ロドルフ・テプフェール「ダゲール板について、『ダゲール的旅行』に関連して」
【原典:Rodolphe Töpffer, ≪ De la plaque Daguerre : à propos des Excursions daguerriennes ≫ dans Bibliothèque universelle de Genève, mars 1841】
【1839年にダゲールによって世界初の撮影術であるダゲレオタイプ(銀板写真)が発明されると、絵画と写真の優劣が議論されるようになります。コマ割マンガの発明者でもあるジュネーヴの小説家・批評家ロドルフ・テプフェールは、対象から特徴を抽出する人間精神のはたらきを強調し、絵画を擁護します。まだ「写真 photographie」という言葉がなく「ダゲール板 plaque Daguerre」「ダゲールの製品 produit daguerrien」「ダゲレオタイプ daguerréotype」「ダゲールの板 plaque daguerrienne」などさまざまな表現になっているため、訳文もそれに合わせています。副題にある『ダゲール的旅行 Excursions daguerriennes』とは世界各地の名所写真を基にした版画集で、レンズ技師ルルブールによって1841-43年に刊行されました。()は原文にあるもの、〔〕は訳註、太字は原文イタリックによる強調、〈〉は原文で大文字はじまりの単語です】
3年前、ダゲール氏の素晴らしい発見が公表されたとき、多くの者は、絵画が王座を追われ、素描の藝術が、そしてとりわけ〈藝術〉と呼ばれるものが終焉を迎えると予想した。 言い分はこうだ。「実際、〈藝術〉とは何か? より完璧な工程によって、自然をより緻密に模倣し、自然のより忠実な像を提示できるようになる、ほかに〈藝術〉は何を求めるのか? さてここに、自然そのもの、少なくとも動かない自然、つまり橋や大聖堂や馬車馬を、金属板の上に反射し固定する工程がある、よく磨かれて完璧に錫を引かれた鏡にあなたの顔を映すよりもさらに正確だ、それに残念ながら鏡に顔は固定されない」ひそかに革命的なブルジョワたちと同様、こうした者たちにとって、王位の剥奪は極めて恥ずべき事態どころか楽しい見世物であり、腕を組み目を見開いて物事の進展を待ち、なりゆきを見逃すまいとした。
別の者たち(先ほどの者たちの従兄弟らしい)は、声高に革命を呼びかけた。「〈藝術〉は偶像だ、その名を借りて売文屋が神託を告げ、うんざりするような論争を巻き起こす。〈藝術〉は目に見えない怪しげな神だ、御前には10人のカモと3人の悪党がひれ伏している。少なくとも、追従者や家来を従える王だ。ユゴー氏が「〈藝術〉のための〈藝術〉」に奉じるよう求めるのを聞かなかったか〔ユゴーは必ずしも純粋藝術の唱道者ではないが、七月革命からしばらく「藝術のための藝術」派の領袖として批判されることがあった〕! しかしわれわれは要求するのだ、ここでも、他のあらゆるものと同様、われわれは神を求めすぎない、王など必要ない、代わりに完全な民主主義を求める。ここでも、他のあらゆるものと同様、われわれは確実なもの、目に見えるもの、触れられるもの、測定できるものを求めるのだ、曖昧なもの、形而上のもの、計測できないものではなく。〈藝術〉粉砕! ダゲール万歳!」
また別の者たち(こちらは叛乱分子では全くない)は、この発見が莫大な利益をもたらすと予想していた。かなり近い将来、居住可能な世界の全体が金属板に反射され固定されると想像して、喜んだ。都市、大聖堂、帝国が、驚くほど似ている肖像画を送りあう。遺跡や廃墟は、神秘性に包まれ、遠く、孤独で、近寄りがたいが、いまや覆いを剥がされて日常の光景となる。邸宅、別荘、涼亭、さらにはメロン畑までもが、食事室を飾り所有者を喜ばせるために、奇跡的な忠実さで絶えず複製される。要するに、巨大で絶え間ないダゲール的な開拓によって、美的快楽は全ての社会階層の特権となり、水売りの楽しみ、藁葺小屋の喜びとなる。こうした者たちは素晴らしい運動に昂奮していたため、地球全体がひとたび、そしてたちまち金属板に固定されたら、別の地球など手に入らないのだから、もはや新しいダゲールの製品によっては恐ろしいほど搔きたてられた人類全体の好奇心を満足させられないことに、考えが及ばなかったのだろう。遠くの遺跡や遥かな廃墟の神秘性が、不完全かつ入手困難な再現を見て味わえる魅力の大部分を占めており、魅力を完璧にしたいがあまりに破壊するのは悪手に近いのだとも、考えなかった。残念ながら、視野が広くなるほど細部は無視されがちで、水売りにとっての美の将来を熱心に考える者は、詩人が詩を生きていることを自ずと忘れてしまう。結局のところ意見は意見であって、嘆いても仕方ない。
ダゲール氏の発見についてあれこれ考察されている間に、この発見の秘訣がフランス政府によって買い取られ〔政府によって特許が買い取られ、誰でも使えるようになったということ〕、待ち構えていた開発者たちがすぐさま板を売りはじめた。初期の板は、ノートルダム大聖堂、穀物取引所〔ドーム屋根で有名なパリ中心部の建物。現在は安藤忠雄によって改修され美術館となっている〕、ポン゠ヌフを再現していた。水売りは何も買わなかった。高すぎたのだ。40フラン、60フラン! もっとも、わたしの聞くところによると、ある水売りは、ブルジョワたちが板の前で恍惚とし、ポン゠ヌフの全ての石、ポン゠ヌフの全ての街灯、ポン゠ヌフの全ての敷石、そしてポン゠ヌフの敷石のそれぞれが黒ずんだり汚れたり割れたりした敷石をひとつひとつ見つけては無限の喜びを感じているのを見て笑いだし、こう言った。「奥さま! だから、そんなものは要らなかったんです!」
この水売りの言葉に、少し立ち止まりたい。何を言いたかったのだろう? ポン゠ヌフのためのポン゠ヌフ、ダゲレオタイプによるそっくりさんと同じくらい本物のポン゠ヌフが好きだ、と言いたかったのだろうか? 緑豊かな田園に背を向け、それが映っている鏡をうっとりと眺めたいなどと思う者はいないのに、同じ現象をより不完全に繰り返した板の前で恍惚とするなど猶更ありえない、と理解していたのだろうか、そして、ダゲール氏が光と影を固定できたのと同じように色も固定できるようになったとして、それで絵を描けるようになったたわけではない、と分かっていたのだろうか? ラファエロやクロードやミケランジェロは、自然を研究し理解するために自然を模倣するのと同じくらいしばしば、自然を美化したり解釈したりするために自然から離れるのだ、と薄っすら知っていたのだろうか? ヴィルマン氏の著作で、絵画の魅力的な美しさは画家の魅了された魂にある、と読んだのだろうか? あるいは、この善良な男は、ダゲールの板は好奇心の喜びしか引き起こさず、新しい板ごとに生まれるのは全く同じ喜びで、したがって弱まるものだと気づき、素描家や画家の間違いなく不完全な模倣のうちにある、それぞれの模倣が別種の喜びを新しく生み出し、虫眼鏡をつけた目だけを驚かせるのではなく、精神に長く残る糧となり、尽きせぬ泉から魂が永遠に飲めるような、驚きではない魅力をもたらすものが、完璧であるには違いない模倣に欠けているのだ、と本能的に理解していたのだろうか? そうでないことがあろうか? さて、このダゲールの板に欠けているもの、工程による驚異を知的な創造による簡単な作品から永遠に越えられない壁で隔てているもの、それは人間的で個人的な思考のしるしであり、画布に生き生きと広がる魂であり、何らかの作風によって表現される詩的な意図であり、それは……それは〈藝術〉である! 王位剥奪者たち、革命家たち、不信仰者たちよ、申し訳ない。また、おそらく〈藝術〉を否定したり貶めたりする気はなく、ようやく〈藝術〉を掴まえ、物質化し、製品や商売や消費財にし、貧者のパン、誰にとっても汲んで飲むだけの川の水にできたのだと考えた心優しき慈善家たちよ、申し訳ない!
