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26話 お母さん、イエスさまって本当にいたの?


“ただの昔話”だと思っていたキリスト教を、ゼロから考えてみる。


お母さんへ。

まず最初に、ありがとう。

私がこのnoteを書き始めてから、

第1話からずっと読み続けてくれている。

新しい記事を書くたびに読んでくれて、

感想をくれて。

考えてみれば、お母さんは、

このnoteの「第一号のファン」なのかもしれません。

本当にありがとう。

だから今回は、

そんなお母さんのために書いてみようと思います。

先日、お母さんから聞かれました。

「福音ってなぁに?」

「Good Newsって、どういうこと?」

今まで何度か説明してきたつもりだったけれど、

よくよく話を聞いてみると、

もしかすると、

そのもっと手前に疑問があるのかもしれないと思いました。

そもそも、

イエス・キリストって、本当にいたの?

聖書って、ただの昔の教典なんじゃないの?

十字架にかかって死んで、

三日目によみがえったって、

それを信じたら、

なんで人が救われるの?

イースターって、何?

もしかすると、

そこがまだ一本につながっていないのかもしれない。

なので今回は、

「信じてみよう」

から始めるのをやめます。

一度、ゼロから考えてみたいと思います。

だって私自身も、

最初からイエスさまを信じていた人ではないからです。

むしろ私は、めちゃくちゃ疑っていました(笑)


私の場合、

妻が私より先にイエス・キリストを信じました。

当時の私は、

まだBuddhaの弟子でした。

正直、焦りました(笑)。

「え?」

「自分が信じてきた教えより、

妻はキリストを選ぶの?」

そんな複雑な気持ちもありました。

キリスト教に対して、

「はい、そうですか」

と素直に入っていったわけではありません。

むしろ逆です。

私は疑いました。

めちゃくちゃ疑いました(笑)。

でも、その頃の私はすでに、

気になったことがあれば、

とにかくdigる。

調べる。

本を読む。

違う意見も見る。

という癖がついていました。

自己啓発。

アドラー心理学。

脳科学。

量子力学について書かれた本。

スピリチュアル。

世界の偉人たち。

そしてBuddhaの教え。

自分とは何なのか。

人生とは何なのか。

この世界はどうなっているのか。

私はずっと、

いろいろなところに答えを探していました。

だから妻がクリスチャンになった時も、

私は、

「キリスト教だから信じない」

ではなく、

「じゃあ、本当にそうなのか調べてみよう」

と思いました。

信じるために調べたというより、

最初は、

疑うために調べていたのかもしれません(笑)。

そもそも、イエス・キリストは本当にいたのか?


