論よりショート【ご挨拶】 1451
ようやく晩ご飯にありつけるとダイニングチェアに座った途端にドアホンが鳴った。モニターには女性と、引率されて仕方なく来ましたという感じの、それより若い2人の女性が映っていて、「こんな時間に何なんだよ」「ドアは開けない方向性で」と思いながら、サガワは他所行きの声で「はい」と返事をした。
「隣に引っ越してきたヤマトです。ご挨拶に伺いました」
うわ、これはドアを開けなアカン案件やんと、サガワは慌てて自分の服装を見下ろす。あまりにも忙しかったしあまりにもお腹が空いていたからコンタクトレンズを外しただけ。仕事から帰った服装のままエプロンを着け、メイクも落としていないことに、グッジョブと心の中で親指を立てる。
「お待たせいたしました」
「こんばんは。今日引越してきたヤマトです。ご迷惑をおかけすると思いますが、よろしくお願いします」
母娘と思われる3人が揃って頭を下げる。
「これ、つまらないものですが。ヤマトです」と手土産を差し出され
「いえいえそんな、迷惑だなんてお互い様ですからどうかお気遣いなく」と、大人のマナーとして通り一遍の押し問答を2回だけ繰り返す。3回目に
「では遠慮なく。ご丁寧にありがとうございます」と押し戴けば、後はドアを閉めて晩ご飯の続きを食べられる。
「あのお、ヤマトです」
しつこい。選挙運動じゃあるまいし、ただの隣人に連呼は要らない。いくらサガワが仕事でくたびれ果てているとはいえ、「ヤマト」くらいは覚えられる。それとも何か、実はヤマトさんはすっごい有名人で、サガワの無反応が気に入らないとでもいうのか。
いただいた品物の外熨斗にも「ヤマト」と書いてあった。ラッピングバッグの中身は市指定のゴミ袋と食器洗いスポンジ。食器洗い洗剤をいただく機会は結構あったけれど、ゴミ袋とスポンジは初めて。私なら何を差し上げるかなと引越し挨拶を脳内シミュレーションし始めてはっとした。ヤマトさんがしつこく名乗ったのは、サガワの名字を知りたかったからではなかったか。
サガワは何ヶ月か前に、表札と郵便受けの名前を外した。フィッシングメールや詐欺と思われる電話が多いし、郵便と宅配を除けば連絡もなく突然訪問してくるような人には用がないと判断したからだった。向こうから訪ねてくる人はサガワだと知っているのが前提だから、サガワが名乗る必要はないはず。引っ越しの挨拶は想定外だった。
「先日は名乗りもせず失礼いたしました。隣に住むサガワと申します」とご挨拶に伺うべきだろうか。名乗らなかった理由を説明するべきだろうか。その際には手土産を持参するべきだろうか。ゴミ袋とスポンジのお礼に相応しい手土産は何だろうか。手土産には「サガワ」と書いた外熨斗を掛けるべきだろうか。「サガワです」と玄関先で連呼すれば手ぶらでも構わないだろうか。

2026.3.25.水
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