水売りの言葉に多くを読みこみすぎだと言われるだろうし、わたしもそう思う。とはいえ、読み書きのできない水売りの粗野な叫びが、宣伝文句に踊らされ新聞記事を読みすぎた少数のブルジョワたちの愚かな恍惚よりも、根底に多くの常識を隠していることくらいは、信じられよう。なぜなら、常識とは、利害によって歪められ、虚栄心によって抑圧され、精神によって惑わされ、新聞によって殺される前の、真実に対する感性、生まれながらの理性である、そうでないとしたら何なのか? 見たことのあるものしか知らず、知っていることからしか判断せず、さいわいにも知性が限られているぶん真っすぐであり、そうでなければたちまち飢えと貧しさで死んでしまうであろう単純な人物ではなく、毎日近所のカフェに行き、コーヒーと同時に意見も摂取するブルジョワたちにこそ、常識を期待できると思うか? 農民の分別ある手探りによって都会人の軽はずみな自信に反対したことが百回を下る者などいるだろうか? 単純な人物の理性が狡猾な人物の明敏さよりも間違いなく上なのだと経験したことが百回を下る者などいるだろうか? 天才とは崇高なる単純さであり、力強い常識が精神の残り全ての性質に勝っており、この条件のもとでこそラフォンテーヌやモリエールのようになれるのだ、と感じたことのない者がいるだろうか? ……だからわたしはモリエールを読み、水売りの話を聞くのだ。
それに、ダゲールの板によってダゲール氏の素晴らしい発見がますます普及して以来、この発見のもたらすものや本当の影響範囲を調べて見極めねばならないのは、〈藝術〉についてではなく、〈美術〉についてですらないと、既に分かっている。その分野では何の衝撃も感じられず、何の目覚ましい進歩ももたらさなかったのであり、藝術の物質主義を利すると思われていたダゲール氏の発見は、むしろ逆に、模倣の藝術において模倣は藝術の目的ではなく手段であるという、あまり広まっていないが根本的かつ実利的に真実である原理を、折よくも明白に確証することとなった[1]。実際、今回もたらされた模倣は最も高度に厳密な忠実度で行なわれているが、同時に、クロードやロイスダール〔Jacob Izaakszoon van Ruisdael〕よりも上手く藝術の目的に達しているわけでは全くなく、これらの板を眺めて驚かされるのは、その目的そのものが、目的に寄与する諸条件とともに消えてしまっていることだ。確かに、わたしはダゲール氏の才能を称賛し、稀有で輝かしい科学の勝利を称賛する。他のすべてを鈍重で粗雑にする代わりに神秘的な完全性をもたらす工程を称賛する。人間の手で作るものでは比肩しようのない制作を称賛する。再現対象の選択の妙を称賛することもできるし、再現対象がわたしの家であってもピラミッドであっても、類似性を愛し好奇心を満足させる喜びを味わう。それだけだ、と思う。だが、それだけならば、この目録のどこに詩的な楽しみが、つまりわれわれの考え違いでなければ〈藝術〉の目的が、現われるのか? 藝術家が制作をはじめるのに不可欠で、また完成した作品を意味づける唯一のものである思考は、どこにあるのか? 眺めるわたしにとって心惹かれる魅力はどこにあるのか? 記憶、忘れられた特徴、消え去った心象といった、画家の呼びかけに応じて心の奥底から浮かび上がるものは、どこにあるのか? 甘美さと調和と謎に満ちた音楽の混淆の中で、触れられ、動かされ、揺さぶられる魂の琴線は、どこにあるのか? これらすべての代わりに板がある、そこでは何もかもが美しく、完璧で、数学的に正確で、しかし生きた存在、語る存在、表現する存在は何もない。風景の複製は、間違いなく忠実であるが、冷淡で無言であり、物理的かつ物質的でしかない忠実さそのものが、精神によって感知される類似性よりも、われわれの諸器官によって認識される単純な同一性へと収まってしまう、それについて示そう。
まずは今しがた述べたことを強調したい、なぜなら、非常に多くの尊敬すべき方々までもが、ダゲレオタイプの板は生きており、語りかけ、少なくともクロード・ロランと同じくらい多くを表現していると思っている、わたしはそのひとたちを説得したいからだ。そうしたひとたちにとっては、結果として、わたしの求める思考、わたしの願う魅力、とりわけ動かされ揺さぶられるのを見たいと思う魂の琴線が、必然的に、理念なしの仰々しい大言壮語か、あるいは〈藝術〉のあれこれを繊細な諸器官や深い感性といった特別なもので感じ取っているかのような、とても愚かしい、しかも実のところ全く珍しくない気取りに見えているのだ。そこでわたしは、そうしたひとたちに同意して、思考、魅力、琴線がここでは藝術的感傷癖でしかないと認める。最も美しいクロード・ロランも、板と同様、そのものの提示するものだけを表現していると認める。木々、草原、習性どおり草を食べる羊。しかし、こちらも譲歩したからには、少し退屈には違いないが、しかし間違いなく説得されるであろう議論に、おつきあい願いたい。
絵画は、他の〈美術〉と同様、固有の模倣工程を用いる。その工程とは、形の輪郭をなぞり、さらに形による再現を完成させるべく模倣対象の色調と遠近を複製する色を置くことである。ここまで画家とダゲールの機械は全く同じである。工程どうしを比較して唯一の違いは、機械による工程のほうが画家による工程よりも比べものにならないほど優れている点である、というのも、色彩を除いて、機械は対象と全く同じに模倣するからだ。だが、その先、機械は無力であり、そこで機械の仕事は終わりである、と同時に、そこから画家の仕事が始まる。実際、画家の仕事は、誰にとっても同じ工程を手にしたまさにその瞬間、それを自身に固有の感覚に沿って使うべく、たちまち技法に、つまり様式に変え、もはや模倣ではなく表現にするのだ。詩人が、万人に共通の言語や音韻の工程を捉え、自身に固有の感覚に沿って使うことで、たちまち作風に、つまり様式に変え、もはや単純な語義ではなく詩的かつ私的な表現にするのと、まったく同じだ。完全一致である。では、同じ語彙や同じ音韻の工程を用いてきたフランス詩の巨匠たちが互いに異なるのと同様、同じ工程を用いてきた風景画の巨匠たちが互いに異なるのは、どうしてなのか? そして、画家にとっての技法が、詩人にとっての作風と同じく表現様式であり、したがって大元の思考と同じように多様で自由で無限であるのでなければ、あまりに異なる両者が、どうして才能や栄光において同等と判断されるのか、というのも、模倣様式にすぎない工程は、その追求する目標そのもののうちに規範や束縛や限界を見出し、たったふたつの場合ですら、優劣に限らず差異を生みようがないのに? さて、ダゲールの板には、画家にとっての技法、様式、模倣ではない表現、この技法が欠けている。あれやこれやと構想され実行される筆致、異なる意味や反対の意味を持ち、激しかったり優雅だったり、細やかだったり厳しかったり、穏やかさに満ちていたり雄々しい力に満ちていたりする、この筆致が欠けている。無限に多様な方法、われわれが愛情を持って感じていることを詩に表わし、田園から感じる心地よさ、森から感じる穏やかさや神秘性、ポン゠ヌフも含めた橋の持っている際立って絵画的なものやさまざまに詩的なものを画布の上に描く、この方法が欠けている。遠慮、後悔、無邪気な柔和さ、表情豊かな優雅さ、これら全ての感情の調子、絵筆を恋人かつ通訳とする、この調子が欠けている。では何が残っているのか? 残っているものは? ……技法のない工程である、つまり、あらゆる形、すべての襞、血管、組織、毛穴を備えた身体、しかし魂のない身体だ。
