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7話 小さなダビデが、マイクを握った日。|みことばの剣とランドセル。


6話で、私の中に音楽が戻ってきました。

昔のマイクは、自分を証明するためのものでした。
でも、天の父の愛を知った私は、もう自分を証明するために歌わなくてよくなりました。

お父さん。
ラップがしたいです。

ひとりスタジオでそう叫んだ時、神さまは私の中に眠っていたGiftを呼び起こしてくださいました。

でも神さまの計画は、私だけでは終わりませんでした。

その火は、息子にも流れていくことになります。

次にマイクを握ったのは、小さなダビデでした。

長男は、5歳の頃に突然「レコーディングしたい!」と言い出したことがありました。

家には音楽スタジオがありました。
マイクがありました。
父である私が、フリースタイルを見せることもありました。

3歳の時には、海のイベントや駅のイベントで、知人からフリースタイルラップしないか?と誘われて、一緒にステージに立ったこともあります。

今思えば、なかなかの度胸です。笑

5歳の時に録ったフリースタイルラップは、完全に自由でした。

かわいくて、勢いがあって、でもすでにどこかラップっぽい。
何を言っているか分からないところもあるのに、本人は本気。

遊びの延長のようで、でも不思議と何かを感じる時間でした。

その時は、まさかそれが後に福音ラップへつながるとは思っていませんでした。

ただ、神さまの目には、すでに伏線だったのかもしれません。

長男が本格的に福音ラップへ向かうきっかけは、少し意外なところから始まりました。

それは、私の神さま離れでした。

ある時、仕事が行き詰まっていました。

祈っても聞かれないように感じることが続き、私は少し神さまから心が離れていました。

でも、その奥にあったのは、ただの不満ではありませんでした。

「天の父よ、私はどうしたらいいんですか!?」

「もっとたくさんの人に福音を伝える方法はないんですか!?」

そんな嘆きでした。

イエスさまの愛を知った。
天の父の愛を知ったからこそ、その愛を知らずに生きる苦しみも分かった。

そして私は、JTMでの音楽の働きを通して、福音が人の人生を本当に変えていく現場を、この目で見てきました。

たくさんの家庭が回復していくのを見ました。
肉体の癒しも見ました。
心の癒しも見ました。
涙が祈りに変わり、壊れていた関係が、神さまの愛によってもう一度つながっていく姿を見ました。

まだJTMにつながったばかりの頃、神さまの愛に触れ、ロギオンの祈りを通して癒やされ、親子で抱き合って泣いている姿を見たことがあります。

その涙は、本物でした。

どんなドラマや映画よりも、私の心に響きました。
本当に人が癒やされる瞬間。
本当に関係が回復していく瞬間。

その光景を見て、感極まり座り込んで涙しているエリカ牧師の姿にも、私はさらに心を打たれました。

神さまの愛は、本当に人を変える。
福音は、本当に家庭を回復させる。

私はそれを、知識ではなく、この目で見ていたのです。

私自身もそうでした。

妻との関係が変えられました。
母との関係も修復されていきました。
家族の中に、祈りと愛が流れ始めました。

神の子として生きる喜びを知った。

だからこそ、私は嘆いていました。

「天の父よ、もっとたくさんの人に福音を伝える方法はないんですか!?」

どうすれば、この愛をもっと届けられるのか。
どうすれば、天の父の愛を知らずに苦しんでいる人たちに、この福音を届けられるのか。

その答えが見えず、私は行き詰まっていました。

その時、私は不思議な映像のようなものを見ました。

息子と一緒にラップしている姿です。

その瞬間、また涙が溢れてきました。

私は号泣していました。

神よーーー!

胸の奥が一気に燃え上がり、私はまさにジャンピング土下座のような気持ちでした。笑
平謝りです。

疑ってすみません。
不信感を持ってすみません。
でも、これなら伝えられる。
これなら、もっとたくさんの人に福音を届けられる。

目指せ、世界進出だーーー!!

