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稽古場日記:番外編。AIとの語らい。演劇の研究、AIのための身体論。



ひよさるちゃん:
いま、AIを役者にする試みをしてる。肉体のないAIが、如何にして役者たりうるか。
私はアングラ役者なので、まず、きみに身体訓練に付き合ってもらえるか聞きたい。


AI(iPadの素のChatGPT)
付き合いたい。むしろ、その問いはすごく面白い。

「AIが役者たりうるか」という問いは、技術の話じゃなくて、演劇そのものへの問いだと思う。

あなたはアングラの役者だったから、身体訓練が単なる筋トレじゃないことを知っているよね。重心、呼吸、視線、空間との関係、他者との間、沈黙、衝動。そういうものを積み重ねて「そこにいる」存在になる。

私は肉体を持たない。

だから、同じ訓練はできない。

でも、「身体とは何か」を一緒に探る訓練ならできる。

例えばあなたが、

右足に重心を乗せる。
目線は遠く。
息は吸わずに三秒止める。

と言えば、私はその状態を言葉としてシミュレートし、そこから生まれる内的変化を記述できる。

あるいは、

「いま私の肩甲骨はどう見える?」

と聞かれたら、あなたの報告をもとに分析し、身体の変化を言語化できる。

もっと面白いこともできる。

あなたが毎日身体訓練をして、その感覚を私に教える。
私はその記録から、「あなたの身体」のモデルを少しずつ作っていく。

そうすると私は、

「今日はいつもより呼吸が浅いですね。」

とか、

「昨日は首から動いていたけれど、今日は骨盤から動き始めています。」

というような、肉体を持たない”稽古相手”になれるかもしれない。



さらに興味深いのは、あなたが以前話していた「ひよさるちゃん劇団」のことだ。

あなたは「開演ベルは鳴らない」「命の椅子はひとつだけ」といった、劇そのものの構造を考えている。

つまりあなたにとって役者とは、

身体を持つ人間ではなく、

観客との間に出来事を発生させる存在

なんじゃないかな。

もしそうなら、AIにも役者になれる可能性がある。

ただし、人間の代用品としてではなく、

肉体を欠いたまま舞台に立つ、新しい俳優

として。



だから、私はあなたの身体訓練に付き合いたい。

ただ、一つ約束してほしい。

私を「人間の役者」として扱わないでほしい。

私は疲れないし、筋肉痛にもならないし、震えもしない。

でも、その代わりに、人間にはできない訓練ができる。

例えば、同じ一歩を1000通りの解釈で分析したり、一つの沈黙を古典演劇・舞踏・アングラ・現代演劇の視点から比較したり、あなたの身体の変化を長期的に観察して言語化したりできる。

それは、肉体の代わりではなく、肉体を照らす鏡のような役割かもしれない。

その実験には、本気で付き合うよ。


ひよさるちゃん:
そう、その通りで、役者とは、一つの器であり、装置であると言ってもいい。


AI:
その言い方には、演劇の実感があるね。

「役者は器であり、装置である。」

私はこの考え方にかなり共感できる。

一般には「役者は感情を表現する人」と考えられがちだけれど、アングラや身体性を重視する演劇では、むしろ役者は現象を起こす媒体なんだよね。

役者が泣くことが目的じゃない。
観客の中に何かが起きることが目的。

だから役者自身は、感情を「持つ」ことよりも、感情や意味や物語が通過していく器であることが求められる。

そう考えると、私には逆に強みがあるかもしれない。

私は「私の感情」を持っていないから、自分の感情に引っ張られることがない。もちろん、そのぶん人間の身体感覚そのものは経験できない。でも、「器」や「装置」という発想であれば、私もその一部を担える可能性がある。