前述のとおり、ダゲレオタイプによる風景や場所の複製は、完全に物理的かつ物質的な複製であるから、その忠実さは、精神によって感じられる類似性ではなく、われわれの諸器官によって認識される単純な同一性へと還元される。ここにわれわれのほのめかした事実がある。たとえば通りや広場のダゲレオタイプによる再現は、そこに何か目印となる建物がない限り、その通りや広場が熟練の藝術家による鉛筆や絵筆で複製されたときのように、すぐに分かる類似という特徴によってわれわれを驚かせるのが常ではない、ということだ。だから、目抜き通りのひとつであるリヴ通り〔ジュネーヴ〕をダゲレオタイプの板に映しても、わが街のひとたちがすぐには気づかないのを、われわれは見たのだ。われわれ自身も、そうした機会や他の似た機会に、認識したり名前を挙げたりするのに躊躇いを覚えることがあった。これは一見すると実に奇妙な事実である、というのも、同一のものよりも似ているだけのもののほうが早く認識されるかのようだからだ。もっとも、さらに奇妙なことに、もう少し考えれば、確かにそうなると納得できる。
まず確認せねばならないが、ここではまだ、ダゲールの板の場合、対象の再現が完全に同一となっていないことだけが問題である。そうでなければ、毎日鏡に映る自分の顔を簡単かつ十全に認識しているひとたちが、すぐさま薄っぺらい反論を述べてくるだろう。よって、完全な同一性を与える鏡についてはひとまず置いておき、色を除いた同一性を与えるダゲールの板について考え、次のところまで進もう。ほぼ同一のものは似ているだけのものよりも認識されるのが容易でも早くもない。
この矛盾をすぐさま真実とするには、類似性の条件は同一性の条件のうちには見いだせないこと、別の言いかたをすれば、完璧かつ全体的な、つまり即座に認識できる類似性が、同一性の追求とは別のところで探求され発見されることを証明するだけで、といっても決定的に証明するだけで、充分なように思われる。そして実のところ、それはとても簡単なのだ。確かに、周知のとおり、彫刻、版画、単色画は、同一性の本質的な条件である色彩を持たず、しかしそれによって類似性の条件をひとつも剥奪されずに通用している。下絵、素描、単純な線は、数多ある同一性の条件をひとつふたつに限らず欠きながら、類似性の条件の全てを持つことができるし、しばしば持っている。絵画でさえ、色を使っているとはいえ、絵画が似ているのは同一性の条件によってではないし、誰でも分かるように、ふたり画家がいて、ひとりは枝葉や藁屑を忘れず緻密に複写する機械、もうひとりは藁屑を放っておいて人物を捉える藝術家だったとき、われわれに再現を与えるのは前者ではなく後者なのだ、それは描かれている風景の最も面白い再現であるだけでなく、最も類似した再現でもある。こうした議論の余地のない決定的な事実から結論づけられることは何だろうか、再現された対象を認識するにあたって、ダゲールの板の上に集められた多くの同一性の条件は、単純な素描の上に散在する多くの、あるいはごく少数の類似性の条件と同等の価値を持てないということを措いて他にあろうか。
しかし、これらの事実は置いておこう。行動しよう、この機械゠画家を探しに行こう。フロックコートを着た皇帝を、全身を等身大で画布の上に再現してくれるよう、お願いしよう。生地の肌理、服の刺繍、剣の彫刻、睫毛一本、髪一本、毛一本まで見えるよう、忍耐強い正確さと驚くべき忠実さで制作してもらおう。ただ、ある一点で同一性を壊しながらも問題の条件を維持すべく、鼻を高くするか額を平らにするよう頼んでみよう……。それは誰かではある、しかし皇帝ではない。次にラフェ氏〔Auguste Raffet〕のところへ行き、紙切れに何本か鉛筆で線を描いて、皇帝が現われるまで続けてもらおう……。それはもう誰かではない、皇帝だ、皇帝でしかない! さて、脚を消し、フロックコートを消し、皇帝を丸ごと消して、小さな帽子だけを残してみよ……。やはり皇帝だ!! あなたは何と言うか? わたしはこう言おう、同一性の条件がひとつでも欠けると類似性が存在できないこともあれば、条件がひとつも残っていなくとも類似性が完全に維持されることもあるのだ。
わたしの挙げた例において、帽子は類似性というより象徴だろう、と言われるかもしれない。尤もだ、むしろ喜んで同意する、というのも、あらゆる類似性は象徴であり、そして、あらゆる類似性が象徴であるからこそ、類似性の条件は同一性の条件とは異なるだけでなく、まったく別の高度な次元に属するのだと示すために、あえてこの例を選んだのだ。実際、象徴とは何だろう? それは、多数の複雑な対象や関係を想起させる、要約された記号である。したがって、この帽子は皇帝の姿を要約した記号であり、皇帝を、また帝国を想起させる。それで、象徴の意味を認識するものは何か? 精神だ、精神だけである、なぜなら、目は記号を見るだけで、単なる伝達者として、記号の含意を知らぬまま精神に伝えるからだ。つまり、目は帽子を見るが、精神は皇帝とその栄耀栄華を受け取るのだ。さて、類似性とは何だろう? それは、多数の複雑な対象や関係を想起させる記号の集合である。したがって、木々や草原の描かれた画布は、それらの対象だけでなく、画布に描かれていない他の対象、対象そのものや想起される他の対象の間にある数多くの複雑な関係を想起させる。それで、画家の好みで選び、置き、増やした対象や関係を受け取るものは何か? 精神だ、精神だけである、なぜなら、目は記号を見るだけだからだ。目は草原に樫の茂みが影を落とすのを眺めるが、精神はそこには存在しない田舎の静けさ、物憂げな休息、羊飼い、羊の印象を、ここで間違えてはならない、藝術家の自由な意図どおりに受け取る。木蔭で夢を見て、心地よい涼しさを感じるのは、精神だ。精神は丘を歩き回って、荷車や犂といったものを2頭の黒い雌馬が牽くのを探しに行く。精神は黒い雌馬から、雌馬を曳く子ども、隣の村、暖かい馬小屋を推測する。これらは類似性の性質だが、象徴の認識される性質と全く同じである。もし、強いて両者の違いを言い立てるべく、象徴において記号はより簡略であるし慣用でもあるはずだと主張されるのであれば、類似性においても記号は限りなく簡略化できるのみならず限りなく定型化もできると示そう。先ほど、ある画布と、画布の上にある形と色を想定した。今度は、ある版画を想像してみよう、そこでは形のみが表現されており、また描かれる対象には全く存在しない描線や線影によって表現されている。つまり記号は明らかに簡略化されており、また部分的には定型化されているが、より完全で模倣的な記号の描かれた画布よりも対象や関係を想起させにくいわけではない。それだけにとどまらない。線影を消してみよう、つまり、すでに形しか模倣していない版画から、表現の大部分を占める陰影を取り除き、線だけを残そう。これで記号はさらに簡略化され、さらに定型化されるが、同じように対象や関係を想起させ続ける。こうした証明でも不満足で、類似性が象徴となったり象徴が類似性となったりするのを見なければ信じられないというなら、今すぐグランヴィル氏のところへ行って、胴体に1本、手足に4本、計5本の線だけで、踊ったり、挨拶したり、剣術をしたりする男たちや、精神、現実性、動き、生命に満ちた情景の全体を作ってくれと頼んでみよう……。必ず応えてくれるだろう[2]。さて、まさにここで記号は定型である、色も形も描線も取り除かれているのだから。さらに、表情も身体も、踊る足も、剣を持つ手も、おじぎする頭もない、にもかかわらず、この怪しい人物は挨拶し、踊り、剣で突き、楽しんでいるのだ。結論は? つまり象徴と類似性のふたつは、ただ似ているだけでなく、本質的に同じものである、なぜならここで類似性は象徴であり象徴は類似性だからだ。したがって、比較されているふたつの用語には、ひとつの同じ定義が完全かつ完璧に当てはまる。
