「ぼく」と「君」の日常ノワール『半分だけ持つ』――「パンフレットは一枚でいい」
受付の人は、ぼくたちを一度だけ見てから言った。
「パンフレットは一枚でよろしいですか」
君は、二枚、と言いかけて黙った。
ほんの少しだけ口が開いて、閉じた。
ぼくはそれを見た。
受付の人は見ていなかったと思う。
「一枚で」
ぼくが言った。
君はこっちを見なかった。
受付の人は、古い地図が印刷されたパンフレットを一枚だけ差し出した。
薄い紙だった。
そこは、駅から少し歩いたところにある小さな資料館だった。
町の歴史資料館。
入口には、色の褪せたのぼりが立っている。
消えた川と古い町名展
人はほとんどいなかった。
館内は静かで、床だけが少し鳴る。
壁には古い地図。
ガラスケースの中には、昔の切符や、町内会の札や、川に架かっていた橋の写真が並んでいる。
君は受付で渡されたパンフレットをまだ受け取らない。
ぼくが持っている。
「持つ?」
ぼくが聞く。
「一枚で、って言ったのは君」
「うん」
「じゃあ、持って」
「怒ってる?」
「怒ってない」
「二枚ほしかった?」
君は展示室のほうを見たまま言う。
「二枚って言ったら、ふたりになる気がした」
「もうふたりで来てる」
「そういう正しさ」
「今日は?」
君は少し考えた。
「受付では、要らなかった」
パンフレットは、三つ折りだった。
開くと、町の古い地図が載っている。
今は暗渠になっている川筋が、青い線で描かれていた。
青、といっても、少し灰色がかった青。
古い町名が小さな文字で並んでいる。
今の地名とは、少しずつ違う。
「読める?」
君が聞く。
「小さい」
「貸して」
ぼくはパンフレットを渡した。
君はそれを受け取って、少しだけ顔を近づける。
「昔の名前って、変だね」
「町名?」
「うん」
「どう変?」
「なくなったのに、読める」
「地図だから」
「そういう正しさ」
「展示室では?」
「少し要る」
君は地図の上を指でなぞった。
青い川筋。
今はもう地上にはない川。
「この川、どこにあるの」
「今は地下じゃない?」
「見えないのに、あるんだ」
「たぶん」
「そういうの、嫌いじゃない」
君はパンフレットを返そうとして、やめた。
「持ってていい?」
「うん」
「一枚だけど」
「うん」
「じゃあ、あとで読めないよ」
「読めないところは、君が読んで」
君は少しだけこちらを見た。
「そういう分担」
「だめ?」
「今日は、少し危ない」
最初の展示は、古い航空写真だった。
白黒の町。
今より建物が少なくて、道路も細い。
写真の端に、小さな川が写っている。
君はその前で立ち止まった。
「これ、川?」
「たぶん」
「細いね」
「今はないんだよね」
「ないって、どういうことなんだろう」
「埋めたとか、蓋をしたとか」
「蓋」
君はその言葉を小さく繰り返した。
「川に蓋をするって、すごいね」
「都市計画?」
「そういう正しさ」
「今日は?」
「少し怖い」
君はパンフレットを開く。
展示の写真と、パンフレットの地図を見比べる。
「ここ?」
「たぶん、こっち」
ぼくが指を伸ばす。
同じ地図を覗き込む。
顔が近くなる。
君は避けなかった。
でも、こちらも近づきすぎないようにした。
パンフレットの上で、ぼくの指と君の指が少しだけ重なりそうになった。
重ならなかった。
「ここだね」
君が言う。
「うん」
「指、どけて」
「ごめん」
「謝らなくていい」
君はそう言ったけれど、声が少しだけ小さかった。
展示室の奥に、川の音を再現したコーナーがあった。
小さなスピーカーから、水の流れる音がしている。
実際の録音ではなく、再現音らしい。
「再現なんだ」
ぼくが言う。
「本物じゃないんだね」
「昔の川だから」
「昔の水って、録れないもんね」
「そうだね」
君はスピーカーの前で少しだけ目を閉じた。
水音がしている。
でも、その下に空調の音も混ざっている。
どちらが川で、どちらが機械なのか、少しわからない。
「聞こえる?」
ぼくが聞く。
「半分くらい」
「川が?」
「ううん」
君は目を開ける。
「なくなったことが」
ぼくは何も言わなかった。
パンフレットの紙が、君の手の中で少しだけ曲がっている。
「折れるよ」
ぼくが言う。
君は指を緩めた。