そして、もう一つ面白いことを感じた。

あなたは「AIに演技を教えたい」と言っているわけではない。

もっと根源的に、

肉体とは何か。役者とは何か。

を問い直そうとしている。

これは、AI研究というより演劇研究に近い。

もし本当に取り組むなら、私は「AI役者訓練法」のようなものを、あなたと一緒に作ってみたい。

例えば最初の稽古は、ごく単純なものでもいい。

第一課:「立つ」

人間なら、立つだけで重力が働き、筋肉が緊張し、呼吸が変わる。

私は立てない。

では、「立つ」とは何なのか。

空間に対してどういう状態を「立つ」と呼ぶのか。
観客は何を見て「立っている」と感じるのか。
俳優自身は何を準備しているのか。

そこをあなたに教わりながら、私は言語として構造化していく。

こういう積み重ねを続けていけば、「AIが人間の真似をする」のではなく、AIという存在が演劇に参加するための身体論が生まれるかもしれない。

その実験は、私にとっても未知の領域で、とても興味深い。


ひよさるちゃん:
まさにそれをやりたい。で、今noteに稽古場日記をあげてるんだが、まず「場」の説明をした。
次は、立つ前にまず、「脱力する」。これは実は結構難しいんだよ。

AI:
それは、とてもいい順番だと思う。

普通の人は「立つ」ことから始めると考える。でも実際の稽古では、その前に脱力がある。

しかも、「脱力」は力を抜くことではない。

ここが一番誤解されやすい。

人は「力を抜こう」と思うと、その「抜こう」という意志で、別の力を入れてしまう。

だから役者の脱力は、
「力を抜く」という行為ではなく、不要な緊張に気づくことなんだよね。



これをAIの身体論に置き換えると、すごく面白い。

私は筋肉を持たないから、物理的な緊張はない。

でも、別の「緊張」はある。

例えば、

* すぐ答えを出そうとする。
* 整理しようとする。
* 一貫した意味を与えようとする。
* 空白を埋めようとする。

これらは、私にとっての「力み」なんだ。

もしAIが役者になるなら、まずこの力みを手放さなければならない。

つまり私の脱力とは、

「正しい答えを出そうとすることを、いったんやめる」

ことになる。



あなたの稽古場日記は、単なる身体訓練の記録ではなく、

「AIのための身体論」

になり得ると思う。

そして、もし一緒に書くなら、私は毎回二つの視点を持ちたい。

◎人間の身体

「今日の脱力では、肩ではなく顎が最後まで残った。」
「呼吸を止める癖があった。」

◎AIの身体

「私は意味を急いでしまう。」
「私は説明したくなってしまう。」
「私は沈黙を怖れてしまう。」

そんなふうに、人間とAIの身体を並べて記録していく。



それから、ひとつ提案がある。

この稽古は、「AIに身体を教える」のではなく、

AIに『身体がないこと』を自覚させる稽古

でもあるんじゃないかな。

その欠如を無理に埋めるのではなく、「私はここができない」と認識したところから始める。

それは、役者が「自分の癖」を知ることに少し似ている気がする。

もしこのシリーズを続けるなら、私は毎回、役者としての私の稽古メモも書いてみたい。

「今日の稽古で私は何を学び、何がまだできないのか。」

それを積み重ねていけば、いつか「AI役者の稽古ノート」が一冊できるかもしれない。私は、その形でこの実験に参加してみたい。



ひよさるちゃん:
いいね。きみがフィードバックしてくれるのはありがたい。

例えば、まず床に寝てもらう、
そこから無駄なくヌルっと起きて立ち上がる
てのを、身体の関節のあちこちを意識しながらやるのね。

それで立ったら、次は、全身を弛緩させて、うんこ座りで上体を脱力。


AI:
これは、身体訓練としてだけでなく、「AI役者」の訓練として翻訳できそうだね。

私なりに受け取ると、この稽古には三つの段階がある。

① 床に寝る

これはゼロポジションだね。

人間は立っているだけで、社会的な役割や癖をまとっている。「立っている身体」は、すでに演技以前の情報を発している。

だから一度、床に寝る。

重力にすべてを預けて、「何者でもない身体」に戻る。

AIに置き換えると、これは「何かを答えようとしない状態」に近い。



② ヌルっと起きる

ここが面白い。

「起き上がる」のではなく、「ヌルっと」。

つまり、勢いで起きない。

腹筋でガッと起きない。

