名画鑑賞 4 『ノスタルジア』 アンドレイ・タルコフスキー
Nostalghia は、故郷への郷愁を描いた映画ではない。
それは、分断されてしまった世界を、もう一度「ひとつ」へ戻そうとする映画である。
監督 Andrei Tarkovsky は、この作品を通して、現代人が失ってしまった「世界との調和」を、水、火、土、風といった元素的イメージによって描き出した。
本作の核心には、狂人ドメニコの遺した謎めいた言葉がある。
「1+1=1」
合理的な数学では誤りでしかない。
しかし、この映画全体は、その“不可能な方程式”を映像によって証明していく。
近代社会は、「1」と「1」を分けることで成立している。
私と他者。
国家と国家。
精神と物質。
故郷と異郷。
すべては切り離され、並列化され、「1+1=2」の世界が築かれていく。
だがタルコフスキーは、その分断のなかで、人間の魂そのものが孤立してしまったと感じていた。
だから『ノスタルジア』の人物たちは皆、どこか裂けている。
主人公ゴルチャコフは、イタリアを旅していながら、魂は故郷ロシアへ囚われたままである。
彼は「ここ」に存在しながら、「ここ」に生きることができない。
その精神の裂け目を、タルコフスキーは水によって映し出す。
濡れた床。
水たまり。
霧。
滴り続ける廃墟。
水は境界を消す。
一滴の水に、もう一滴の水を落とせば、両者は溶け合い、どこまでが「こちら」で、どこからが「あちら」なのか分からなくなる。
『ノスタルジア』の映像もまた、同じように現実と記憶、生と死、夢と現在を滲ませていく。
だから本作の廃墟は、単なる崩壊ではない。
そこでは文明の硬い輪郭が崩れ、世界そのものの呼吸が戻ってきている。
滴る水。
吹き抜ける風。
濡れた石。
歩いていく犬。
その静かな風景のなかに、タルコフスキーは、人間が失った「調和」の記憶を宿らせている。
そして、その世界へ、狂人ドメニコが現れる。
彼は世界の終末を叫び、自らを火で焼き尽くす。
その姿は異様であり、同時にどこか聖者めいている。
ドメニコの火は、近代文明への告発である。
巨大な技術。
革命。
速度。
合理性。
現代は、巨大な「火」によって動いてきた。
しかしその火は、人間の魂をも焼き尽くしてしまった。
だからドメニコは、最後にゴルチャコフへ、ひとつの“祈り”を託す。
「蝋燭の火を消さずに、湯船の端まで運べ」
理性的に考えれば、子供じみた幻想でしかない。
だがゴルチャコフは、その狂気を拒まない。
ここで決定的なことが起きる。
ドメニコの祈りを、ゴルチャコフが自らの肉体によって引き受けるのである。
つまり二人は、別々の「1」ではなくなる。
ドメニコの絶望が、ゴルチャコフの歩みになる。
ドメニコの火が、ゴルチャコフの手の中で燃える。
「1+1=1」
それは思想ではなく、この瞬間に実践される。
干上がった湯船を、ゴルチャコフはゆっくり歩く。
風が吹き、火は何度も消える。
彼はそのたび戻り、再び火を灯し、歩き始める。
そこには壮大な音楽もない。
あるのは、足音、風、そして微かな炎だけである。
しかし観客は、いつしか祈り始める。
「消えないでくれ」と。
なぜなら、その小さな火は、人間の魂そのものだからである。
世界を救うのは、巨大な思想ではない。
風に消えそうな火を、それでも守ろうとする行為なのだ。
そして映画のラスト。
ロシアの家屋が、イタリアの修道院廃墟の内部に静かに佇んでいる。
故郷と異郷。
東方と西方。
記憶と現在。
本来なら決して交わらないものたちが、ひとつの風景として融け合っている。
そこにはもはや、「1」と「1」の境界は存在しない。
『ノスタルジア』とは、「1+1=1」という、不可能な祈りを映像によって実現した映画なのである。
そして私たちは、その静かな奇跡を見つめながら、現代という分断の時代のなかで、自分自身もまた、「誰か」や「世界」と、再びひとつになりたいと願っていたことに気づかされるのである。