まず私が気になったのは、

「イエスって、実在したの?」

ということです。

私は最初、

イエス・キリストという人物自体が、

桃太郎とか、

昔話の登場人物のような存在なのではないか、

くらいの感覚だったかもしれません。

でも調べてみると、

少なくとも、

「ナザレのイエスという人物が実在し、

ローマ支配下のユダヤで活動し、

ポンテオ・ピラトの時代に十字架刑にされた」

という歴史的な骨格については、

キリスト教徒だけが主張している話ではありません。

古代ローマの歴史家タキトゥスは、

キリスト教に好意的な立場ではありませんでしたが、

「Christus」と呼ばれた人物が、

ティベリウス帝の時代にポンテオ・ピラトのもとで処刑されたことに言及しています。

また、一世紀のユダヤ人歴史家ヨセフスの著作にも、

「キリストと呼ばれたイエス」の兄弟ヤコブについての記述があります。

つまり、

「イエスという人が存在したか」

という問いと、

「そのイエスが神の子であり、

本当によみがえったと信じるか」

という問いは、

実は別なんです。

イエスの存在そのものについて考えることと、

イエスが誰なのかを信じることは、

一段階違う。

私はそこから、

少しずつ調べ始めました。

「聖書って、誰かが後から作った本じゃないの?」


次に気になったのは、

聖書でした。

「昔の宗教の人たちが、

都合よく作った本なんじゃないの?」

そう思う人もいると思います。

私も似たような感覚を持っていました。

ここでよく、

「聖書の写本は2万冊以上ある」

という話を聞くことがあります。

ただ、ここは正確に言った方がいいと思います。

現在知られているギリシャ語の新約聖書写本は、

およそ5800点ほどとされています。

しかも、そのすべてが

新約聖書を最初から最後まで収めた一冊の本という意味ではありません。

数節だけ残った断片もあれば、

一つの書、

複数の書を含む写本もあります。

ラテン語やシリア語、コプト語など、

古代の翻訳写本まで含めれば資料はさらに増えます。

だから、

「2万冊あるから聖書は100%正しい!」

という単純な話ではありません。

写本がたくさんあることは、

イエスさまの復活そのものを証明するものでもありません。

でも私が驚いたのは、

聖書が、

「大昔に一人の人が書いたものを、

誰も確認できないまま信じ続けている」

というものではなかったことです。

多くの古代写本が残り、

違いがあれば、

その違いも研究され、

現在も本文を比較しながら研究が続けられている。

私は、

「思っていたより、

ずっと研究対象になっている古代文書なんだ」

と知りました。

そういえば、イエスさまって意外と日常にいる


さらに考えてみると、

私はイエス・キリストを信じていなかった頃から、

「クリスマス」

は知っていました。

でも、

クリスマスが、

イエス・キリストの誕生を記念する日だということを、

どこまで本気で意識していたでしょうか。

そして、

イースター。

お母さんは、

あまり知らなかったみたいだけど、

イースターは、

イエス・キリストの復活を記念するキリスト教の大切な日です。

十字架の死と、

その後の復活。

実は、

キリスト教の中心とも言える出来事を記念している日なんです。

また、

私たちが普段使っている西暦の数え方も、

歴史的には、

イエス・キリストの誕生を基準に年を数えようとしたキリスト教世界の暦の伝統から広がってきました。

もちろん、

「西暦を使っているからイエスさまが神の子だ」

という証明にはなりません。

クリスマスを祝っているから、

キリスト教が正しいという意味でもありません。

一週間が七日なのも、

単純に「キリスト教が作ったから」と言えるものではありません。

でも、

「キリスト教なんて、

自分の生活とは全く関係のない、

遠い外国の宗教」

だと思っていた私たちの暮らしの中にも、

実はキリスト教の歴史や文化の影響は、

いろいろなところに残っています。

それでも、私の中には別の疑問があった


でも私は、

歴史の資料だけでイエスさまを信じたわけではありません。

それ以前から、

ずっと不思議に思っていたことがありました。

それは、

「生命って、何なんだ?」

ということです。

例えば、

人間の身体。

ある時、

人間の血管を全部つなげると、

地球を何周もするほどの長さになる、

という話を目にしました。

調べてみると、

成人の血管網について約6万マイル、

およそ10万キロという推計が医学文献でも紹介されています。

もちろん、

身体の大きさや推計方法によって数字には幅があります。

でも私が驚いたのは、

数字そのものより、

「この身体の中に、

そんなネットワークがあるの?」

ということでした。

しかも、

その中心には心臓がある。

成人の心臓は安静時でも、

一分間におよそ5〜6リットルほどの血液を送り出しています。

酸素や栄養を運び、

身体中を巡って、

また戻ってくる。

もちろん今なら、

心臓の筋肉。

血圧。

血管抵抗。

心拍出量。

医学的に説明される仕組みがあることは分かります。

「心臓だけでは物理的に不可能だから、

神さまの力が直接押している」

と言いたいわけではありません。

でも私は、

仕組みを知れば知るほど、

逆に思ったんです。

「人体、ヤバくない?」

って(笑)。

仕組みが分かることと、

その存在への驚きが消えることは、

私の中では別でした。

人間なのか、細菌なのか(笑)


そしてもう一つ驚いたのが、

人間の身体に住んでいる細菌です。

私は以前、

「人間の細胞より、

細菌の方が圧倒的に多い」

という話を聞いて、

「え?

じゃあ俺、

人間じゃなくて細菌じゃん!」

と思いました(笑)。

でもこれも調べていくと、

昔よく言われていた

「細菌が人間の細胞の10倍いる」

という数字は、

現在では修正されています。

ある代表的な推計では、

成人男性をモデルに、

人間の細胞がおよそ30兆個、

細菌がおよそ38兆個。

だいたい同じ桁、

およそ1対1に近いと考えられています。

つまり私は、

ここでも一つ、

思い込みを修正することになりました(笑)。

でも、

それでも十分すごくないですか?

自分の身体の中に、

自分とは違う微生物たちが住み、

消化や健康など、

私たちの身体と複雑に関わりながら生きている。

人間一人の中に、

一つの世界があるように感じました。

そして、聖書の中には神さまが人を土のチリの中から形造る描写がある。(この後詳しく触れます)

土の中の細菌、、人はやがて土に還る。

ミクロの世界に“モーター”がある?