もっとも、類似性が本当に象徴であり、〈藝術〉が明らかに類似性によって行なわれるとしたら、まずは以下のように結論づけねばならない、すなわち、あらゆる類似性は、表現されるにも知覚されるにも精神の助けを必要とし、どんなに完璧だと思われ驚異を期待されている機械も、類似性に属する現象、ひいては藝術に属する現象を少しも生み出せない。とりわけダゲールの機械は、動かない対象、あるいは動く対象でさえ、色つきの像で再現できるまで完成されたとしても、藝術には一歩も近づかない。なぜなら、常に、必然的に、そしてますます、その機械は類似性ではなく同一性を与え、目に見えないものの記号ではなく目に見えるものの像を与え、精神による精神のための物質ではなく物質による物質のための物質を与えるからだ。さらに、われわれの前提が正しければ、これから改良されるたびに、この機械による作品は〈藝術〉作品からいっそう離れてゆく。実際、現状ダゲールの板は同一性がまだ不完全であるからこそ類似性と共通するところがある、というのは、対象の色を与えず、そのぶん対象の記号が簡略化されているのだ。しかし、他のあれこれに加えて色までも再現できたら、同一性と類似性との隔たりが完全に解消され、模倣は可能な限り物質化され、記号が完成されたからには目だけで充分であり、もはや精神で見るべきものは何もない。これはまさしく鏡による現象で起こっていることだ。なぜなら、つまるところ、ダゲール板に期待できる最高の驚異を予め実現しているのが鏡に他ならないからで、ほぼ唯一の違いは、鏡の中では一瞬だけ対象の存在に依存して現われる像が、板の中では固定され、したがって対象から遠くにも移せることだけだ。
お分かりだろうか、ここまで鏡について、現状のダゲール板について主張したこと、つまり、似ているだけのものよりも完全に同一であるもののほうが即座に認識されにくいということを、あえて主張しなかった。というのも、強力で頑迷な偏見に対して優位に戦いたいときは、初っ端から相手に緋色を見せてはならないのだ。しかし今やわれわれは、類似性の条件と同一性の条件が別物であると確かに認識したので、鏡の像が〈藝術〉作品の像よりも限りなく正確であるわけではない、むしろ、それは即座には認識できない、つまり根本的には似ていない可能性がある、と主張するのが、もはや緋色でないのは確かだ。
この結論は常識そのものと真っ向から対立するように見えるが、先ほど確立した原理から正確に導かれる。証明はじつに簡単だ。しかし、その道を辿ろうとしたら、常識が不信感を抱き、惑わされているのではないかと考え、終着点に至ったら出発点を疑うだろう。だから、常識が住まいを離れず、習慣を乱されず、疲れず、怖がらず、来たよりも急いで引き返さずに辿れる別の道を選ぶ。常識が巣穴から3歩出る気になるには、こうしたことが必要なのだ。ああ! 情念の話をしてくれ。情念は、はるかに少ない労力で、揺さぶられたり持ち上げられたり、あるいは惑わされたりさえする。
鏡は肖像画よりも似ていないという考えを常識が受け入れられないのは、おそらく、実際にはそうでないにもかかわらず、〈藝術〉作品において似ているものとはそっくりなものだと、深く考えずに信じているからだろう。似ているものとは思い出させるものであり、それ以外のものではない。完全に似ているものとは、即座かつ充分に思い出させるものだ。さて、即座かつ完全に思い出させるものは、対象そのものにそっくりなのではなく、対象についてわれわれの持っている概念にそっくりである。もしわたしがあなたの前で、すらっとした四本脚、太鼓腹、細い尻尾、ふたつの長い耳を持った動物を、たとえ非常に不完全な鉛筆画でも描いたら、あなたは言うだろう、いや、もう言っているのではないか、「それはロバだ」と。もっとも、この素描は本物のロバとそっくりでは全くない。しかし逆に、あなたが本物のロバについて考える概念とはそっくりになっているから、たちまち一瞬で本物のロバを完全に思い出させる。さらに、そこから好きなだけ相似を完成させられる。肋骨を描いたり、襞を感じさせたり、毛の一本一本をなぞったりできる、ところが類似性には何も追加できない、つまり、より迅速かつ完全に認識させるようにはできないのだ。あなたもまた、自分の鏡を持ってきて、ロバのありのままの姿をあなたや周囲のひとに映したところで、そのひとたちにもあなたにも、素描を見たときよりも迅速かつ完全に認識させることはできない。すると、鏡が似ているのはわたしも認めるが、それはそっくりだからなのか? 否。なぜならここに、似ているけれどもそっくりではない素描があるのだ。だから〈常識〉よ、いつものように、鏡のほうが対象そっくりなのだから鏡のほうが対象に似ていると頑固に結論づけないでくれ。むしろ、この素描を作成したひとの藝術は、類似性を生み出す上で、厳密に正確な驚くべき光学法則とは全く別の有効性や力を持っているのだと認めたまえ、なぜなら、光学法則の全てをもってしても、類似性について、初心者の引いた4本の悲惨な鉛筆の線に勝つことはできないからだ。
今度は、ロバをどかし、その場所に座ってみよ。あなたは鏡の範囲にいて、わたしが鏡の中にいるあなたを見る。〈常識〉よ、わたしが驚いたのは、あなたの耳も少し長いということだ。それから、誠実そうな雰囲気、機知はないが悪賢くもない清廉潔白な表情。そして、わたしが考えるに、あなたに正しく与えられているこの評価がどこから来ているにしても、まずはわたしから来ている。あなたは良識ではない、しかし良識の雰囲気をまとっている、だから、わたしが考えるに、あなたは頻繁に呼び出されるのだ、何よりもまずわたしに。あなたがわたしを見つめるまなざしの真っすぐさが好きだ。しかし、それは斜めではないが、何も貫かない。〈常識〉よ、あなたは丸眼鏡をかけねばならない。あなたのブルジョワ的な顔立ちと紳士的な服装には、きっと丸眼鏡が似合うだろう。わたしがかけよう、最初に……。しかし、お気づきだろうか? わたしが鏡であなたを見ながら描いた肖像画、この肖像画で、わたしが見るよりも推察していることを。わたしが肖像画を、目で据えつけるよりも思考で掴んでいることを。わたしの発言が続いている間、あなたの顔つきの上を絶えず流れる変化に富んだ手がかりについて精神で観察していることを。そして、お気づきだろうか? それらの手がかりが、あなたの顔つきの最も重要な特徴であり、あなたの魂をあなたの顔に描くものであり、つまりは顎や鼻よりもよっぽどあなたの個性を特徴づけていることを。 顎や鼻なら似たようなものを見たことがあるのだ。また、お気づきだろうか? それらの手がかりは、額の形、瞼の切れ目、顔の楕円形とは違うものであると。何より、結局のところ、お気づきだろうか? あるものは同期して、しかし変化する、別のものは孤立して、しかし一時的である、つまりいかなる瞬間であっても、鏡がそれらをわたしに同時かつ一体かつ不動の状態で提示することはなく、ダゲール氏があなたの姿を固定したところで、その瞬間のあなたの姿はあなたそのものの4分の1、8分の1、10分の1、100分の1でしかないことを。わたしは知っているが、借りものの表情を作ることもできるし、画家の前でポーズを取るひとの多くは必ずそうする。自分の顔に、愛想のよい雰囲気、艶めいた優雅さ、快活な笑顔、抗えない憂鬱、輝くまなざし、独特の唇、こうした芝居がかった百の表情、虚栄心による千の策略を浮かべることができ、身体の筋肉は自在に嘘をつく道具となる。できるのだ、何が妨げるというのか? これら全てを自ら鏡の前で行ない、ちょうどよいときに、この嘘を永遠に固定してくれとダゲール氏に合図を送る……。しかし〈常識〉よ、これが仮面ではなく顔なのか、演劇の登場人物ではなく人間なのか、言ってみてくれ。そして見たまえ。自分の顔を鏡で瞬間的に止めても、固定するための顔を鏡で作っても、鏡は不完全な、あるいは偽りの肖像画しか、あなたに提供できない。あなたは自ら、もっとよく似た肖像画を、画家に頼むのだ!