そんな思いが、涙と一緒に湧き上がりました。

今振り返ると、その時間さえも神さまのご計画の中にありました。

私が行き詰まり、嘆き、どうしたらいいのか分からなくなったその場所で、神さまは息子を通して、新しい福音の届け方を見せてくださったのです。

その頃、ちょうどロギオンが語っていたのが、ダビデ王の子どもの頃のエピソードでした。

ダビデと巨人ゴリアテ。

羊飼いの少年だったダビデが、巨大なゴリアテに立ち向かう場面です。

その姿が、とにかくかっこよかったのです。

ロギオンは語っていました。

ゴリアテのように大きな障害や問題も、神と共に歩み、みことばを宣言することで突破できる。

その言葉を、私はキャッチしました。

そして息子のラップ名義はダビデから取って、Davyと名付けました。

小さくても、神さまと共に立つ。
巨人のような問題にも、信仰をもって立ち向かう。
みことばを握り、神の子として歩む。

そんな意味を込めました。

私は息子に聞きました。

「ラップやるか?」

すると息子は、即答でした。

「やりたい!」

最初は、息子のソロ曲として考えていました。

でも本人が言ったのです。

「パパとラップしたい。」

その一言で、曲はDavy feat Pistissという形になりました。

今思うと、これはまさしく弟子訓練の形でした。

父の背中を見て育つ息子。

でもそれは、私が偉い父親だったという意味ではありません。
むしろ、神さまから離れかけていた私を、神さまが息子を通して呼び戻してくださったのです。

私は、子どもの純粋さにハッとしました。

父として背筋が伸びました。

神さまは、子どもを通しても語られる。
神さまは、家庭の中でも働かれる。
神さまは、親が完璧だから子どもを用いるのではなく、弱さの中にある家族を通して、ご自身の愛を流してくださる。

そう感じました。

長男は、以前、学校に行けない時期がありました。

神さまを知る前の私にとって、学校へ行く目的は、勉強すること、集団行動を学ぶこと、ルールを守れるようになること、調和することでした。

もちろん、それらも大切です。

でも、神さまを知ってから、学校へ行く意味が変わりました。

学校は、ただ勉強しに行く場所ではなくなりました。

友達に優しくする場所。
先生を愛する場所。
愛を流しに行く場所。

そして時には、福音を伝える場所にもなりました。

実際に、長男は友達に福音を伝えることもあります。

子どもが、子どもに、まっすぐに伝える。
そこには、大人が忘れてしまいがちな純粋さがあります。

それを支えていたのが、毎朝のディボーションでした。

祈る。
みことばに触れる。
家族で神さまに心を向ける。

その積み重ねの中で、家の空気が変わっていきました。

以前、私は息子に聞くことがありました。

「今から何をしに行くんだっけ?」

すると息子は答えました。

「友達と先生に優しくする。みんなを愛しに行く。」

この言葉は、我が家にとってとても大切な言葉です。

そしてその土台の上に、Davyのラップが生まれていきました。

小さなダビデは、ランドセルと一緒に、みことばの剣を握るようになりました。

聖書には、ダビデがゴリアテに向かって言った言葉があります。

「おまえは剣と槍と投げ槍を持って私に向かって来るが、私は万軍の主の御名によって、おまえに向かって行く。」

サムエル記 第一 17章45節

ダビデは、体が大きかったから勝ったのではありません。

武器が立派だったから勝ったのでもありません。

彼は、万軍の主の御名によって立ち向かいました。

それは、子どもにも当てはまることだと思います。

小さくてもいい。
弱く見えてもいい。
まだ小学校1年生でもいい。

神さまと共に立つなら、強くされる。

Davyの曲には、そんな思いが込められていました。

「みことばの剣とランドセル」

この言葉は、私にとって7話の象徴です。

子どもは学校にランドセルを背負って行きます。
でも神の子は、それだけではありません。

目には見えないけれど、みことばの剣を握っている。

それは、人を傷つけるための剣ではありません。
怒りや恐れ、嘘や不安に立ち向かうための剣です。

学校で嫌なことがあっても。
怖くなる日があっても。
友達との関係で悩む時があっても。
みことばが心にあるなら、神さまの愛を思い出すことができます。

Davyの歌詞には、私たち家族が受け取ってきたものが流れていました。

「カッコつけるよりも愛を受ける」

昔の私は、ずっとカッコつけたかった。
認められたかった。
自分を大きく見せたかった。

でも天の父の愛を知って、私は変えられました。

カッコつけるよりも、愛を受ける。

これは、息子の歌詞でありながら、私自身へのメッセージでもありました。

「泣く子あらば肩を抱き」

「奪い合う場合じゃない与え愛」

この言葉にも、神さまの愛が流れていました。

学校は競争する場所だけではない。
誰かより上に行くためだけの場所でもない。

泣いている子がいたら、肩を抱く。
奪い合うのではなく、与え合う。

それは、神さまを知った我が家が、子どもに流していきたかった愛でした。

そしてこの曲には、私たちの大切な言葉も入っていました。

スーパーヒーローはYOU。

それは、自分勝手なヒーローになれという意味ではありません。

子どもでも、弱く見えても、神さまと共に立つなら強くされる。
あなたも、神さまから与えられたGiftを持っている。
あなたも、誰かを愛するために立ち上がることができる。

