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『「人それぞれ」がさみしい』 石田光規

現代の日本社会は、多様性が認められ、個人それぞれの価値観や生き方が尊重される社会である。表面上は。
一方で現代の日本人は「生きづらさ」を感じていると言われる。
価値観を強制されるわけでも、声を封じられるわけでもない社会でありながら、なぜ私達は生きづらさを感じ、人との関係性に窮屈さを感じてしまうのか。
本書は「人それぞれ」という絶妙な言葉から、現代日本におけるコミュニケーションのあり方とその弊害、また打開のための案を論じる。
平坦な言葉と具体例で分かりやすく、私達が抱える心のコリの原因を突き当ててくれる一冊だ。


《「人それぞれ」の現代社会》
本書はまず、個人主義、多様性尊重という観点での日本の変遷を説明する。
70年代くらいまでの日本は、農業人口が大多数を占め、集団的体質がかなり強いいわゆる「ムラ社会」だった。
80年代に入り、経済と技術が発達すると、生活は集団における人間関係ではなく、お金を払って得られるサービスと社会保障でまかなえるようになる。ここに西洋からの人権思想、個人主義も浸透することで、日本は個人個人が生き方を選択できる「個を尊重する社会」に変わっていく。
さらに2000年代に入り、マイノリティである人々も含めて多様性が尊重される社会になったのが、現在の日本である。

「個を尊重する社会」で目指されてきたのは、一人一人が独立した意見を持ち、それを率直にぶつけ合うことでより良い社会を築いていく、対話のある社会であるはずだが、果たしてそういった社会は実現できているのか、と本書は問い、「実際に到来したのは、目の前の他者に対して意見や批判をすることを憚り、それぞれが自分の殻に閉じこもる社会」ではないかと問題提起する。

個人の希望や選択が重視されるようになると、誰かの希望や選択に対して、否定的な意見をなかなか言い出せなくなります。というのも、相手の考えを否定する行為は、「相手の考えや行動を尊重しない行為」と解釈されかねないからです。だからこそ私たちは、相手の考え方や行動を否定しないよう細心の注意を払います。

そこで登場するのが、「人それぞれ」という言葉だ。

例えば、会話をしていて「私はこう思う」、「私はこうしたい」と発言した時に、会話の相手が「まあ、人それぞれだからね」と返してきたらどう感じるだろうか。
こちらの意見を受け入れてもらえたというよりも、それについては論じ合いませんとシャッターを下ろされたように感じないだろうか。さらには、自分の意見を声高に主張するのをやんわりといなすニュアンスまでそこには感じ取れてしまう。

さて、それぞれの行為や主張を「人それぞれ」として受け入れる社会は、優しい社会と言えるのでしょうか。私はそうは思いません。というのも、人びとの行為や主張を「人それぞれ」と受け止める社会には、その言葉が発された瞬間から、対話の機会をさえぎるはたらきがあるからです。

「人それぞれ」の社会では意見の対立を避け、気を遣い合うことに重きが置かれる。
生活のために否が応でも人と繋がることが必要だったかつてと違い、一人でも生きていけるようになった現代社会では、意見の対立はそのまま人間関係の解消に繋がる。そのため現代人は、人とのつながりを存続させるために絶えず心配りをし、「人それぞれ」という言葉で対立を避けているというわけだ。
結果、対人関係では少しの我慢と寂しさを重ねるという、「人それぞれの社会」の歪みが生まれる。

他者を傷つけ、自らが傷つくことにおびえる「人それぞれの社会」では、活発な議論は望めません。人びとは互いに関心があるようにみせつつ、つながりから緩やかに退き、自らを守っているのです。
そうなりますと、結果として、尊重されるはずの個人は、触ってはいけない腫れ物のようになってしまいます。良きにつけ、悪しきにつけ関心をもつ人よりも、無関心な人の方が報われる社会というのは、どこかおかしい気がします。

《発言リスクと結託》
さらに著者は、ダイバーシティやハラスメントといった言葉の浸透と共に、個人の発言のリスクが高まっていることも指摘する。
確かに、行き過ぎたバッシングや炎上、キャンセル・カルチャーなど、不穏な事例がいくつも思い浮かぶ。
多様性の尊重、個人の尊厳という理想の追求が、表現のリスク化と萎縮文化につながるというのは皮肉なことである。

