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「死ぬこと以外かすり傷」―― 保育士、芸能、ボイストレーナーを経て、銀座で紹介制バーを構えた女の覚悟。「経営者の素顔vol.7」


激やせ、芸能界、両親の危機。「死ぬこと以外かすり傷」を知る彼女が、銀座の「紹介制バー」に辿り着くまで

銀座7丁目に、紹介された人しか入れないバーがある。ママの橋本真実さん(以下橋本さん)は、その店に立つまでに、数々の職種を経験してきた。保育士として働きながら体重30kg台まで痩せ細り、ドクターストップで退職。その後、原宿でスカウトされて芸能界へ。モデル、舞台女優、歌手、ボイストレーナーと変幻自在に生き抜き、23歳のとき父を突然失い、同年に母は乳がんを宣告された。

「死ぬこと以外かすり傷」

——その言葉を、彼女は体験として知っている。
一見、波乱万丈にも見えるその半生が、なぜ今の「場を作る経営者」という姿に辿り着いたのか。その道のりを丁寧に辿ってみる。

祖父の代からバーがある家 ――「子どもの頃、おじいちゃんちがバーだった」

橋本さんのルーツを語るとき、真っ先に出てくるのが「祖父のバー」の話だ。

「おじいちゃんの代から横浜でダーツバーをやってるんです。父方の実家がバーって、端から見れば変わった環境ですよね。でも私にとっては当たり前で、子どものころからよく遊びに行ってて。バーに来るおじいちゃんの常連さんたちにすごく可愛がってもらっていたので、バーのイメージがすごく良かった」

両親は祖父の店を継がずに、自分たちで別の飲食店を経営していた。そのため家にいる時間が少なく、橋本さんは「放任主義」で育ったと笑う。
習い事もほとんどなく、とにかく外へ出て遊んでいた。川に網を持って魚を取りに行き、公園を走り回る。そんなアクティブな幼少期だった。

高校では軽音部でバンドを組み、歌にのめり込んだ。文化祭でステージに立つ経験が、後の人生の大きな伏線になる。ただし当時の「進路」はまったく別の方向を向いていた。

「お母さんがなれなかった保育士に、私がなろうか」

芸能界に行きたいという夢もなく、特別やりたいことがなかった橋本さんが短大の保育科に進んだのは、母親の影響が大きかった。

「うちのお母さん、保育士になりたかったんですよ。でも家庭の事情で進学できなくて、就職した人で。だから、ちょっとお母さんがなれなかった保育士に私がなろうかなって。あと、自分が好きだった幼稚園の先生の影響も大きかったですね」

こうして橋本さんは保育士資格を取り、幼稚園に就職した。しかし、現実は想像をはるかに超えた過酷さだった。

体重30kg台でドクターストップ。「自分で辞めたわけじゃなかった」

就職先は過酷な現場だった。橋本さんはそれでも担任クラスを持ちながら働き続けたが、気づかないうちに、体は限界を超えていた。

「園のお休みで、平日にたまたま家にいた時に、久しぶりに父と顔を合わせたんですよ。そしたら父が変わり果てた私をみて『すぐに病院行くぞ』ってなって。そのまま連れて行かれて、入院って言われたんです。荷物も取りに帰してもらえなくて、その日からそのまま入院で、ドクターストップで退職でした」

体重は30kg台まで落ちていた。160cmを超える身長で、太ももより膝の方が太く見えるほどだったという。それは21歳か22歳のころだった。

「自分で辞めようとして辞めたわけじゃない、って今でも思います。担任を持ってたから続けるつもりだったし。体の方が先に悲鳴を上げた感じでした」

その後、残された同期も1つ上も1つ下も気づけば全員が辞めていき、クラスは崩壊していった。

原宿でスカウト、10年の芸能活動 ――「やりたいことリスト」を1つずつ消していった

退院後、医師に「体力がまだ戻りきっていないから、まずはバイトからやってみたら」と言われ、焼肉屋でアルバイトを始めた。そして回復してきたころ、人生が思いがけない方向に動く。

「美容院で髪をバッサリ切って帰る途中、原宿でスカウトされたんです。ウエディングドレスのモデルに興味ない?って。スカウト詐欺ってよくあるじゃないですか、お金かかりますよ系の。だから、お金は払いませんけどそれでもいいならって。その時実は社長が直接声をかけてきた事務所だったので、本当にお金がかからなかったんですよ」

こうして芸能界へ飛び込んだ橋本さんは、ブライダルモデルから始まり、ファッションショー、スチール撮影、舞台役者、さらには自らファッションショーをプロデュースするまでになった。オーディションを開いてモデルを選び、アパレルブランドに直接交渉して協賛を取り付け、カメラマンやメイクアップアーティストをキャスティングする——裏方の仕事にも自然と惹かれていった。

そしてやがて、高校時代から好きだった「歌」に本格的にのめり込んでいく。橋本さんには「やりたいことリスト」があった。CDを出す、ミュージックビデオを撮る、フライヤーを自分で配る、路上ライブをする、舞台のヒロインを演じる、自分のファッションショーを作る——そのひとつひとつを、10年かけて消していった。

「Zepp Tokyoで歌えて、憧れの安室奈美恵さんともお仕事でお会いできたんです。テレビに出たいっていう欲はもともとなかったので、バンドを組んでた人間としてはZeppが夢の場所だったんです。そこに立てた時点でだいぶ満足感はありましたね」

