夜と枯れる華 5話
私は夜戸の隙間から外の様子を見る。寝る度に数えていた日数と違うこと無く、満月の夜だった。今までは夜になって、祖父母が寝静まったタイミングを見計らってすぐに窓から出て、南の森を抜けた平原に向かう。だけど、今日はその日をわざと遅らせる。
この村では夜の時間を数える必要が無いので、日時計しか部屋になく、どの程度待てばちょうど良い時間になるのかも分からず、ただ永遠のようにも感じる時間をひたすら過ごした。月に一度しかこの時間に起きていることはなく、なにもしないで時間を過ごすようなことがなかったので、瞼が自然と重くなり、手の甲や頬の皮膚を引っ張って、ひたすら待った。
マツリはずっとあの平原で私を待ち続けているのだろうか。もしかしたら、今日は来ないかもしれないと思って、すでに場所を変えて過ごしているかもしれない。もしそうだったら彼女にはすごく申し訳ないことをしてしまっている気もするが、私には今日どうしても早くに彼女に会いに行くことをしたくない理由があった。
あともう少し、もう少しと我慢を重ねて時間が経つのを待った。ついぞ我慢の限界に来たところで、私は夜戸を開けて夜の世界に飛び降りた。
蝉の鳴き声が聞こえるようになってきた森を歩きながら、実はそれほど時間が経っていなかったのではないかと不安に駆られたが、一度家を出てしまった以上、戻る方がかえって気が引けて、できるだけゆっくりと歩きながら平原を目指した。
マツリは初めて会ったときと同じように一本の木の根元に膝を抱え込むようにして座って待っていた。マツリは夜の暗い世界においても、一際目存在だ、陶器みたいになめらかで白い身体と、それ以上に白く透き通るような髪が月の光を受けて輝いている。どれほど遠くにいても、夜の世界であれば彼女の姿を一目で見つけることができるだろう。
私の足音が近づいているのに気がついたのだろうか、マツリは立ち上がると、服から草や土を丁寧に払うと、私の方へと歩き始めた。
「今日はずいぶん遅かったね。抜け出すのに手間取ったの?」
彼女の笑顔は、他の表情と比べて無邪気で幼く見える。
「いや、そういうわけではないんだけど・・・ごめんなさい」
どうしても歯切れ良く答えることが出来ない私を彼女は不思議そうな目で見つめる。
「まあ、いいわ。今日約束しているヤライはそれほど遠くにいるわけじゃないから、ちょっとだけ早足で行けば十分に時間があると思う。」
前の夜も、その前の夜も彼女は私を他のヤライに会わせてくれた。今日も私を連れて行くために他のヤライと約束を取り付けてくれていたようで、私は申し訳ない気持ちになる。
今日は他のヤライに会いに行く気が私にはないからだ。他でもない目の前のマツリについてちゃんと知りたい。
返事をしない私をみて、マツリは小首をかしげる。
「どうしたの。何か心配事?」
「ううん。そうじゃないんだけど、ただ今日はマツリと話がしたいと思って。」
「私と?じゃあ歩きながら話をしましょうか。村のこととかシクンの家族のこととかもっと知りたいわ」
マツリの声色はいつもみたいに優しくて甘い。だけれど、彼女は決して自分の話を詳しく話そうとはしない。
歌が好きで、昔王都に住んでいて、いろんなヤライと交流がある。それだけしか私は彼女について知らないのだ。彼女について知りたいことはたくさんある。どうにかしてそれを聞きたいと思うけれど、彼女はきっとはぐらかしてしまうだろう。マツリは急くようにして、森の方に向かって歩いて行ってしまう。私が普段通りではないのは分かっているだろう。それでも彼女は歩き始めるのだ。私から重大な問いかけをされるのを避けるように。
どうにかして、彼女の足を止めなければ。そう思った私は、きっとこれを聞くことが全ての後になるだろうと思っていた疑問を咄嗟に彼女に投げかけてしまった。
「マツリは本当はヤライじゃないんでしょ」
緊張で声が擦れて、絞り出したよう呻きのような声が出た。
マツリは足を止めたが、こちらを振り返ることはしなかった。
だけど私の背筋に悪寒が走るほどに、彼女を待とう空気が冷えていくのが分かった。やってしまったという後悔と、それでもこれしか無かったのだという諦めが同時に湧いてくる。私もただ立ち尽くし、マツリの綺麗で凍るような後ろ姿を見つめ続けた。
