドの記述には慎重になる必要がありますが、この出来事を裏付ける史料が後に発見されました。
レイモン・オムーリー Réamonn Ó Muirí が1987年、『アーマー史研究』に発表した論文「1798年の軍事裁判 1798 Court Martial」です。そこには、オニールの家が焼かれたときの生々しい証言が記されています。
1798年7月7日土曜日の夜、ウィリアム・ハンター中尉 Lieut. William Hunter of the Moy Corps が率いるモイ義勇兵たちが、突然フェルディナンドの家を取り囲みました。
中尉は、「武器を捜索するため戸を開けよ」と何度も叫びます。しかし返事はありません。兵士たちが戸を壊して中へ入ると、熊手を持ったフェルディナンドが応戦しました。ハンター中尉は部下に命じ、彼のいる部屋へ発砲させます。
そして、「降伏しなければ家を焼く」と告げ、ついにオニールの屋敷へ火が放たれました。
燃え上がる家の中には、フェルディナンドの妻と二人の子ども、職人、そしてアーサー・オニールの使用人がまだ取り残されていました。
近隣住民フェアの証言によると、救い出された子どもの一人は、アーサー・オニールの子どもではないかと思われていたといいます。また、フェルディナンドの息子フェルディも助け出されました。しかし、彼の母親は胸を銃弾で撃たれ、その場で亡くなってしまいました。
さらに家の中には、
「一台のハープがあり、それは盲目の男、オニールの兄弟の所有物であり、彼はそれによって生計を立てていた。そのハープは持ち出され、納屋の壁に立てかけられた」と証言されています。
裁判では証言に食い違いも多く、最終的に指揮官は無罪となりました。
このように、オニールは家族を奪われ、自身のハープも危うく焼かれそうになっていたのです。
アームストロングが伝える「ハープが焼失した」という話は、どうやら正確ではないようです。
このとき、アーサー自身がその場にいたという証言はありません。おそらくオニールが訪れたとき、いつでも演奏できるよう家に置かれていたハープだったのでしょう。実際、オニール自身も「自分のハープを持ち歩く必要はなかった。というのも、私が立ち寄るほぼすべての家にはハープが置いてあったからである」と語っています。
私が驚いたのは、オニールの子どもと思われる人物が館にいたという証言です。ハープ奏者アーサー・オニールが結婚したことや、子どもがいたという記録は、今のところ見当たりません。証言した人物も確証があったわけではないので、おそらく盲目のオニールを案内していた少年だったのではないでしょうか。
ただ、本人がいないにもかかわらず、オニールの案内役や使用人が館にいたというのは、少し不自然な気もします。
それにしても、目の前で母親を殺されてしまったフェルディナンドの息子が気の毒でなりません。彼の名前も父親と同じく、フェルディナンドだったようです。
オムーリーの論文には、オニールの父親の墓についての記録も紹介されています。
エグリシュ墓地には、「ここにアート・オニールの遺体が眠る。1777年2月3日没、享年63」という墓碑銘があり、これがオニールの父親のものだといいます。
これによって、ハープ奏者アーサー・オニールの父親もアーサーという名前だったこと、そして1714年頃の生まれであることが分かります。
私はこれまでフェルディナンドをアーサーの兄だと思っていたのですが、ひょっとすると弟だったのかもしれません。エドワード・クロフトンの長男もエドワードであり、フェルディナンドも自分の息子に同じ名前を付けていることを考えると、その可能性もありそうです。
回想録に戻ると、ちょうどグラナードのハープ・フェスティヴァルが開かれる数年前に父親が亡くなっていたことになります。しかし、オニールはそのことについても何も触れていません。かつてはダンガノンの父の家へ帰っていましたが、その後はフェルディナンドのいるグレナーブを実家のように訪れていたようです。
このように、オニールは個人的に大変つらい経験をしていたにもかかわらず、それを回想録ではあえて語ろうとしませんでした。むしろ、さまざまなハープ奏者たちの面白い逸話を語り、人々を楽しませようとしていたエンターテイナーだったように思います。
1798年の反乱では、多くの愛国歌が生まれました。「1798年反乱歌」と呼ばれる一つのジャンルを形成するほどで、現在でも歌い継がれています。
その中の一つが「ウェクスフォードの少年」、The Boys of Wexfordです。これは南部ウェクスフォードで起こった大規模な反乱をたたえる歌で、後に讃美歌にも取り入れられ、日本では「みどりの野辺も」として知られています。
本日はアルバム『ケルトの讃美歌』より、20弦の金属弦ハープで演奏する「ウェクスフォードの少年」をお聴きください。