ボイストレーナーから「バーのオーナー」へ ――「近くにいる人を守れない自分が嫌だった」

歌を教えることへの興味が芽生え、橋本さんはボイストレーナーへと転身した。生徒は増え続けた。しかし、それが新たな悩みを生む。

「生徒さんが増えれば増えるほど、私がどんどん忙しくなるわけで。そうするとスケールしない。教室を作って先生を雇って、生徒さんを振っていこうとしたんですけど、やっぱり『橋本先生に習いたい』って言ってくださる方が多くて。別の人に振れないっていう問題に直面したんですよね」

もう1つ、大きなきっかけがあった。当時並行していたネットワークビジネスの会社が業務停止になり、そこを主な収入源にしていた周りの人たちが一気に職を失ったのだ。

「自分の業種では助けられないっていうのが、すごくショックで。本当なら守りたい、仕事を紹介したいって思うのに、ボイストレーナーって技術職すぎて。その経験があってから、人を雇える仕事をしたいと思うようになったんです」

そのタイミングで舞い込んだのが、友人のバーを引き継ぐ話だった。歌舞伎町にあるそのお店、場所は当時の活動拠点・新宿と一致し、自分の強み(歌、場所への親しみ)も活かせる。何より「人を雇える場所」が作れる。橋本さんは即決した。

「歌が歌えて、昔から馴染みのあるバー。自分のお客さんを連れていけばいいじゃんって思ったら、めちゃめちゃ軽い気持ちで決めましたね。でも、人を雇えるっていうのが、その時の私には1番大きかった」

23歳の崩壊と再起 ――「自分しか稼げる人間がいなかった」

起業への恐怖を感じなかった理由を聞くと、橋本さんは少し間を置いて、重い話を教えてくれた。

「23歳の時に、父を突然亡くしたんですよ。家での急死で、妹が第一発見者で。しかもその同じ年に、母が乳がんで手術しなきゃいけなくて、妹は父を最初に見た影響で精神的なダメージを食らってしまって…。家族が一気に機能しなくなったんです」

おじいちゃんもおばあちゃんもすでに他界していた。頼れる身内がいなくなった状況で、橋本さんはひとりで葬儀を手配し、母の手術費を貯金から払い、仕事を失った妹を養うことになった。

「それで、雇われの給料じゃ絶対足りないってなって。もう自分でガンガン稼ぐしかないと思って、芸能の事務所を辞めてフリーランスになって。あの時の経験があるから、起業に対してリスクをあまり怖いとは思わなかったんだと思います。それより怖いものを、もう知ってしまっていたから」

「明日死ぬかもしれない」という感覚が、彼女の中に根付いた。それは絶望ではなく、「だったら今日やる」という推進力に変わっていた。

銀座へ。「自分ルール」で作る場所

歌舞伎町での5年間を経て、橋本さんは銀座7丁目に自分の店を構えた。完全紹介制。歌舞伎町の時代からずっと通い続けてくれる常連客が今も足を運んでくれる。

「うちはもう完全紹介制なので、本当にお客さんのことが大好きなんですよ。愛してるし、愛されてるし。お金に対する感謝もすごくある。23歳のあの経験があるから、お金って本当に大事なんだって、身に染みてわかってて。だから来てくれる人が愛おしいし、仕事が大好きなんだと思います」

独立の理由のひとつには、「朝起きなくていい」「満員電車に乗らなくていい」という、すごくシンプルな動機もあった。

「保育士の頃、朝5時に起きてお弁当作って7時には出社して、っていうのを2年近くやって。これ以上の収益を自分で作れれば、上に誰もいない、自分ルールにできるじゃないですか。満員電車が嫌で我慢するより、自分で頑張って稼ぐ方が私には楽だって思ったんですよ。なんか、根拠のない自信があったんですよね」

今の夢は「スタッフの夢を叶えること」

「自分の店舗展開には正直あまり興味がない」と橋本さんは言い切る。むしろ今の目標は、お店を任せている店長スタッフの夢を叶えることだ。

「店長がシーシャとカフェを合わせたようなお店を出したいって夢があって。今はその子の夢を叶えるためのバックアップをしてる段階です。その子が自立したら、私は自由な時間を手に入れて、好き勝手に海外とかも行きたいです」

「私、ある意味そういう伝説のママみたいな存在になりたいんですよ。うちの下のキャストは私の顔を知らないぐらいで、でも急に来てめっちゃお金を落とす、かっこいいおばちゃんになりたいなって」

「死ぬこと以外かすり傷。まだ死んでないんだからやれ」

最後に、起業や転職を考えている若い世代へのメッセージを聞いた。

「死ぬこと以外かすり傷、ってよく言いますよね。私、あれが実体験として言えるんですよ。あの時から比べたら、まあ大体のことはかすり傷だなって。まだ死んでないんだから、やんなくてどうすんの、っていうのは正直思います。若い子を見てると、もったいないなって。何もしないだけで年は取っちゃうから、若さを無駄にしないでって」

300万円の詐欺被害(ロレックス転売、暗号通貨)、ネットワークビジネスの突然の業務停止、父の急死——それだけの「試練」を経た人間が言う「かすり傷」には、軽さとは正反対の重みがある。

橋本さんは今日も銀座のバーで、ひっそりと、しかし確かに「場を守る」仕事をしている。紹介でしか辿り着けないそのドアの向こうに、何人もの常連客が自分の時間を求めてやってくる。彼女が長い回り道の末に作り出した「居場所」は、きっと、彼女自身が23歳のあの夜に最も必要としていたものだったのかもしれない。

・橋本真実さんInstagram

・経営者の素顔Instagram

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