しばらくして、彼女はふとため息をつくと、本当に小さな声で、
「潮時ね」
と呟いた。私には確かにそう聞こえた。
マツリは私の方を振り返った。白い光の束のような長い髪がふわりと舞って彼女の身体に絡みついた。
そして一歩一歩私の方に向かって歩いてきた。
「シクンはさ、以前村に婚約者がいるけれど、気が進まなくて結婚を先延ばしにしてもらっているって言ってたよね。それってさ、つまり君は男の人と結ばれるのが嫌だってことなんじゃないのかな。私ね、分かってるよ。君が私のことをどういう目で見てるかって」
マツリの射るような瞳に見つめられて、体中から嫌な汗が噴き出してくる。顔が熱くて、視界も揺らいでいく。怖くて逃げ出したいのに私はマツリが一歩一歩近づいてくるのをただ待つことしか出来なかった。
「別に私は全然嫌じゃないのよ。君がそういう劣情を抱えて私を見ていたとしても、全然構わないし、むしろ嬉しいよ。君の目は、耳は、心は特別なんだから。私の歌に悲しみを見いだして、針金の馬に心臓を見つけた。母の最後を聞いて、一人のヤライとしてその終わりがあったことに感謝した。王都にいた愚かな五感に支配された何者とも違うの。だからその目が私を認めることはむしろ光栄だとも思うわ」
彼女が一体何の話をしているのかわからなかった。少しずつ私との距離を詰めてくるマツリの姿を、揺らぐ視界になんとか捉えることしか出来なかった。
そしていつの間にか、私の目の前に来たマツリは白くて、冷たい腕を私の頭の後ろに回していた。
「大丈夫よ。何も心配は要らないから」
彼女の人形みたいに美しい顔が私を覆う。
それは、前の満月の夜の夜にされたときよりも、強引で、それでいて快楽に満ちていた。
私の思考は水に溶かした染料みたいにドロドロに溶けて、視界が真っ白になっていく。私たちは抱き合うようにして草むらに倒れ込んだ。
耳元で今まで一番心地よい彼女の声がする。
「私にしたいこと、されたいことなんでも言っていいのよ。ここには誰もいないし、邪魔も入らない。我慢する必要なんてなにもないのだから」
彼女の声が息とともに私の耳に当たって、腰のあたりが浮くような感じがする。優しい痺れが体全身に広がっていく。彼女のほんのり上気した肌が私の身体を這う。
このまま彼女の声に従えば、十分すぎるほどに私は満たされるだろう。私たちは大地と一体になって溶け合って、それで世の中の全てと決別できる。
これ以上ないくらいの甘美な誘い。無我夢中で彼女の身体に手を伸ばす。ひんやりとしていて、小川みたいになめらかな肌。これを好きにしていいのだとしたら私は、私は・・・
しかし、私は気がついてしまったのだ。彼女の身体が震えていることに、彼女の目が赤く潤んでいることに。
「これがマツリの傷なんだね・・・」
マツリは大きく目を見開いて、目を瞑り一瞬泣き出しそうな顔になった。それから彼女はこらえるようにしてしばらくじっとしていた。私もマツリもすんでのところで壊れずに済んだのだろう。
彼女はゆっくり身体を起こして顔から髪を払った。段々と蝉と蛙の鳴き声が耳に戻ってくる。だけど私は身体が痺れてまだ起き上がれそうにない。
長い時間が経った気がする。風が吹かない平原に私たちは縫い付けられて、互いの呼吸と夜の音を聞いた。雲一つのない空を眺めていると、時が止まってしまったように錯覚してしまう。暗闇の中では昼の時間よりも、自分の世界が狭くなって、全て置いていかれるような感じがする。だけど孤独であることがどこか救いになる。きっとヤライはこの孤独を求めて生まれてしまうのだろう。
マツリの身体が頼りなく揺れる。
「私もシクンのお母さんと一緒で、小さな頃から芸術座に所属していたの。特別才能があったとは思わないけれど、歌うことが好きで、他の子ども達よりもずっと長い時間、歌の練習をしていたと思う。だから、いつの間にか私は君のお母さんほどではないけれど、王都でよく名前を知ってもらえる程度の歌い手になった。他の子よりもちょっといい衣装を着せられて、たくさんの贈り物をもらえるようになった。
だけど、私はたいして、そんなことに興味はなくて、認めてもらえるほど、歌を披露する回数が増えていくことが嬉しかった。式典の余興で王城前の広間に王都中の人が集まって、誰もが静かに私の歌に耳を傾けてくれた時は、小さな頃から芸術座に入って歌い続けて良かったって本当に心の底から幸せな気持ちになったわ。」