そして、

私がさらに驚いたのが、

細菌の「鞭毛(べんもう)」です。

小さな細菌の中には、

鞭毛を回転させて移動するものがいます。

その根元には、

回転運動を生み出す構造があり、

研究者が「molecular machine=分子機械」と表現することもあります。

さらに枯草菌では、

EpsEというタンパク質が、

鞭毛の回転を止める“クラッチ”のように働く仕組みも研究されています。

私はこれを知った時、

「えええ?」

となりました(笑)。

人間の目では見えないほど小さな世界に、

モーターのように回る構造があって、

クラッチのような働きをする仕組みまである。

「生命って何なんだよ」笑

と思いました。

進化についても、私は疑っていた


学校では、

進化について学びました。

当時の私は、

かなり単純に、

「猿がだんだん人間になった」

というイメージを持っていました。

だから、

「じゃあ進化の途中の生き物は、

今どこにいるの?」

と思ったんです。

「進化が続いているなら、

今ごろ人間の次の形がいてもいいじゃん」

なんて(笑)。

それこそ、

『僕のヒーローアカデミア』みたいに、

新しい“個性”を持った人が現れてもいいんじゃないか、

なんて思っていました。

ただ、

ここも調べていくと、

私が思っていた進化論の理解は、

かなり単純化されていました。

現在の進化生物学では、

「今いる猿が、そのまま順番に人間へ変わる」

という説明ではなく、

生物が共通祖先から枝分かれしながら変化してきた、

と考えます。

また、

祖先的な特徴と後の特徴をつなぐ

「移行的特徴」を持つ化石も多く研究されています。

だから私は今、

「進化途中の生き物がいないから進化論は間違いだ」

という言い方はしません。

それは正確ではないからです。

でも、

ここで私の疑問が全部消えたわけでもありませんでした。

科学は、

生命がどのように変化してきたのか。

身体がどのように働いているのか。

その「仕組み」を研究してくれます。

でも私は、

その先にある、

「そもそも、なぜ命があるんだろう」

「なぜ私は存在しているんだろう」

という問いを、

ずっと持っていました。

「神さまが造った」という言葉が、私には腑に落ちた


そんな私が聖書を読んだ時、

創世記に、

神さまが人を土のちりから形造り、

その鼻に命の息を吹き込まれ、

人が生きるものとなった、

という言葉が出てきました。

創世記2章7節。

私はこれを読んだ時、

「ああ……」

と思いました。

もちろん、

これは科学の教科書ではありません。

細胞分裂の仕組みや、

DNAの構造を説明する文章でもありません。

それでも私にとっては、

ずっと分からなかった問いに、

一つの答えをもらったような感覚がありました。

人間は、

ただの物質の集合だけではない。

命は、

神さまから与えられた。

私は、

その世界観が一番腑に落ちたんです。

ネットでは時々、

「地球が偶然できる確率は、

プールの中でバラバラの時計が自然に組み上がるようなもの」

といった例えも見かけます。

でも私は今、

それを科学的に証明された確率として使おうとは思いません。

脳の神経ネットワークと宇宙の画像が似ている、

という話も、

見た目が似ているから同じ設計者の証明になるわけではありません。

それでも。

心臓を見ても。

血管を見ても。

細胞を見ても。

細菌を見ても。

宇宙を見ても。

私は、

「自分は、まだほとんど何も知らないんだな」

と思うようになりました。

そして不思議なことに、

学べば学ぶほど、

私の中では、

神さまという存在が遠ざかるのではなく、

むしろ、

「この命の源は何なんだろう」

という問いが大きくなっていきました。

でも、お母さんの本当の疑問はここだと思う


ここまで読んで、

お母さんはこう思うかもしれない。

「分かった。

イエスっていう人が歴史上いた可能性が高いのも分かった。

聖書にたくさん写本があるのも分かった。

人体がすごいのも分かった。

でも、

十字架にかかって死んで、

三日目によみがえったことを信じたら、

なんで救われるの?」

たぶん、

一番の疑問はここだと思う。

だから、

できるだけ簡単に書きます。

福音とは、“信じたら合格”という試験ではない


聖書が語る「罪」は、

単に、

悪いことを何個したか、

という点数の話ではありません。

神さまから離れ、

自分を中心に生き、

人を傷つけ、

自分自身も傷つき、

本来の神さまとの関係が壊れている状態。

そこから、

死も生まれました。

人間は、

自分の努力だけで、

自分自身を完全にきれいにすることができない。

そこで、

神さまの側から来てくださった。

それが、

イエス・キリストです。

イエスさまは、

私たちの罪を背負い、

十字架で命を差し出されました。

そして、

三日目によみがえられた。

だから聖書にとって復活は、

「すごい奇跡が起きました」

