マエストロ
とある演奏会に行った際、
指揮者を一目見て流れ込んできた物語の記録。
B♭―――――――――――・・・
音が止む。明かりが変わる。―――静寂。
僕はゆっくりと歩きはじめる。こつん、こつん、こつん、こつん。僕の革靴の音だけが、ホールの空気を震わせる。僕の最も好きな音。
...ザぁぁぁあああ――――――――――――
拍手。
舞台に足を踏み入れた途端、1.5秒の躊躇いの後、分厚い拍手がホールを満たし、僕の鼓膜はこれでもかと振動する。
快感。
皆が僕を見ている。照明の熱が僕を包む。
この楽団はコンサートミストレスがやはり魅力的だ。華奢でありながらも力強い、このクラリネット奏者の手を軽く握り、離し、僕は指揮台に足を掛ける。
拍手が止む。さあ、僕を見るんだ。
*
今日の楽団とは初めての共演だった。打ち上げの酔い覚ましに、寝静まったオフィス街をふらりと歩く。初夏の心地よい風。土佐堀川の水面に、街灯の光が揺れる。
未だ有名なバンドではないが、業界では名の知れた、新進気鋭の吹奏楽団。今まで上ばかり見ていたけれど、もしかするとずっと、背伸びばかりしていたのかもしれない。今日の僕はもしかすると久しぶりに、楽しかったのかもしれない。
ーー楽しかった。
上手くやらなくては、失敗は許されない、これがチャンス。振り返ればこの十年、そんなことばかり考えていた。
最後に音楽を心から愉しんだのは、一体いつのことだろう。こんなことを考える暇もないくらい、脇目も振らずに進んできた。今回だって、最初はそうだった。
けれども演奏が終わり指揮台を降りた僕が感じたのは、下手なく終えた安堵ではなく、言葉にならない高揚と、終わってしまった寂しさだった。
こんな感情、僕は知らない。視界に靄がかかったようで、舞台の明かりが乱反射して、その場のすべてが輝いて見えた。団員に、観客に、慣習的な礼儀ではなく心から頭を下げたいと、感謝を示したいと思った。
ああ、僕は何のために音楽の道を選んだのか。
昔から耳が良かった。音楽ができる環境もあった。音楽家になる理由はいくつもあった。しかしそうだ、何より僕は、音楽が好きだったのだ。
どこかからサックスの音が聴こえる。学生だろうか。Gの音。少し低い。でもそんなこと、今日は大して気にならない。こんなところで吹いたなら、さぞ気持ちいいだろうな。
ああ、僕は大切なことを忘れていた。上を目指して努力して、名を売り収入を得ることももちろん必要。だからこの十年が、無意味だったとは思わない。しかしこれからは、もう少し違うことを、大切にしてもいいのかもしれない。
こんな僕を、今の僕を、彼女はどう思うだろうか。
**
間に合った。
コンサートなんていつぶりだろう。
そして彼を目にするのも、しばらくぶりだ。
この楽団は聞いたことがある。しかし演奏を聴くのは初めてだから、楽しみで、少し緊張する。
舞台の明かりが変わった。はじまる。
B♭ーーーーーーーーー・・・
豊かな響き。こんなにも音が広がるなんて。
そんなことを考えていたら、静寂。下手の扉が開いた。
こつん、こつん、こつん、こつん。
あぁ、知ってる音。
指揮者が舞台袖から歩いてきていることは分かるが、姿はまだ見えない。見えても、舞台中央まではまだ距離があるし。拍手、する?するよね?
そんなことを思っていたら客席前方でパチンと誰かの手が鳴り、私も手を打ちはじめる。刹那、ザぁああと拍手が広がる。
「演奏会って何回来ても、拍手のタイミングが不安。いつも誰かが叩きはじめるの待っちゃうな。」
昔、彼にそう言ったことがあった。しかし彼はその、躊躇いの静寂が堪らないと言った。客が皆、僕に集中していて、僕の靴音だけが響くあの瞬間が好きだと。変な人。
そんな話をしているときもそう、今みたいな甘い微笑みを纏ってた。その微笑みが愛しくて、恐ろしかったのよね。
付き合ってすぐのころ、はじめて彼が私の部屋を訪れたとき、彼は白い、タートルネックのニットを着ていた。窓の外は深く引き込まれるような黒で、街はもう静まり返っていた。
手をあらう私に話しかけようと、彼が洗面所へとやってきた。いつもの精悍な顔つきとはちがう、少し幼い表情をした彼。こんな顔、見られるのは私だけ。
その温かく細められた目がつぎの瞬間、わずかに、しかしながら確実に鋭さを帯びた。わずかに、その口角には力がこもった。
水垢が、蛇口にいくつか付いたままの、水垢が彼の目に入ったのだ。
彼は何も言わない。私も。何もなかったかのように彼は話を続け、しかしその目は温かさを取り戻さない。それから私は、どんなときも、家を出る前には必ず蛇口を磨いた。
*
演奏会は久々だった。温もりのある、いい音。
彼の背中も、温かく見えた。
パチッ。洗面所の電気を付けて、手をあらう。
この、水が刎ねたままの蛇口を見て、今のあなたは何を思うのかしらね。