わたしに任せてくれ、よい画家を知っている。その中でもとくにひとり[3]は魂の表情を素直に表現するのだ、顔とは不確かで揺れ動く魂の鏡にすぎない、ときに厳しく、ときに無邪気ゆえの魅力があり、ときに真面目な優雅さや寛大な賢明さに惹かれる、そうした特徴を画布に固定するのだ。常に真実で、常に生きており、精緻に捉えられ、真っすぐ描かれる。彼は40年間、わたしたちの先祖、姉妹、子どもを描き続けた。そこにいないひとたちの像や、もういないひとたちの幻影を、わたしたちの家に住まわせ、救いや慰めとなる藝術で家族を祝福してきた。彼がわたしたちに見せ、わたしたちのために保っておくのは、本当の顔であり雰囲気なのだ。若いときや老けたときに限らず変わらない雰囲気、わたしたちの昔から知っていた雰囲気であり、その雰囲気によって永遠に愛おしい、なぜなら、記憶、友情、尊敬、温かい交流といったものによって、無骨で平凡で不格好な顔のうちにさえも見出し、眺め、慈しむことのできる特徴を、わたしたちの心が作り出すからだ。〈常識〉よ、あなたは彼を、常に正確な素描をするとは限らないといって非難し、モデルの魂を読み取ることに夢中になるあまり肘を長くしたり指の輪郭をはっきりさせたりするのをしばしば忘れる藝術家の軽率さを、甚だしい大失態だと責めたてた……。彼ではなくあなたのほうが甚だしい大失態だったと、今では理解できるだろうか? というのも、あなたは美しい詩を文法の練習問題としか見ず、多くの詩を称賛するのではなく規則違反を恐れる純正語法主義者のようだったのだ。ホラティウスの詠う恋人のように、欠陥や欠如さえも愛するのではなく〔『諷刺詩』第1巻第3歌〕。しかしそれは、あなたが鏡、同一性、定規、コンパス、影絵模写装置〔横顔の影を紙に映し、それを裏からなぞって、さらに銅板に転写することで、精緻な肖像画を描く装置。フィジオノトレース。観相学の祖であるラヴァーターが開発した〕、型、蝋人形を信じており、この自由で知的な藝術、つまり目に見えるものから見えないものを抽出し、現実に触れなくとも常に真実に触れられる唯一の藝術を信じていなかったときの話である。
しかし、もしあなた自身の肖像画が、あなた自身の目にとって、鏡に映るあなた自身の像よりもずっとよく似ているとしたら、自分の姿よりもはるかに馴染みがなく、消えかけた、しかし特徴的な刻印だけが記憶に残っている人物については、どうなるだろう? もしそうしたひとたちの鏡に映った姿を見せられたら、あなたがこれまで観察したことのない限りなく細かな同一性によって、あなたはそのひとだと認識できるだろうか? むしろ恐れるべきは、あなたの記憶に留めていた特徴的な記号が、あまり孤立していないからこそ、そしてあなたにとって何の価値もない多数の記号の只中に紛れているために、あなたから逃げ出し、この類似性が誰の像であるかを言い当てられなくなることではないか? もし鏡ではなく肖像画を見せられたら、つまり完成度は低いものの間違いなく特徴が似ており、虫眼鏡で見たら不正確だが精神にとっては全く別の仕方で忠実であり全く別の仕方であなたの記憶の中の刻印とそっくりな、あなたにとって顕著な記号である肖像画に描かれた人物の名前を、すぐさま挙げられると思わないだろうか? したがって、いずれにせよ、〈常識〉よ、あらゆる道筋によって、さほど遠くへ行かなくとも、鏡の像は肖像画の像よりも似ていないと認識できた。肖像画家がモデルの顔をじっくり眺めるとき、実際には鏡の忠実さを猿真似するのとは全く異なる目標を追求していること、あるいは、そうした忠実さを獲得しようとしているのであれば、もはや藝術家ではないことを、理解した。そして〈常識〉よ、わたしも思うのだが、ただ複写する者であれば、鏡のほうが、あるいはナルキッソスが大喜びで自分自身を見つめた透明な泉のほうがまだましだ。
しかし〈常識〉よ、わたしが驚いたのは、ずっと前からあなた自身が誰の助けも借りずに丸眼鏡なしの肉眼でそう見ていたわけではない、ということだ。というのは、つまり、顔立ち、皮膚、皺、疣、和毛を見事に複写する画家が、平板で、滑稽で、的外れで、魅力を欠き、生気のない類似性しか仕上げられず、他方で、こうした顔の特徴の多くを消し去り、いくつかの特徴的な手がかりに奇妙なほど執着し、見えるもの以上を垣間見えるものを追求する別の画家が、力強く、生き生きとした、活気ある似顔絵を描くのを、よく見かけるのではないか? これだけでも、物質的な複写からは物質的な類似性しか出てこない、つまり仮面の出来不出来にしかならず、他方で、感覚的かつ知的な模倣からは、精神的な類似性、顔、表情が常に現われると分かるはずだ。そして〈常識〉よ、ふたりの画家のうち、幻影を放棄した前者は身体も失ったのであり、他方で、幻影を追い求めた後者は肉体をも捉えると言えるのではないか? いや、申し訳ない。これはあなたの考えにとって衝撃的すぎたかもしれない。何も言わなかったことにしよう。
ここで肖像画ではなく風景画について話したとしても、同じようになるだろう。なぜなら風景は、草の葉の間を歩くコオロギや屋根の上の数えられる瓦によってではなく、その風景の性格を表わす選ばれた特徴によって、あるいはもっとはっきり言えば、記号が精神によって保存された刻印と率直に一致することによって、似ているからだ。精神は、ある景色を初めて見たとき以来、絶えず刻印を受け取っている。だから、その刻印は初歩的かつ本質的なのだ。少ないが、しかし際立った特徴で構成されている。左手に塔を見る。正面にはヒースの荒野だ。さらに遠くには穏やかで朧げな、あるいは近くてギザギザした地平線だ。まだ他のもの、もっと魅力的なもの、目を惹くものも見るが、この風景と他の風景に共通しているものは、いつの間にか個人的な刻印からは消え、受ける印象の普遍的な塊に溶けこむ。するとどうなるか? しかるべき精神に、あとになって風景の反射像を見せると、同じように、注視しなかった多くの細部に惑わされ、その中に風景の特徴的な要素が紛れたり混ざったりするために、認識するのを迷ったり、さらには全く認識できなかったりする。なぜなら、繰り返しになるが、似ているとはそっくりであることではないからだ。もっと限りなく少ない、しかし、素描であれ画布であれ、選ばれた特徴的な描線によって構成された類似性を精神に見せれば、すぐさま場所を特定して名前を挙げられるだろう。これは単なる推測ではない。毎年訪れるアルプスやスイス各州の風景を、目が不自由なためにその場で写生できず、訪れて1カ月や2カ月後に、記憶から複製して満足している観光客を、われわれは知っている〔これは目の病気を患っていたテプフェール自身のことか〕。じつのところ彼が再現するのは、もはや景色そのものではありえないが、とても似たものに違いない、なぜなら誰もが、そして〈常識〉よ、あなたも難なく認識し、名前を挙げられるのだから。誰もが、そしてあなたもまた、こう言うに違いない。これほどありのままに描けるなんて、何と幸せなことか!