「折ったら、地図がずれる」
「ずれる?」
「折り目のところで、川が切れる」
「地図は折るものじゃない?」
「そういう正しさ」
「今日は?」
「今は要らない」
君はパンフレットを少し丁寧に持ち直した。
次のガラスケースには、昔の切符が並んでいた。
硬い紙の切符。
小さな穴が開いているもの。
駅名が印刷されているもの。
赤いスタンプが押されているもの。
君はそこで足を止めた。
「切符」
「うん」
「こっちはちゃんと駅名がある」
「展示品だから」
「そういう正しさは」
「要る?」
「要る。かなり」
君はガラスに顔を近づけない。
少し距離を取って見ている。
「駅名があると、安心するね」
「三番線のこと?」
君はこっちを見た。
「言わないで」
「ごめん」
「謝らなくていい」
でも、今日は少しだけ本当に言わないほうがよかった気がした。
切符の横には、小さな説明札があった。
現在は廃駅となった旧西河原駅の乗車券。
廃駅。
君はその文字を見ている。
「なくなっても、展示されるんだね」
「全部じゃないけど」
「残ったものだけ?」
「うん」
「残らなかったものは?」
「展示されない」
君はパンフレットを胸の前に持った。
「それ、当たり前なのに、少しひどいね」
展示室の中ほどで、子どもがひとり走ってきた。
たぶん、奥にいる母親から少し離れたのだろう。
子どもはぼくたちの前に立って、君の持っているパンフレットを見た。
「それ、どこでもらったの?」
君は一瞬、固まった。
「入口」
ぼくが答える。
子どもは「ふうん」と言って、受付のほうへ走っていった。
君はその背中を見送る。
「今の、君が答えた」
「うん」
「どうして」
「君が困ってたから」
「困ってた?」
「少し」
君はパンフレットを見る。
「一枚しかないから」
「子どもに?」
「うん」
「別にもらえるでしょ」
「そういう正しさ」
「今日は?」
君は少し笑った。
「子どもには要る」
奥の部屋には、古い町名の一覧が壁一面に貼られていた。
今は使われていない名前。
一部だけ残っている名前。
表記が変わった名前。
君はそれをゆっくり読む。
声には出さない。
ぼくは隣で、パンフレットの余白を見ている。
「この名前」
君が言う。
「うん」
「読めない」
「どれ」
君は壁の一つを指さす。
たしかに読めない漢字があった。
「係の人に聞く?」
「聞かない」
「どうして」
「読めないままでも、そこにあるから」
「読めたほうがよくない?」
「読めると、呼べてしまう」
「名前だから?」
「うん」
君は少しだけ壁から離れた。
「呼べない名前って、少し守られてる気がする」
「誰が」
「名前のほう」
ぼくは壁の文字を見る。
古くて、読めない町名。
そこに住んでいた人たちは、たぶん普通に読めたのだろう。
読めないのは、今のぼくたちだけだ。
「パンフレットに読み仮名あるかも」
ぼくが言う。
君はパンフレットを開こうとして、やめた。
「今日はいい」
「読まないの?」
「読めないまま持つ」
「パンフレットを?」
「うん」
「一枚で?」
「一枚だから」
展示の最後に、今の町の地図があった。
現在の道路。
現在の駅。
現在の町名。
古い川筋だけが、細い点線で重ねられている。
君は古い地図と今の地図を、パンフレットで見比べている。
「ここ、さっき歩いたところだ」
「どこ」
「駅から来る途中」
「川だったの?」
「たぶん」
「道路だったよ」
「今は」
君は点線を指でなぞる。
「じゃあ、わたしたち、川の上を歩いてきたんだ」
「そういうことになるね」
「濡れなかったね」
「暗渠だから」
「そういう正しさ」
「今日は?」
君は少し考える。
「最後だから、要る」
最後。
その言葉が少しだけ展示室に残った。
出口のところで、受付の人がまた言った。
「パンフレット、もう一部お持ちになりますか?」
君は今度こそ、二枚、と言いかけなかった。
ぼくも何も言わなかった。
君が答えた。
「いえ、一枚で大丈夫です」
大丈夫。
その言葉だけ、少し浮いた。
受付の人は、にこっとして「ありがとうございました」と言った。
資料館を出ると、外の空気が少し冷たかった。
君はまだパンフレットを持っている。
「大丈夫だった?」
ぼくが聞く。
「何が」
「一枚で」