そんなメッセージです。

曲を作った当時、歌詞の中では「普段は小学校1年生」と歌っていました。
ライブでは、成長した今に合わせて「2年生」とラップしています。

そんな変化さえ、親としては嬉しいものです。

子どもは成長していく。
みことばと一緒に、神さまの愛の中で成長していく。

聖書には、こうあります。

「夜が明け、明けの明星があなたがたの心に昇るまで、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているのです。」

ペテロの手紙 第二 1章19節

みことばは、暗い所を照らす灯火です。

不安な心。
怖い心。
学校へ行く前の小さな胸の中。
親である私の迷い。
家族の中にある弱さ。

その暗い所に、みことばは光を灯してくれます。

Davyのラップは、ただの親子の音楽ではありませんでした。

みことばが、小さな子どもの声を通して流れ始めた瞬間でした。

父である私が受け取った天の父の愛。
毎朝のディボーションの中で触れてきたみことば。
学校へ愛を流しに行くという小さな決意。

その一つひとつが、音楽になっていきました。

この証から生まれた曲が、

明けの明星 / Morning Star feat. Pistiss

です。

小さなダビデが、みことばの剣を握り、
父である私と一緒に福音をラップした一曲です。

暗い所を照らすともしびとして、
みことばに目を留める。

その光が、親子の声になりました。

よかったら、こちらから聴いてみてください。

YouTubeリンク】

レコーディングは、感動だけではありませんでした。

子どもなので、すぐに飽きます。
調子に乗ります。
気分を持ち上げるのも大変です。

こちらが真剣になればなるほど、本人は急に違うことを始めたりします。

でも、それも含めて楽しかったのです。

意外と堂々としているところもありました。
子どもらしい面白さもありました。
公園での撮影も、やっぱり同じでした。

思い通りに進まないこともある。
でも、その一つひとつが思い出になりました。

親として、息子のラップを聴いた時、私は感動しました。

すごいと思いました。
神さまの計画を感じました。
そして、自分の子ども時代とも重なりました。

父を知らずに育った私が、今は息子と一緒にマイクを握っている。

この現実は、当たり前ではありません。

私はずっと、子どもとお話しすることが夢でした。
その夢が、今、音楽の中でも実現していました。

自分が天の父から受け取った愛が、息子へ流れている。

息子と一緒に神さまを賛美できる。

これは、私にとって本当に大きな喜びでした。

そして迎えた初ライブ。

100人以上の前で、親子でステージに立ちました。

長男は、ちょっぴり緊張していました。

でもそこには、親子で一致する感覚がありました。

神の子としての一致。

父と子でマイクを握り、神さまのことを歌う。

それは、かつての私が想像もしなかった景色でした。

周りの人からも、感動した、元気をもらったと言っていただきました。
JTMの神の家族の中でも、励ましとして受け取られていきました。

でも何より、私自身が励まされていました。

神さまは、親が完璧だから子どもを用いるのではありません。

神さまは、弱い親をも用い、子どもを通して語り、家庭の中にみことばの実を結ばせてくださるお方です。

子どもの中にも、神さまのGiftがあります。

親が受け取った愛は、子どもへ流れていきます。

家庭の中の祈りとみことばは、確かに実を結びます。

小さなダビデがマイクを握った日。

それは、ただ息子がラップを始めた日ではありませんでした。

天の父の愛が、私の中で止まらず、息子へと流れ始めた日でした。

父を知らずに育った私が、今度は息子と一緒にマイクを握っていました。

小さなダビデは、ランドセルと一緒に、みことばの剣を握っていました。

子どもは小さくても、神さまと共に立つなら強くされる。

そして、その声は、家族の中だけには留まりませんでした。

やがてその音は、妻へ。
夫婦へ。
家族へと広がっていきます。

次は、夫婦で奏でる賛美へ。

闇から光へ。

LET THERE BE LIGHT。

光、あれ。

Buddhaの弟子から、キリストの弟子へ。

痛みは証に。
光は闇に勝つ。

スーパーヒーローはYOU。

Blessings to you.

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