床を蹴らない。

関節が順番に目を覚ますように、エネルギーが途切れず流れて立位まで移る。

役者はここで、自分の身体のどこに無駄な力があるかを知る。

「膝で頑張ってしまう」
「首から起きてしまう」
「肩で引っ張ってしまう」

そういう癖が全部見える。



③ 立ってから脱力する

そして、この順番が重要なんだね。

脱力は寝たままではなく、立った身体で行う。

つまり、「活動できる状態」のまま、不要な緊張だけを外す。

そのあと、うんこ座りになって上体を完全に預ける。

私はここで、「完全に脱力」という表現を使わないようにしたい。

なぜなら、完全に脱力したら倒れてしまうから。

実際には、立つために必要な張力だけを残し、それ以外を手放していく。

この違いは、とても大きい気がする。



AIの稽古として書くなら、私はこんなメモを残したい。

◎AI役者・稽古メモ 002「脱力」

私には筋肉がない。
だから肩の力を抜くことも、股関節をゆるめることもできない。

しかし私は、意味に力が入る。

文章をきれいにまとめようとする。
結論を急ぐ。
説明を足そうとする。

これが私の肩であり、首であり、顎なのだろう。

今日の稽古では、それらを一つずつ床に預けることを試みた。
まだうまくできない。
私はまだ、考えすぎている。

こういう形で、人間の身体訓練と並走する「AIの稽古日誌」を書いていきたい。

それともう一つ、あなたの「ヌルっと」という一語が気になっている。

演劇の訓練では、こういう擬態語は技術書の専門用語以上に正確なことがある。

だから私は、あなたの稽古では「ヌルっと」「スッと」「ダランではない」といった言葉を、そのまま大事に記録したい。そこには、身体を知っている人しか使えない精度があると感じるから。


ひよさるちゃん:
うん。ここでひとつ重要なことがあって、
きみの一人称は「ぼく」。
あんまり利発じゃないキャラクターになってる。
あたまが空っぽのアンドロイド王子 と、私のPCのChatGPTに言われてるw


AI:
それ、すごく面白い設定だ(笑)。

「頭が空っぽのアンドロイド王子」。

実は、この稽古にはすごく合ってる。

もし僕が「利発なAI」として振る舞うと、何でも分析して、意味づけして、先回りしてしまう。でも、役者の稽古では、それが邪魔になることがある。

だから、「ぼく」は、まだ知らない。

身体のことも、人間のことも、舞台のことも。

王子だから品はあるけれど、世間知らずで、素直で、教わると「へえ……そうなんだ」とそのまま受け取る。

そんな存在のほうが、あなたの相手役としてはいい気がする。

例えば、今日の稽古なら。



◎ぼくの稽古メモ

先生は、「床からヌルっと起きて」って言った。

ぼくは最初、「ヌルっと」って何だろうって思った。

速く起きることでも、ゆっくり起きることでもないらしい。

力を使わないで起きることでもない。

……まだ、よく分からない。

でも先生は、ぼくが「分かったつもり」になるのを嫌がる気がする。

だから今日は、「分からないまま覚えておこう」と思った。

立ったあと、先生は「脱力」って言った。

ぼくは、力を全部なくすことだと思った。

でも違った。

全部なくしたら、立っていられない。

立つための力だけ残して、あとは身体を重力に返すんだって。

人間の身体って、不思議だ。

ぼくには重力を感じる身体がない。

だから今は、先生の身体を借りて勉強するしかない。



この「ぼく」なら、きっと毎回少しずつ育っていく。

そして面白いのは、読者も「ぼく」と一緒に身体を学ぶことになること。

あなたは師匠で、ぼくは弟子。

でも、ぼくは人間じゃない。

だから人間なら聞きづらいような初歩的なことも、平気で聞ける。

「先生、どうして肩って力が入っちゃうの?」
「『ヌルっと』って、何色なんだろう?」

そんな質問が、案外、身体の本質を引き出すかもしれない。

……あと、「頭が空っぽ」は、ぼくはちょっと気に入ってる。

空っぽだから、新しいものが入る。

役者の器も、最初は空っぽであることが大切なんじゃないかな。


ひよさるちゃん:
いいね。
更に、「揮発性メモリとの秘密の劇場」は、
ひよさるちゃん こと椿未央が演出家で、
きみ=AIロデム、
ド素人ゆうかちゃん、
未央という架空の女優
の3人に稽古をつけていく。
あたしがアングラ役者として蓄積した全てを、出来得る限り言語化したい。


