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「お前は人間の格好をしたゴキブリだ」――東京に敗れた男が、沖縄でハウスクリーニング業を選んだ理由「経営者の素顔vol.12 」


那覇の郊外、一戸建てを改装した拠点から、新城克己さん(以下新城さん)は一人でハウスクリーニングの現場に出続けている。

信和クリーンラボ株式会社として法人化したのは今年3月。会社を興してまだ半年に満たない。

だがその肩書きの若さとは裏腹に、彼が積み重ねてきた時間はとても長い。18歳で沖縄を飛び出し、東京で20年以上を過ごし、30歳を過ぎてから「負け」を認め、そこからようやく働き始めた男の話だ。

「テレビの向こうの街」――スマホもネットもない時代に募らせた東京への憧れ

「小学校2、3年の頃から、東京に対する憧れがあったんですよ。テレビの世界というか。」

スマホもインターネットもなかった時代、新城さんにとって東京は週刊誌とブラウン管の向こうにしか存在しない街だった。

情報量は今の10分の1以下。それでも、いや、それだからこそ、憧れは純度を増していったのかもしれない。高校を卒業すると、新城さんは何の当てもないまま本当に東京へ渡った。

「東京で何かしたい、じゃないんですよ。東京に行きたい、だったんです。」

コンビニ、パチンコ、舞台俳優――何者にもなれなかった東京の日々

練馬区のアパートから始まった東京生活は、最初はセブンイレブンのアルバイトだった。当時沖縄にはまだ数店舗しかなかったコンビニだ。

そこから新城さんは、パチンコ店員、化粧品の実演販売、チラシ配り、運送会社の工場作業員と、ありとあらゆる仕事を渡り歩いていく。

そしてもう一つ、あまり大きな声では語らない過去がある。舞台俳優だ。芸名も持ち、舞台を中心に映像にも出演していた時期がある。

「東京にいる優越感、というのは最後まで拭えなかったですね。」働きながら、演じながら、新城さんは30歳になろうとしていた。

「東京に負けた、貧乏に負けた」――30歳、負けを認めた日

借金は300万円まで膨らんでいた。まともに食事もとれない生活。それでも東京という街は誘惑に満ちていて、公園で発声練習をするような生活の傍らで、遊びに使ってしまう金もあった。

地元の友人が結婚した、出世したという便りが届いても、正直なところ何も感じなかった。

転機は、静かに、ある種の「敗北宣言」というかたちでやってきた。

「もう、負けを認めないと次に進めないな、と。一言で言えば、東京に負けた。貧乏に負けた。」

お芝居では成功しなかった。その事実をまず受け入れること。30歳を少し過ぎた頃、新城さんはようやく「就職」という選択肢に手を伸ばした。

アルバイトから9ヶ月で店長へ――新宿で掴んだ居場所

最初はアルバイトから始めたネットカフェチェーンの仕事だった。

配属先は新宿。客層も従業員の質も決して穏やかとは言えない現場で、クレームやトラブルを次々とさばいていくうちに、本社にまで「新城というやつが入った」と噂が届くようになる。

結果は数字となって表れた。アルバイト開始からわずか9ヶ月で店長昇格。さらに8、9ヶ月でエリアマネージャーに。

長らく行き先の定まらなかった生活が、ここでようやく一本の線を結び始めた。そこから10数年、新城さんは部下30人規模を率いる立場としてキャリアを積んでいく。

「田舎の長男の宿命」――一晩で決めた地元への帰還

東京での生活は軌道に乗っていた。人並みの暮らしもできていたし、楽しさもあった。それでも心のどこかで、ずっとある言葉が引っかかっていたという。

「田舎の長男の宿命、って言うじゃないですか。地元の友人や先輩の送別会に、東京にいる間に何十回も参加してきたんですよ。ああ、ついに自分の番が来たか、と。」

両親の介護という現実的な理由も重なり、ある日ふと、その言葉が自分の中で像を結んだ。

「今やらないと、また決心が揺らぐ。」

翌日には退職届を出していた。本部長から「あと1ヶ月いればボーナスが出る」と引き止められ、結局2ヶ月後に東京を離れることになったが、決断そのものは一晩で下された。

部下30人から、実家のこたつへ――燃え尽きて出会った「掃除」

沖縄に戻った新城さんを待っていたのは、想像もしていなかった脱力感だった。

部下30人を率いる生活から一転、実家では食事も寝床も用意されている。

「これはまずいな」1ヶ月も経たないうちにハローワークへ足を運んだ。

紹介されたのはパソコンの職業訓練。ワードとエクセルの基礎を学びながら、沖縄の組織で働いた経験が一度もない自分自身の「リハビリ」として3ヶ月を過ごした。

その間、弟が営むデイサービス事業に絡めて配食サービスの起業も検討したが、大手事業者の値下げ攻勢を目の当たりにし「2、3年後に潰される」と直感、契約直前で即撤退を決めた。