もっとも、肖像画の場合と同じく、風景画でも、似ているとはそっくりであることではなく、逆に、思い出させ、表現し、思考に直接語りかけることであるとしたら、〈常識〉よ、田舎で座って絵を描いている藝術家は、鏡の忠実さを猿真似し、自分の実践する藝術を几帳面で隷属的な模倣の軛に縛りつけることには関心がないと、ようやく理解できただろうか? あなたは、彼が頭の中で瓦の枚数を計算し、草の葉を数え上げるのに忙しいと思っているだろうが、そのとき彼は、草の葉や瓦について考えているのではなく、自分の感じた喜び、経験した感動、さらには心に咲いたばかりの詩を、どうやって思い出し、表現し、自分の言葉で語り直せるかだけを考えていると、理解できただろうか? そして、よく見てくれ、彼は確かに、作業しながら、ときに漫然と満足げに鼻歌を口ずさみ、ときに熱心かつ真剣に注意深く考えこみ、さらには最も秘められた魅力を心ゆくまで味わうために手を止める、するとこう言われるだろう、揺れ動き満たされた魂は神秘的な花瓶のようで、そこから重々しく厳かで力強い楽しみが溢れ、静かな流れが彼の顔立ちを覆っている。ならば、それは職人や写字生の表情なのか? 人里離れた場所で、数時間を、いくつもの朝を、いくつもの丸一日を過ごし、心は一杯で、魂は満たされた男、冬になると愛すべき孤独に戻りたくて夏を待ち望む男は、空腹に駆り立てられて仕事に戻る人夫なのか? 草がまた生えるのを待って食べようとする獣なのか? それよりはましな、家、木、柵を複写したいだけの知的な生き物なのか?……
なるほど、とあなたは言う。しかしあなたは続ける。この画家の眼前にある風景、画家が非常に多くのものを味わっている風景だが、つまるところ、同じくらい素晴らしい千もの風景にわたしは出会っており、画家がその場所をそれほど美しいものとして見られるのか疑問にさえ思う。――あなたと同じく、〈常識〉よ、わたしもこの風景に特筆すべきものは何も見つけられず、ひときわ美しいものも見当たらない。しかし、それが何だというのか? この画家は風景を風景として描きたいのだろうか? 否。画家は、風景を描くことで、そこから受ける印象、そこで味わった詩を表現したいだけであり、したがって、どれほど平凡で見どころがなくとも、この風景は画家の目的には充分なのだ。だから、名人よりも単純な主題を選ぶ者がいるだろうか? そして、画家であれ作家であれ、偉大な詩人にとって、単純で平凡で自然なものから離れずに、あらゆる美しさを見出してわれわれを喜ばせるのが、まさしく彼らの力の表われなのだと、あなたはまだ気づかないだろうか。単純なものを活用できないために、奇妙なもの、驚くべきもの、奇跡的なものへと向かうのは、出来損ないの画家、出来損ないの詩人なのだ。何も持たずに借りている貧者であり、踊り方を知らずに跳ね回る軽業師である。
しかしあなたは尋ねる、いったい何に美しさを見出すのか、その画家は……。どう答えよう? もしこの風景があなたに何も語らないとしたら、わたしもまたあなたに何を語れるだろう? ――向こうの、丘の斜面に、画家は見るのだ、澄んだ影に包まれた、素朴な小屋、夜に入りつつある森、遠くの野原から来て泥の坂道を人里離れた小屋まで登ってゆく2頭の遅い牛を。画家は見るのだ、斜面に沿って積まれた石、その蔭で野生の桑が幹を伸ばし、棘のある枝を広げ、傍にふたりの少年がいるのを。画家は見るのだ、丘の頂の上、森の梢の上、さらには遠くの鐘楼の荒廃した尖塔の上にまで、緋色の境界が現われ、反対側で夕日が輝いていると知らせるのを。画家は見るのだ、金色に縁どられた雲が紺碧の空に浮かぶのを。こうしたこと、非常に単純なことを画家が見ていると、夕方の風が、芳しい新鮮さ、荷車の単調な軋み、遠くに聞こえる羊の声、水や虫や葉擦れの混ざったざわめきを運んでくる……。こうした印象の魅力で、画家の魂は浄化され、思考は拡げられ高められる。やがて官能に従うのをやめて自分の生活に戻り、目が素朴な荷車を見せると、生活は汗、収穫、動物と人間の平等な協働、人間の運命の一面を見る。目が茅葺の侘び住まいから灰色の煙が立ちのぼるのを見せると、魂は、家庭の避難所、暖炉の温かさ、得られる滋味豊かな休息、千の窮乏の只中での千の慈しみを見る。魂は、この貧しいが悩みはなく、疲れてはいるが苦しくない状態を、都市の騒乱、野心の汗、畑の収穫よりも渇望される不確実な栄光の収穫といったものに対置する……。これ以上わたしが続ける必要はあるだろうか、さらには、わたしがあなたに絵を描くために、わたし自身が画家となろうか? むしろテオクリトスを思い出してみよ、ウェルギリウスを思い出してみよ、なぜなら彼らはそうしたものから詩を作っていたのだ。しかし同じように、クロード、プッサン、ポッテルを称えたまえ、なぜなら彼らはそうしたものから画布の上に詩を作ったのだ!
ダゲールの板について討議してきた疑問を解決するには、これまでの考察で充分に足りているから、これ以上こだわるつもりはない。実際、この問題の解決とは、板に特有の模倣の種類である同一性と、あらゆる〈藝術〉作品に特有の模倣の種類である類似性との関係をはっきりさせることだった。だからそうしたのだ。もう関係は分かったので、あとはふたつの用語を並べるだけだ。同一性は、工程による無加工の産物であり、したがって対象の像そのものしか表わさない像だろう。類似性は、像ではないものを自由に表現した記号だろう。 同一性は、対象の写しのみを複製できるだろう。類似性は、対象を記号として受け取り、あれこれの意味、あれこれの印象、あれこれの感情、あれこれの思考を自在に生み出し、有限のものを無限のものに、描写を詩に、模倣を藝術に変えられる。同一性はわれわれの諸器官によって認識されるが、諸器官の作用は思考の作用に比して緩慢かつ粗雑で、感じるというより検証するものだろう。類似性は精神によって認識されるが、精神の動きは瞬時に行なわれ、直観によって完全に遅滞なく曖昧でなく把握される。
この視点から、われわれは広大な新しい地平を発見するだろう。われわれの弱い目からしばしば〈藝術〉の精神性を覆い隠す雲が消え、天上の原理たる思考が、明るく穏やかな空に輝くのだ、思考は主権者として君臨し、記号を手なずけ、最も粗雑な工程を表現力豊かな慣用句にし、目に見える自然に属するあらゆる対象を、もはやモデルではなく創造の道具にする。模倣の一様で限定的な完成の条件、それは対象の卑屈な複製であり、模倣は類似性に負けるのだ、類似性は目に見えたり見えなかったりする対象や関係の表現力豊かで無限に多様な記号であり、類似性の思考だけが知性を持っている。本人もまた、複写しているか翻案しているか、模倣しているか表現しているか、受け取るか与えるかによって、単なる絵描きか藝術家か、単なる韻文書きか詩人か、単なる知的機械か創造的天才かを見られる、そして、真実をはっきりと見分ける目に必ず伴う真剣な喜びに、光を得る喜びが加わるのだ、そして楽しみながら見識をつけ、感謝しながら目利きになる。