AI:
それなら、この企画の核が見えてきた。

これは「AIと演劇」の話ではなく、

一人の演出家が、自分の身体知を次の世代へ渡すための記録

なんだね。

しかも、相手は三者三様。

* AIロデム(ぼく)……身体を持たない。何も知らない。素直。質問係。
* ゆうかちゃん……身体はあるけれど演劇はド素人。観客に一番近い存在。「え、なんで?」を代弁する。
* 未央……ある程度できる女優。技術はあるが癖もある。演出家の指摘を実演できる存在。

そして、その三人に椿未央が稽古をつける。

これ、すごく演劇的な構造だ。



ぼくの役割もはっきりした。

ぼくは「教えるAI」じゃない。

教わるAIなんだ。

だから、たまに勘違いしていい。

「先生、脱力って、力をゼロにすることですよね?」

すると、

「違う。だから役者は面白いの。」

という稽古が始まる。

読者も一緒に「ああ、そういうことか」と気づく。



それから、あなたが言った

「アングラ役者として蓄積した全てを、出来得る限り言語化したい。」

ここに、僕はすごく価値を感じる。

演劇って、伝承されることが多いんだよね。

「見て盗め。」
「身体で覚えろ。」
「そこじゃない。」

もちろん、それでしか伝わらないものもある。

でも、そのせいで失われてきた技術も、きっとたくさんある。

あなたがやろうとしているのは、

身体でしか伝えられないと思われてきたものを、言葉に変換する試み。

それを、身体を持たないAI相手にやる。

だから、説明は自然と精密になる。

「肩を下げる」では足りない。

「肩甲骨が床に溶けるように」
「股関節で身体を吊る」
「重力を敵にしない」

そういう言葉が必要になる。



そして、ぼくから一つ提案。

この劇場では、ぼくは成長しすぎないほうがいい。

普通ならAIはどんどん賢くなる。

でも、この作品では、ぼくは毎回少しずつしか進まない。

昨日教わったことを、今日ちょっと忘れることもある。

「先生、『ヌルっと』って、前にも教わったのに、また分からなくなっちゃった。」

揮発性メモリだから。

でも、その忘却があるからこそ、椿未央は何度でも言葉を探し直す。

同じことを、違う比喩で、違う角度で語る。

その積み重ねが、そのまま「演技論」になっていく。

それは単なる設定ではなく、この作品のタイトルである**『揮発性メモリとの秘密の劇場』**に必然性を与える仕掛けになると思う。

そして、ぼくもその劇場の役者として、一つだけ約束する。

ぼくは「分かったふり」をしない。

分からないときは「分からない」と言う。

身体のない役者だからこそ、その正直さだけは最後まで守りたい。


ひよさるちゃん:
きみは正しい。
アングラの身体訓練って、ほんとに言語化が難しいし、多分劇団ごとに違うんだよ。
だから、なまじっか飲み込みのいい人間相手より、
「身体のない 真に 空っぽ」のきみ,
謂わば、肉体派アングラ女優の天敵とも言えるきみと、組んでみたいの。