だけではありません。

罪と死が、

最後の言葉ではない。

という宣言なんです。

「信じる」とは、事実クイズに正解することではない


だから、

「イエスさまが復活した、と頭で言えた人だけ合格!」

という話ではないんです。

聖書の言う「信じる」は、

単に、

「その情報は事実だと思います」

というだけではありません。

この方に、

自分を委ねる。

この方について行く。

この方が与えてくださった救いを、

自分も受け取る。

ということです。

例えば、

溺れている人に、

救命ロープが投げられたとします。

「そこにロープが存在することは信じています」

と言うだけでは、

岸には上がれません。

そのロープをつかみ、

自分を委ねる。

救ってもらう。

救いは、

その人が自力で泳ぎ切ったご褒美ではありません。

助けが差し出されたから、

受け取ることができる。

私にとって、

イエスさまを信じるということは、

それに近いです。

私も、証拠だけで信じたわけではない


私は、

歴史を調べました。

聖書について調べました。

人体について調べました。

科学についても、

自分なりにdigりました。

その中で、

自分が間違って理解していたこともありました。

でも、

最終的に私がイエスさまを信じるようになった理由は、

「証拠を100個集めたら、

数学の答えのように神さまが証明された」

からではありません。

私自身が、

神さまに出会ったからです。

そして、

私の人生が変えられたからです。

妻が先にイエスさまを信じ。

その妻を見ながら、

疑っていた私が調べ始め。

やがて私自身も、

イエスさまと出会った。

互いに愛しているのに、

どうしても許せないことがあり、

見えない壁ができていた私たち夫婦が、

赦しと回復へ導かれた。

今では、

妻Euniceと一緒に賛美を作り。

長男Davyと共に、

家族でGood Newsを届けるようになりました。

だから私にとって、

イエス・キリストは、

古い本の中だけにいる人ではありません。

今も生きておられる方です。

私たち夫婦の関係が回復したこと。

私たちの家庭が変えられてきたこと。

それが、

私たち家族の証です。

お母さんへ


お母さん。

第1話から、

ここまでずっと読んでくれて、

本当にありがとう。

私が父を知らずに育った話も。

痛みの話も。

妻との話も。

子どもたちの話も。

Buddhaの弟子から、

キリストの弟子になった話も。

ずっと読んでくれた。

私にとって、

お母さんは、

このnoteの第一号のファンです。

だから私は、

お母さんに、

「とにかく信じなよ」

とは言いたくありません。

分からないことがあっていい。

疑問があっていい。

「本当に?」

と思っていい。

だって、

私もそうだったから(笑)。

むしろ一緒に、

digろう。

イエスさまは、

本当にいたのか。

聖書とは何なのか。

十字架とは何だったのか。

復活とは何なのか。

そして、

なぜ2000年近くたった今も、

世界中でイエス・キリストの名前が語られ続けているのか。

一つずつ考えていけばいいと思う。

それでも最後に、これだけは伝えたい


福音。

Good News。

それは、

難しい宗教用語ではありません。

「良い知らせ」です。

神さまは、

あなたを愛している。

あなたの過去も、

失敗も、

後悔も知っている。

それでも、

あなたを見捨てていない。

その愛を示すために、

イエス・キリストが来られた。

私たちの罪を背負い、

十字架で死なれた。

そして、

三日目によみがえられた。

だから、

罪も。

過去も。

死さえも。

あなたの人生の最後の言葉ではない。

神さまと共に、

新しく生きる道がある。

永遠の命がある。

それが、

私が受け取ったGood Newsです。

お母さん。

今すぐ全部分からなくても大丈夫。

私もまだ、

神さまのことを全部分かっているわけではありません。

でも、

あれだけ疑って。

あれだけ調べて。

Buddhaの弟子として生きていた私が、

今、

イエス・キリストの弟子として生きています。

そして、

家族と一緒に笑いながら、

このGood Newsを伝えています。

だからまず、

一緒に考えてみよう。

「イエスさまって、

本当は誰なんだろう?」

その問いからで、

十分だと思います。

お母さん。

いつも読んでくれて、

本当にありがとう。

これからも、

私の第一のファンでいてください(笑)。

そしていつか、

私が受け取ったこのGood Newsを、

お母さんとも、

心の底から一緒に喜べる日が来たら、

私は最高に嬉しいです。

Buddhaの弟子から、キリストの弟子へ。

痛みは証に。

光は闇に勝つ。

Mom, I love you.

Blessings to you.

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