そう話すマツリはうっとりとした表情で月を見つめる。
「ヒビスは言っていなかったけれど、そもそも芸術座というのは大人達の欲望によって運営されている組織なのよ。小さな才能ある子ども達に指導して、夜会や巡業で稼げるようにする。ここだけ聞くと若い才能に先行投資を行ってるようで、聞こえはいいかもしれないけれど、芸術座で成功する人間というのは全体の一割にも満たないのよ。
大抵の子は見限られて座を抜けていくわ。そして残った子どもの大半は、貴族や金持ちをある程度楽しませたあと、気に入られた貴族や金を持った大人達に身請けされていくの。つまりは、花街で行われていることが、少し綺麗な形になって成立しているだけで、結局のところ、若い才能を大人達が己の欲望を満たすために利用しているだけだったのよ。
こんなのは座に長いこと所属していないと分からないことで、座に子ども預ける一般家庭の親達も何も知らない被害者ってことになるね」
話を聞いていて、一つ想像をしてしまう。マツリは私のそんな様子に気がついたのだろうか。優しい口調で話を続ける。
「安心してあなたのお母さんは、身請けされてあの村に来たわけじゃないわ。そもそもこんな地方の村で共同生活を行う男がそんな大金を用意できるわけないじゃない。あなたの両親は本当に愛し合っていたと思うわ。
でも、ほとんどの子は好きでもない大人のところに買われていくの。かくいう私も数人の貴族から求婚されていた。どれも私は頑なに断り続けた。そこそこ名が売れて、座もきっと私にはもう少し利用価値があると思ったんでしょうね。無理に身請け話をされることはなくて、一度断ればそれでおしまいだった。だけど――」
話の途中でマツリの身体が強張る。頭の先から震えていた。何かに堪えるように強く握られた彼女の手を私は腕の痺れを我慢しながらなんとか掴んだ。
マツリは驚いた顔をしたが、身体の震えが止まって、冷たい身体が少しずつ色を取り戻していく。息を深く出し入れすると、彼女は話を続けた。
「私に断られた一人の男が、私が一人で居るところを狙って無理矢理馬車に連れ込んだの。急に頭に何かかぶせられて、前が見えなくなって強い力で私の腕を引っ張って。何がなんだかわからなくて、身体が動かなくて。それから頭の袋が取られて周りが見えるようになると、私に跨がるようにして男がいて、片手には立派な装飾がついたナイフを持っていたわ。私は何かこの人の気に障ることをしてしまっていまから殺されてしまうんだって、そう思ったわ。でも実際には殺されていた方がましだったくらい、不快で気持ちの悪い時間が流れた。怖くて、吐きそうで、痛くて、辛くて、泣きそうで、ただただ何も考えないように努めて時間が流れるのを待ったわ。
しばらくして、暗い路地に下ろされて解放された。誰にも言うなともう一度ナイフをもって私を脅してその男は馬車に乗っていってしまったわ。どうやってそこから家に帰ったのかは覚えていないけれど、両親は私の姿を見て、目を丸くして、それから私が泣き出すと、二人とも一緒に泣き崩れたわ。私の髪はもともと何よりも綺麗な深い黒色だって両親が褒めてくれていたんだけれど、あの日からこんな色になってしまって元に戻らなくなっちゃったの。座長にもあとでそのことを伝えたけれど、相手は相当位の高い貴族様だったみたいで、このことは他言するなと釘を刺されておしまいだった」
私はただマツリの手を強く握ることしか出来なかった。
「それからはなんとなく予想がつくと思うのだけれど、私は人前で歌うのが怖くなった。座長に言われていつも通り公演で歌うのだけれど、喉にどろっとしたものが絡みつくように、上手く声が出せなくなった。それが喩え両親であったとしても、私は誰かの前で歌うことが出来なくなった。そして誰にも何も言わずに王都を飛び出して誰かの居ないところを目指したの。
泊まるところやご飯に困れば、一人暮らしの男の人の家についていって言うことを聞いた。いつも怖くて気持ち悪い思いをしたけれど、何もかも捨てて流れ着いた私にはそれしか出来なかったから。何回したって慣れることはなかったけれど、私はそうやって私はまるで運命みたいにこの森まで流れ着いたの。気づけばヤライになっていた。」
「私は・・・」