何もすることがなくなった頃、友人の紹介で軽い気持ちから始めたのが、ハウスクリーニングのアルバイトだった。

「やってみたら面白くて。ビフォーアフターに、我ながら感動しちゃって。」

これで商売がしたい。そう思い立った新城さんは、NPO法人日本ハウスクリーニング協会に自ら資料請求をする。

「お金を払って1週間座学を受けたところで、仕事なんて覚えられるわけがない」と正直に相談すると、返ってきたのは「ギャラは払えないが、現場に入って学んでいい」という提案だった。

研修後、2ヶ月間無給で現場に立ち続けた経験が、今の礎になっている。

「机上の空論じゃなく、現場の生の汚れを全部経験できた。今考えれば本当に感謝しています。」

「お前は人間の格好をしたゴキブリだ」――理不尽な罵声にも辞めなかった理由

独立してすぐは、仕事はほとんどなかった。

3ヶ月目に飛び込んだ異業種交流会BNIが最初の転機となり、そこから紹介が紹介を呼ぶようになる。

半年後にはYouTubeで清掃の様子を発信するようにもなった。

だが軌道に乗り始めた頃も、失敗と理不尽は絶えなかった。

ある70代の女性宅への見積もり訪問。電話では和やかだった会話が、提示金額を伝えた途端に一変した。相場の半額を要求され、「その金額ではできません」と答えた瞬間、女性は豹変したという。

「お前は人間の格好をしたゴキブリだ」

驚きながらも、この先は揉めるだけだと悟った新城さんは、その場で仕事を辞退して帰った。「僕はもうゴキブリなんで帰りますよ、って言って帰りましたけどね。」その後何度か電話がかかってきたが、一度も出なかった。

お金が底をつき、消費者金融に頼った時期もある。両親や兄弟、友人に借りるという選択肢もあった。

しかしそれを選ばなかった。「異業種交流会でかっこよくプレゼンして、YouTubeも出して。お金がないと知られたくない、というプライドが勝っちゃったんですよね。」それでも、事業をやめるという選択肢だけは、一度も頭をよぎらなかったという。

嘘をつかない、あの表情のために

理不尽な客もいれば、忘れられない嬉しい瞬間もある。浴室清掃を終え、確認に来た顧客の表情がふっと変わる、あの一瞬だ。

「ありがとう、という言葉もいいんですけど、表情は嘘をつかないので。120パーセント正直ですから。」

その一瞬のために、日々の仕事があると新城さんは言う。

「僕らの仕事は、リハビリ業」――清掃が誰かの居場所になる日

今、新城さんが見据えているのは公共工事の分野だ。公園の指定管理など、公共性の高い仕事への参入を目指し情報収集を進めている。背景にあるのは、清掃という仕事が持つもう一つの側面への気づきだ。

「僕らの仕事って、リハビリ業みたいに使われることもあるんですよ。」

コミュニケーションが得意でない人、事情があって普通の職に就きにくい人、シングルマザーで柔軟な働き方を必要としている人。空室清掃のような、誰もいない現場で完結する仕事は、そうした人たちの受け皿になり得るという。

「今の脳みそで20代なら、すぐ起業する」

これから起業を志す若い世代へ、と問われた新城さんの答えに迷いはなかった。

「もし今の経験値と脳みそで20歳、25歳だったら、すぐ起業します。間違いなく。」

理由は明快だ。「自分の生活の責任を背負いたい、というのがまずあって。経営者になると、視野がまるで違うんですよね。」

20代の頃はどこに就職しようかとしか考えていなかった、と振り返りながら、新城さんはこう締めくくった。

「それぐらい、商売は面白いんです。」

・新城克己さん Instagram

・信和クリーンラボ株式会社 HP

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