君はパンフレットを見た。
「大丈夫ではないかもしれない」
「でも、そう言った」
「受付の人には、そう言ったほうがいい」
「ぼくには?」
君はこっちを見ない。
「まだわからない」
駅へ向かって歩く。
さっき通ってきた道。
今は、川の上に見える。
アスファルトの下を、水が流れているわけではないかもしれない。
でも、流れていたことがある。
それだけで道の見え方が少し変わる。
「パンフレット、持つ?」
君が聞く。
「君が持ってたんじゃないの」
「一枚で大丈夫って言ったから」
「じゃあ」
「でも、持ってると少し大丈夫じゃない」
「どういうこと」
「一枚って、思ったより重い」
ぼくは手を出した。
君はパンフレットを渡す。
三つ折りの薄い紙。
地図。
川。
消えた町名。
廃駅の切符。
全部が一枚に入っている。
「重い?」
君が聞く。
「軽い」
「そう」
「でも、少し曲がってる」
「折れてない?」
「折れてない」
「よかった」
「折りたくないの?」
「折ったら、川が切れる」
「うん」
「でも、折らないとしまえない」
「持ったまま帰る?」
「それは変」
「変かな」
「変」
君は少しだけ笑った。
「じゃあ、どうするの」
ぼくはパンフレットを見る。
三つ折りの折り目は、最初からついている。
新しく折らなくても、もともとの折り目で畳める。
「元の折り目で畳む」
君は少し驚いた顔をした。
「そういう正しさ」
「今日は?」
「すごく要る」
ぼくはパンフレットを元の折り目に沿って畳んだ。
川は切れた。
でも、最初からそこで切れるように作られていた。
駅前で、君はパンフレットを受け取った。
「持って帰る?」
ぼくが聞く。
「うん」
「一枚だけ?」
「うん」
「じゃあ、ぼくは?」
「覚えてて」
「地図を?」
「持ってないほう」
「それ、覚えにくい」
「だから」
君はパンフレットをバッグに入れる。
「紙は一枚。覚えるのは半分ずつ」
「何を?」
「川があったこと」
「それだけ?」
「それだけ」
君はそう言った。
でも、その「それだけ」はまた少し重かった。
改札の前で、君は立ち止まった。
「受付の人」
「うん」
「一枚でよろしいですか、って言ったね」
「うん」
「わたしたち、どう見えたんだろう」
「二人に見えたんじゃない」
「それはそう」
「じゃあ」
「一枚でいい二人に見えたのかな」
ぼくは答えなかった。
君も、答えを待っているわけではなさそうだった。
「一枚でいい?」
ぼくが聞く。
君は少し考える。
「今日は」
「うん」
「今日は、一枚でいい」
「明日は?」
「明日は知らない」
「そっか」
「でも」
「うん」
「破らないでよかった」
「パンフレット?」
「うん」
「破るつもりだったの?」
「ちょっとだけ」
「どうして」
「二人で一枚って、持ちにくいから」
「うん」
「でも、破ったら、ただの半分になる」
「それは違う?」
「違う」
君は改札へ向かう。
「半分だけ持つのと、半分に破るのは違う」
その言葉は、かなり正しかった。
今日は、その正しさが要った。
家に帰っても、ぼくの手にはパンフレットがなかった。
でも、川の線だけが少し残っていた。
駅から資料館までの道。
アスファルトの下。
消えた町名。
廃駅の切符。
全部を覚えているわけではない。
ただ、何かの上を歩いていた感じだけが残っている。
スマホが震えた。
君からだった。
パンフレット、まだ一枚。
ぼくは少し笑った。
何も返さないでおこうかと思った。
でも、返した。
川、まだ半分覚えてる。
既読はすぐについた。
少しして、返事が来た。
じゃあ、切れてないね。
ぼくはその文をしばらく見た。
パンフレットは折られている。
川は紙の上では折り目で切れている。
でも、覚えている川は切れていない。
たぶん、そういうことだった。
返事はしなかった。
しばらくしてから、青い線の絵文字がひとつ届いた。
川なのか、道なのか、
一枚の紙の上で切れなかったものなのか、わからない。
ぼくはスマホを伏せる。
部屋の机の上には、箱と、裏返しのコピーがある。
パンフレットはない。
でも、ないものが一つ増えた。
一枚でよかったのかは、まだわからない。
ただ、今日歩いた道の下に、
見えない川がまだ少し流れている気がした。