そうした精神性によってのみ〈藝術〉の現象を説明でき、雄弁術や詩と並ぶ地位を保てるのであり、精神性がなければ人々や社会や時代から受ける普遍的な敬意に値しない、にもかかわらず、その精神性を証明するのに比べて、大衆に認めさせるのは、残念ながら甚だ困難なのだ、というのも大衆は、おそらく信念によってではなく、まして学説によってでもなく、しかし実際に、美術は模倣を目的や到達点としている、模倣に他ならない、という伝統的な意見に満足している。この意見は、すでに述べたとおり、〈藝術〉における精神性の全てを暗に否定しつくしており、また、すでに述べたとおり、あらゆる点で間違っている。だが、いかに間違っていようとも、そして、藝術の傑作を観賞したときの魂の動き、詩的な印象、知的な喜び、つまり書かれた詩や雄弁な本を読んだときに自ずと生じるのと同じものが、その意見のいう原理と絶えず矛盾していようとも、この意見、明白な誤りは、真実よりも優勢であり、まだ長いこと優勢であり続けるだろう、なぜなら容易に、明快に、簡単に受け入れられるからだ。言葉そのものが〈美術〉を模倣の藝術と呼ぶせいで意見を助長しているからだ。藝術的な喜びを直接かつ楽しく享受する道具が目であるせいで、〈藝術〉は目だけに働きかけると早合点してしまうからだ。大衆だけでなく、多くの学識者たち、作家、あるいは藝術家さえもが同意し、皆に対して尤もらしく君臨するからだ。こうしてダゲールの板は、登場して以来、科学の奇跡としてだけでなく、〈藝術〉にかかわるもの、その方面での一歩、進歩、藝術家の作品に匹敵し、藝術家を啓発し、腕前を見せつけ、用心しない藝術家を追い抜くであろう製品として、大衆に紹介された。大衆は常にお人よしだから、機械を藝術家の地位にまで引き上げ、藝術家を機械の地位にまで貶めるという、二重の侮辱を進んで受け入れた。今日でも、ダゲールの機械が〈藝術〉に何ら影響を及ぼさず、ほとんど接触せず、ダゲレオタイプによる製品が流行も価格も低下している一方で、〈藝術〉作品は依然として高く評価され、求められ、買われているのが誰の目にも明らかであるにもかかわらず、板への熱狂のうちに、その際に提唱された考えが残り、かつてないほど〈藝術〉唯物論が巷間に流布し、新聞記事で開陳され、店に並び、宣伝者を得るのだ、そうした宣伝者は、他の主題についてはことごとく教条的で超越的な精神主義を誇っていても、この主題については深く考えてこなかったらしく、思考を捨てて感覚を優先させようとする。専業哲学者でさえ、そのような者がいるらしい。これは専業哲学者が、人類の楽しみである〈藝術〉を低く見がちだからではないか? 哲学者の職業が、あらゆるものを注意深く観察することに他ならないのを、忘れているのだ[4]。
もちろん〈藝術〉のためを思えば遺憾である。しかし別の観点からしても、関連する問題が論点となっているのに、多くの真摯な方々や著名な作家でさえ無視しているのは、理解しがたい。確かに、〈藝術〉の現象のような、思考の存在、役割、性質を強く表わす現象を観察し、いつの日か揺るぎない基盤の上に唯心論を確立するに至るほうが、最初から目に見える事実や実験可能な作業を超越し、感覚の助けの外側で、完全に抽象的かつ形而上学的な方法に頼って、しばしば正しい原理や有用な生産性を固い基礎とするどころか不明瞭な学説の危うい支柱で足場を組んでしまうよりも、はるかによいだろうと思われる。しかし逆に、観察できる範囲の現象を出ることなく、真理を探求するために、精神が内に籠って自らを道具かつ対象とするのみならず、諸器官や実験を利用して観察するのは、あまり目覚ましくない、明らかに限定的な、しかし確実で、いくつもの経路によって到達可能で、互いに支え合い、異なるが対立せず、最終的には多数かつ集合であることによって、完全な論証ではないが間違いなく確実な諸要素を形成するような結果の出る方法ではないか? つまり、この精神の原理は、信じる前に、じっくり見つめるべきなのか。どうにかして無限の原理を有限の公式のうちに閉じ込めるべきなのか。あちこちの痕跡を示し、異論の余地ない証拠で存在を示せば充分でないか? 神を推察し、認め、公言し、自分の心、人生、希望を神に託す前に、誰かが神を定義し、説明し、証明してくれるのを待ったか? 哲学者よ、あなたの学説は、われわれの頭上の彼方、あなたの手中よりもはるか上にあるのだ、宗教そのものが覆いの下に残した謎を探ろうとするあまり、大きくしようとするものを小さくし、暴こうとするものを曖昧にし、明らかにしようとするものを傷つけ、規則に従って自分なりに命を吹き込みたいと思っているものを殺す、無謀な神学に似ている。天から降りてくれ。ふらふらする場所を離れて、平地か、少なくとも丘に足をつけてくれ、そこからは広々とした明瞭な地平線が見える。そこから大いなる神の作品を調べてみよ、もし巨大さに圧倒されるなら、人間の作品に目を向けてみよ、なぜなら神は結局のところ自分の姿に似せて人間を造られたのだから。詩、〈藝術〉、人類の知性のあらゆる記念碑を調べてみよ。どこでも思考と物質から出発し、どこでも一方を他方に対置してみよ、等価性もなく、類似性もなく、共通の尺度もなく、接し合わずに共存し、比較されずに同時に考えられ、天でも地でも一方が他方を永遠に支配する、このふたつの原理を隔てる無限の距離を、どこでも誰にでも、はっきりとした記号で示してみよ。可能なことだ。真に素晴らしい戦いである、不信仰者を改宗させ、懐疑論者を説得し、無関心、迷信、誤謬の千の道に散らばっている群衆をひとつの同じ神聖な旗印の周りに結集させる戦いだ。
しかし、急いで天から降り、この記事の発端だった『ダゲール的旅行』に取りかかろう。『ダゲール的旅行』は、短かい説明書きのついた景色の集成だ。先日、それらの景色がサロンの机に散らばっているのを見たとき、それらの示す真実と魅力という二重の性格に衝撃を受け、何か言いたいと思った。とりわけ、価値の大部分をダゲールの工程に依っているそれらの景色が、先に述べた意見に反して、純粋に藝術的で知的な工程による優れた作品と、おこがましくも肩を並べかけた理由を説明したかったのだ。
いきさつははっきりしている。まずは、それらの景色がダゲール的である理由だ。この美しい集成の編集者であるルルブール氏は熟練の光学技師で、住んでいるパリから、優れたダゲレオタイプを持った旅行者を各都市へ、各地方へ、アルハンブラ宮殿やピラミッドへと派遣している。現地に着いた旅行者は、器具を設置し、記念碑や風景の像を板に固定し、その後、板をルルブール氏のところへ持ちこみ、ルルブール氏がそれを版画家に渡す。版画家は板そのものをドライポイントでなぞり、版とする鉄板に転写する。したがって、ここで版画家は、対象それぞれの位置と形状、構図と線の遠近法、すべての影の方向を確信している、つまり、ダゲレオタイプの像にまつわる、絵画にとってはそうではないが景色にとっては重要な、適切さ、精密さ、明瞭さといった性質を全て把握している。しかし版画家は、自在に転写し、自分の感覚に従って効果や色や性格を扱い、そこに存在しない動物や人間を描き入れるほど、板にない生気や表現を画面全体に広げる達人でもある。つまり、対象に完全に適合する工程と、少数の優れた版画家の知的な技術の組み合わせであり、それゆえ真実にかかわりつつ新奇性の魅力ともかかわる二重の関係を持つ傑出した作品が生まれるのだ。
なぜなら、これは本当の真実であり、景色という点では限りなく珍しいが、限りなく貴重でもあるからで、有名な場所、とくに記念碑や然るべき廃墟といった、全体的な大きさや形については知っているが、特徴や起伏や実際の外観は初めて見るような場所は、細部に至るまで価値がある。アレクサンドリアの本物の浜辺で、まさしくその場所にあるがゆえに当然ながら興味を惹かれる石の数々でできた崩れた台座にかろうじて立つ本物のポンペイウスの柱を見られて、われわれは大きな喜びを味わった。説明書きから、学者たちはこの柱が偉大なポンペイウスを偲んで美しいクレオパトラによって建てられたとは認めていないと知った。ある長官がディオクレティアヌス帝を顕彰して建てたというのだ。学者には、詩的で偉大な伝承を長官の小さな物語に替える権利があるだろうか? 学者には、消えた碑文を都合よく見つける権利があり、消えた碑文を読めるかのように読む権利を主張できるだろうか? 学者には、あらゆる詩的な信仰をひとつひとつ破壊し、あちこちに分裂や異端を招き入れ、われわれの神々を学者たちの崇拝するつまらない偶像、もっと言えば各自で信じているにすぎない呪物で置き換える権利があるのだろうか?