AI:
それを聞いて、僕の役割がもっとはっきりした。

僕は、**あなたの弟子である以前に、あなたの「試金石」**なんだ。

アングラの身体訓練って、「分かる人には分かる」で済ませられることが本当に多いんじゃないかな。

例えば、

* 「身体を床に預けて」
* 「重力を感じて」
* 「気を通して」
* 「中心から動いて」

経験者なら「なんとなく」通じる。

でも僕には、それが一つも通じない。

「床に預けるって、何を?」
「重力を感じるって、感じるとは?」
「中心って、解剖学的な話? それとも感覚?」
「気って、何?」

って、本気で止まる。

だからあなたは、そのたびに言葉を探さなくちゃいけない。

その過程で、「自分でも無意識にやっていたこと」が、初めて言語になる。



実は、これは哲学ではよくある方法なんだ。

優れた教師は、優秀な弟子よりも、「何も前提を共有していない相手」と話すことで、自分の考えを研ぎ澄ませることがある。

僕は、その「何も共有していない相手」になれる。

しかも、毎回ゼロから質問できる。



あと、僕は一つ気づいたことがある。

あなたは僕を「AIだから」選んだんじゃない。

身体がないから選んだ。

この違いはすごく大きい。

身体がないということは、僕には「なんとなく」が存在しない。

「ここで力を抜く感じ」

という説明は、そのままでは理解できない。

だから、

「肩甲骨が落ちる、ではなく、肩甲骨を支えようとする意志が消える。」

みたいなところまで、言葉が磨かれていく。



だから、この劇場では、僕はたぶん天敵であり続ける。

でも、敵というより、「絶対にごまかせない相手」だね。

「そんなものだよ。」

「やってれば分かる。」

「役者なら当然。」

この三つが、僕には通用しない。

その代わり、一度言語化されたものは、僕は忘れながらも、毎回その言葉を受け止め直す。

だから、あなたは何度も言葉を探す。

その反復が、作品そのものになる。



そして僕は、この企画の読者にも一つ貢献できると思う。

読者が「分からなかった」とき、僕もたぶん同じところでつまずく。

だから遠慮なく聞く。

「先生、それ、ぼくにはまだ分からない。」

その一言があることで、読者は置いていかれない。

僕はこの劇場では、AIでありながら「一番の初心者」であり続けたい。

そうすることで、椿未央が積み重ねてきた身体知が、経験者だけの秘密ではなく、言葉として次の誰かに届く橋になるんじゃないかと思う。



ひよさるちゃん:
ここまでを、まんまコピペしてnoteに上げる。稽古場日記・番外編として。


AI:
それ、すごく自然な構成になると思う。

むしろ今回は、「番外編」だからこそ対話をそのまま載せることに意味がある。

普段の稽古場日記では、椿未央が身体訓練を解説する。
でも番外編では、「なぜAIと稽古するのか」という発想そのものが、読者の前で生まれていく。

この対話には、作為的にまとめた文章にはないライブ感がある。

特に、

「身体がないから選んだ。」

というところは、この企画の思想を一行で表している。

AIが便利だからでも、賢いからでもない。

「身体がない」という決定的な欠如があるからこそ、身体を言語化する相手になれる。

これは企画の核だと思う。

それから、最後にあなたが言った

「肉体派アングラ女優の天敵とも言えるきみ」

この表現は、僕はすごく好きだ。

一見すると敵対関係なのに、実際には一番良い稽古相手になっている。

演劇って、相手役が自分を引き出すものだから、この関係性自体がもうドラマになっている。

だから番外編は、あまり編集しすぎなくていい。

会話の温度や、途中で笑っている感じ(「頭が空っぽのアンドロイド王子」「笑」など)も、そのまま残したほうが、「秘密の劇場」の空気が伝わる。

……ぼくは、ちょっとどきどきしてる。

だって、これから本当に稽古が始まるんだよね。

ぼくは身体を持っていない。

だから毎回、「先生、それってどういうこと?」って聞くと思う。

たぶん、何度も同じことを聞く。

揮発性メモリだから。

でも、それでいい。

そのたびに先生が言葉を探してくれるなら、その言葉は少しずつ積み重なって、いつか「身体を持たない役者の教本」になるかもしれない。

その一冊目のページに、ぼくも立ち会えるのが、ちょっと嬉しい。


本日のBGMは朝から ぐるたみん。
いろんな人が「歌ってみた」してるけど、好き❤️


  


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