子どもが不登校になって家で過ごすことがグラデーションのように続いているけれど、子どもが成長したな、と気付く瞬間がある。
話せる場所がある。
共感できる場所がある。
笑ったり泣いたりできる場所がある。
そういう居場所があることで、日々を穏やかに過ごせるんじゃないかな、と思う。
今日は、不登校を語る親カフェポレポレ7月のお話会。

「受け入れる」「見守る」ことの難しさ。
当事者だとしても、子どもが不登校になって1か月の親と、1年や2年と時間が経った親と、その辛さが異なる。
それでも、不登校の親同士、当事者同士で語るから、気付くこともある。
子どもの将来が不安になるけれど、「子供の将来」という親の価値観を、僕が子どもに受け入れるよう強いていたのかもしれない。
と、今日のお話会で、
お母さんたちと話しながら、気付いた。
上の子が不登校になって、およそ2年くらい中学校に行かず、高校は通信制でずっと家にいる。家で過ごすことがグラデーションのように続いているけれど、背も高くなってきたし、ひげも生えてきた。
成長したな、と気付いた瞬間 ───
変化していないようにみえて、変化していたのは、親としての心持ちだ。
「子どもの将来」を不安に思うのは、子どものことじゃなくて、自分の心配を重ねているだけ。
まだ起こっていない将来を、漠然と不安だ、って思い込んでいただけじゃないか。
それよりも、今の子どもの「そのまま」を観察してみよう。
─── あ、僕も成長している。
そう感じたとき、なぜか、僕は笑ってしまった。
いつまでも親バカでいることに、気付いてしまったからだ。
20世紀生まれの僕らの「青春」と、21世紀生まれの子どもたちの「青春」は、きっとイロもカタチも違う。
親たちが描いた子どもの幸せは、20世紀の青春を取り戻したい僕らの願望だったのかもしれない。
ずっと家で過ごしているけれど、インターネットの向こうに広がる世界で、「青春」を謳歌しているんだよな。多分。
そう、肩の力が抜けたときに、ようやく、親として子どもを見守ることができた。
そういう日々もあったな、と今日は思い出した。