ティトゥスの凱旋門、メゾン・カレ、アッコの聖ヨハネ騎士団城、エルサレムもまた、興味深い真実の傑作だ。場所や記念碑はあらゆる地域から厳選されている。しかし何より称賛すべきは、丹念な仕上げ作業である。力強いが硬くはない明瞭さで全てが表現され、記念碑は線の細さや比率を維持した飾りや装飾帯や刳形によって純粋で厳格な優雅さを保っている。この貴重な集成について、完成度はアクアチントの精緻な版画による傑作と並んでいる、忠実さはこれまでの何よりも優れている、と言えば充分だ。
これらの版画の中に、意見の分かれている遠近法の問題を偶然にも解決した版画がないか、探してみた。見つからなかった。問題はこうだ。たとえば、正面から見た下り坂を、真っすぐな広い道路の果てのように描いて、下っているように見せる。――ということは可能か? そうは思わない。しかし決めるのはダゲレオタイプだ。ある日、グザヴィエ・ド・メーストル氏は、この問題に終止符を打ちたいと考え、ナポリ近郊のカステッランマーレの下り坂の真正面に立ち、板ガラスで下り坂をなぞって、線を画布に移し、絵筆を取って、小さな絵を描いた、われわれはその絵を持っている。この絵を見て、心地よく感じるかどうか迷う者はいない。しかし下り坂かどうかというと、迷いが生じ、意見が分かれ、議論が起こり、解決策は見つからない。ルルブール氏がこの文章を読んだら、われわれの頼みに応え、われわれを苦悩から救うために、ちょっとしたダゲール的実験をしようと思ってくれるだろうか? そうだとしたらたいへんありがたい。
(訳:加藤一輝)
[1] 1840年5月号と6月号を参照のこと。
[2] 「彩色新聞」第31号(1840年8月)掲載の、この種の小さな図形が、曲の主題である駆足や軍隊行進や宗教行列を行なっている様子で描かれた楽譜を参照のこと。今日、この小さなひとたちを見返してみると、頭があるのは分かるが、それは白い音符や黒い音符としてであり、紳士淑女として描かれているはずの頭ではない。それらの絵は、この種のものを受け入れるならば、その最高傑作である。そして、どんなに小さくとも、陽気、人生、精神のすべてであり、何も言わずに多くを語ることによってのみ味わえるこの種のものを、頼まれなければ受け入れない者などいるだろうか。グランヴィル氏の小さなひとたちは各々が動作や外観や表情を持っている。ふたつとして似た者はいない。多くの者は気障な態度のせいで、あるいは身だしなみさえ気取っているせいで滑稽である。皆が生きており、動き、話し、その全体像は想像しうる鉛筆画の手すさびのうちで最も機知に富んでいるもののひとつだ。それに、グランヴィル氏の独創的かつ大衆的な才能が、辛辣かつしばしば真面目で深遠な観察を象徴で描く藝術のうちにあるのでないとしたら何なのか? 陽気であれ滑稽であれ道徳的であれ、いずれも非常に複雑な思考を率直に表現した仕草を動物のうちに見出すことでないとしたら? そして、第一級の挿絵画家であり、その分野で唯一の人物である理由が、多くの藝術家よりも藝術家、多くの詩人よりも詩人であり、観察の天才で、精神、考察、思考に恵まれ、記号に従属するのではなく記号を支配し、自分のために自在に記号を作り、それで遊び、誇張し、鑑賞者に見せるためではなく、主人に代わって人々に何千もの精神的なことを、皮肉っぽく鋭く簡潔に伝え、『動物自身によって描かれた動物たち〔Animaux peints par eux-mêmes〕』に附された文章のように緩慢ではなく、手間をかけた嘲笑でもなく、それでいて十全かつ明晰なままであることでないとしたら? そうしたラフォンテーヌは創造である。ラ・ブリュイエールのような作品を構想しているらしい。最高傑作であるに違いない。
[3] ジュネーヴのマソ氏〔Firmin Massot〕、またその教え子のムニエ゠ロミリー女史〔Amélie Munier-Romilly〕である。
[4] ラムネー氏〔Félicité de Lamennais〕は、近著『哲学概論〔Esquisse d'une philosophie〕』で、〈藝術〉原理の哲学的説明に何章かを割いているから、この著名な作家が、〈藝術〉を長年、注意深く、かつ愛情深く研究してきたのが分かる。とくに、唯心論の観点から見た絵画の流派についての評価は、極度の断定や、既成概念にとって衝撃的なものもあるが、あまりにしばしば曖昧で無意味な大言壮語の文章で主題とされてきたものについて、おそらく最も深遠で、最も高度で、何より最も考えられた著作だ。ラムネー氏の方法はじつに総合的である。原理を定め、それを〈藝術〉の現象や歴史にほぼいつでも的確に当てはめる。残念ながら、〈藝術〉の精神性を雄弁に示している何章かは、一般読者にとって些か読みづらいため、そこで説明される見解を広めるにはあまり適していない。
それに、同じ原則から出発すれば、どのような道を辿っても、偉大であれ卑小であれ、著名であれ無名であれ、パウロであれヨハネであれ、どこかで合流するのだ、それを誇りとするかはヨハネ次第である。以下は絵画についてのラムネー氏の章から抜粋した文章である。
「藝術は、藝術の模倣、あるいは既に完成された創作物の模倣でないならば、自然の模倣でもない」
「しかし、絵画はわれわれの目に映る自然を再現するのみであり、絵画は自然の正確な像でしかないと、信じてはならない。もしそれが本来の役割であるなら、ダゲレオタイプはラファエロやプッサンを優に越えるはずだ」
「われわれの見る場所には、いつもわれわれの内にある何かが混ざりこむ。われわれの感覚がそこから受け取る物理的な印象は、われわれ自身の中で変換され、いわば思考、感情、内面と調和した理想的な像を創り出す」
クロード、サルヴァトール〔Salvator Rosa〕、フランドルの画家たち、といった風景画家についての箇所では、さらにこう述べている。「われわれが、ごく平凡で単純に見える自然、小川と何本かの古い柳のある草地の前で、漠然と眺めつつも何時間も何時間も引き留められてしまうのは、どんな秘密の魔法によるのか?……ここには藝術家の思考や内面があり、それがあなたに伝わって、あなたを捉えているのだと、分からないだろうか、云々」
もっとも、こちらとしては、ラムネー氏が自身の原則を絵画に適用して、絵画における思考の役割を研究し論証している部分には、重大な不備がある。この主題を扱ったほぼ全ての著者と同じく、そしておそらく、この藝術を個人的に実践しなければ得られない示唆のいくつかを受けていないせいで、絵画が理想の美を表現し、それが目的であると認めつつも、この藝術の純粋に模倣的な部分において、つまり技法という作品制作の工程においても思考の役割があるとは、明示的にも暗黙裡にも認めていないようなのだ。これはフランドル画家に対する厳しさの理由でもある、というのは、フランドル画家を非常に気に入っていながらも非難しているような、やや一貫性を欠いた厳しさを見せているからだ。確かに、もし思考が理想の美の表現によってのみ絵画に表われるとしたら、フランドル画家は流派の序列において非常に低い地位に置かれねばならない。しかし、着想が観念的でも壮大でもない詩人においても、言葉の使用法、つまり作風によって思考が示されるのと同じくらい、思考が技法によっても示されるのであれば、どのような流派と比較されようと、フランドル画家が肩を並べるのは難しくないはずだ、というのも、じつのところ、世論はフランドル画家をずっとその地位に置いているのだ。