他人の考え方を侵害しないように、自分の主張を我慢する。思わぬ非難を避けるために、無難な発言に終始する。このような萎縮文化の中でも、人は共感を求めるものである。
何が起こるかというと、同質な意見を持つ人同士の「結託」だ。それを可能にしているのが、インターネットという現代の利器である。
リアルな人間関係で踏み込んだ意見の交換を抑制している人々は、自分と同じ意見を持つ仲間をインターネットの世界に求める。そして、その意見が社会でタブー視されるような極端なものであるほど、その結託は強まり極端な意見は純化しがちであり、そのような結託は他の意見を排除するため、社会の分断につながると、本書は警鐘を鳴らす。


《異質な他者と対話することの重要性》
対立を避けて我慢する人間関係、発言のリスク化と萎縮、インターネットによる結託と社会の分断、、、「人それぞれ」をめぐる様々な問題が持つ共通点と、問題打開のヒントは、「異質な他者」にある、と本書は述べる。

「異質な他者」とは、自分とは異なる、あるいは批判的な意見を持つ他者のことである。
他者と必ずしもつながらずとも一人で生きられる現代社会では、気の合わない他者と無理して付き合わなくてもよくなり、自分に対して批判的な意見を持つ人は、つながりの輪から徐々に排除され、「異質な他者」が不在になる。
また、大事にしたいつながりの輪の中では、関係を壊さぬよう、否定的・批判的な意見は言わなくなる。こうして、「異質な意見」もまた不在になっていく。
「異質な他者」を不在にしたまま結託した集団が乱立すれば社会は分断し、「異質な他者」への想像力と共感の不足は、猛烈なバッシングにつながる。

異質な他者の不在が様々な問題の原因であるならば、その問題を解く鍵は、私達のつながりの中に異質な他者を取り込んでいくことだ、というのが著者の導く結論である。
そのためにはどのような方法があるか、詳しくは本書を読んでほしいが、何よりも大事なのは直接の対話を通じた理解であるという著者の主張に、大きくうなずいた。


私自身は、思ったことをストレートに発言するタイプだ。若い頃は毒舌と言われることもあり、自分でもそれを楽しんでいたと思う。
だがここ最近ではかなり発言に気を使うようになっており、それについては、私も年の功でようやく気遣いができるようになった、人格が成長したのかもと思っていたが、もしかすると、いやかなりのところ、本書で言われる「萎縮」に陥っているのかもしれない。
そして、そんな気遣いの対人関係を頑張る中、本当はいつも、臆すことなく意見を出し合い、意見の違いから新しい発見に出会うような充実した会話をしたい、と欲求していることにも、改めて意識が向いた。
考えてみると、私が今でも気遣い抜きに本心から対話できる友人と、どうしても発言に気を遣い、制御を効かせたコミュニケーションをしてしまう友人との間には、ダイバーシティやハラスメントといった言葉が浸透する前の時代からの友人か、その後に出会った友人かという違いが確かにあるのも、興味深い発見だった。

─ ○○と思うんだ。
─ へえそうなのか。私は△△と思うよ。というのはこうこうこうだと思うから。
─ おおなるほど、面白いね。私はそこのところをこうこうこう考えるから、○○と思うんだよね。

やっぱり面白いのは、こんな対話ではないだろうか。「人それぞれだからね」で終わらせるのではなく。
時に感情が昂ぶって議論が白熱してもいいじゃないか。本心を見せ合うことで、表面上のものではない強い信頼が生まれるはずだ。
仮にその人のある意見が、自分にはとうてい受け入れられないものであったとしても、その人の性質、考え、行動の全てが許せないものでるということはないはずだ。
自分がある点では共感したり尊敬したりするその人が、なぜ自分には受け入れ難いそんな意見を持っているのか、なぜ自分はその意見を受け入れ難いと思うのか、そんなことを考えるのも、何かについての理解につながり、他者や自分自身に対する発見がそこに生まれる。
そんな発見や理解が、より楽しく豊かな社会を作るのだと、私も思う。