痺れて上手く動かない喉をなんとか動かした。私は彼女の傷を広げることに加担していたのだ。彼女は私といて不快だったのだろうか。辛かっただろうか。でもヤライだから、己の痛みを強くするためにそうするしかなかったのだろうか。
「ううん。私がシクンをそういう風に誘導したんだから、君は自分を攻める必要はないのよ。わざと君に媚態を晒して、劣情を煽った。そういう種があるのを君の中に見つけてしまったから。それになんだか今までよりも気持ち悪さが減って、私の中で別のところが痛み出したから都合が良かったの。いっそこんな醜い私を君に曝け出せば、もっと傷が深くなるのだろうって分かっていたけれど、どうやらそれを無意識に私は避けていたみたいね。」
マツリの瞳が私を捉える。まっすぐで柔らかくて壊れそうな瞳が。
「もう一度キスしてもいい?これは自傷じゃなくて、私の願いとして」
上手く頷けたかはわからないけれど、彼女はゆっくりと私に覆い被さる。
繊細で透明なキスだった。
「私はヤライである自分が嫌い。打算なんかなしで、ただ純粋に君に恋をしてみたかった。幸せだけで手を繋いで、楽しいだけで君と踊って、そうしたいって思いだけで、君と眠りにつきたかった。でも私はこんなので、君をッ自分の傷のためにしか利用できない。」
「それは、この世界に生きていないから?」
「そう。私たちは現実から逃げて夢の世界に生きているから。辛いことがあったのを自分だけが知っていて、綺麗なものが壊れていくのを自分だけが見たと信じていて、なにかの終わりを自分だけが見いだせると思い込んでる。だから現実の世界とは決別して夜に逃げた。」
私だって、自分だけが、ものをしっかりと考えていて、他人とは違う世界に生きていると、今まで考えたことは何度もある。夜戸を開けて外の世界を覗き見ることは、私だけが知っていることで、村の人間は幸せそうに何も感じず眠っているのだとか、結婚なんてものに頓着している人々は愚かだとか、自分を守るために世界を作って逃げ口にしている。
でもそれはヤライや私だけでなく、皆本当はそうなのだ。心の内で、自分は他者とは違うのだからと、世界を見つめて勝手に孤独に陥る。だけどその孤独を何よりも愛おしく思い縋る。他人が自分と同様かそれ以上にものを考えて生きているなんて想像したらきっと、怖くて外に出られなくなる。だからそんな思考は最初から締め出してしまい、自分だけの孤独を愛している。
ヤライはその孤独の世界が現実よりも大きくなって、そして現実が消え失せてしまったなれの果てなのだろう。
私がマツリを現実につなぎ止める楔になれたらと、今になってもそんなことを考えてしまう自分が嫌になる。
マツリは私の髪をまるで自分を愛するように優しく撫でた。視界の端に空が黒が削げていくのが見える。もうじき朝になってしまう。マツリはそろそろ日の当たらない場所へと移動しないといけないだろうし、私も立ち上がって自分の足で村に帰らなければ。
だというのに、私の身体は痺れがとれないままで、むしろ先ほどよりも痺れが強くなって、手足が言うことを聞かなくなっている。何かがおかしい。
「黒黄金虫。少量であれば体液を呑み込んじゃっても、1時間くらい痺れて動けないだけで、身体に大きな害はないわ。ごめんね。ちょっとだけ意地悪してしまったわ」
マツリが何を言っているのか一瞬分からなかった。それからすぐに、彼女が口移しで私に黒黄金虫の体液を飲ませたのだと分かった。だけど一体どうして・・・
「君にヤライのことを知って欲しいって、初めの夜にお願いしたの覚えてる?私から最後にもう一つヤライのことを君に教えようと思う。ヤライの最後について」
空の半分がもうすでに明るくなってしまっている。
”ヤライは日の光を浴びると灰になってしまう”
マツリはいまここで消えようとしているのか。
「君だったら強引にでも私を止めてしまうのだろうと思ったから、しばらく動けないようにしちゃったわ。どうか最後まで私のことを見ていて欲しい。」
そういうと彼女は私と同じように草原に横たわる。
朝日が露に反射して草原一帯が光り輝く。鳥の声が遠くで聞こえる。
マツリの身体は朝日を反射して消えてしまいそうなくらいに輪郭が亡くなっていく。マツリの顔は穏やかで、それと反対に私の顔はどれほど醜いものだっただろうか。
私たちは無言のうちに朝日に包まれていく。
