パタンナーという仕事に就いた理由をSANYOアイロン(30歳)と伏線回収してみた
家電ってさ……30年も使えるものなんだね。
私の愛用のアイロン、なんと30歳。
メーカーはSANYO。サンヨーって、いつなくなったんだっけ。
こんなに長生きの家電、他にある?
全然現役だし、黄ばみもない。
このたたずまいは、質実剛健ってことでいいのかしら。
SANYOさん、モノづくりに命をかけていて、商売はちょっと下手だったのかな。

──そこに置いてあるだけで、なんだかほっとする存在感がある。
ふと目をやるたび、30年間一緒に歩いてきた時間が、静かに立ち上がってくる。
ああ、そうか。
このアイロンは、私の仕事人生の“証”みたいなものなのかもしれない。
パタンナーというのは、型紙をつくる仕事。
デザイナーの描く完成イメージが
実現するように、裁断用の型紙をつくる。
デザインと素材とパターンの組み合わせがぴたりとハマると、本当に良い商品が仕上がる。
一見シンプルだけれど、奥は深い世界。
素材特性や生産背景、商品のターゲットに合わせた要素も型紙に盛り込む。
いまだに、この仕事の面白さに惹かれ続けている。
振り返ると、この当時最先端だったアイロンと一緒に、本当にいろんなものを作ってきたなぁと思う。
気がつけば、パタンナー歴26年目……絶句する。
キャリアだけは長い。
まだまだ、学ぶことは山ほどあるのに。
でも、30年モノのSANYOのアイロンを眺めていると、
これまでの“点”のような経験が、確かな“線”になって今に繋がっているような気がする。
これが、私の伏線だったのかもしれない。
今日は、そんな伏線回収の話です。
ファッション通信と山本耀司
高校生のある日。──「浅草ヤング洋品店」のあとで見たのかな?
テレビで、たまたま「ファッション通信」が流れていた。
パリコレの映像。山本耀司の黒い服。大きな帽子。
それらを目にした瞬間、私ははっとした。
“洗練されている”って言葉が自然に浮かんだ。
「私も、あの道に進みたい」──そう思った。
たぶん、数学をはじめとする“お勉強”に、もうすっかり疲れていたんだと思う。
進学校に入った私は、まわりがとても優秀なことに気がついた。
だからこそ、自然に、こう思った。
──ああ、私が勉強しなくてもいいな。
集団の先頭にいれば、追い越されないように頑張れる。
でも、“中の中”に入ると、不思議と、あっさり手放せてしまうんだよね。
勉強は、得意な人に任せればいい。
私は、服のほうで生きていこう。
その選択のおかげで、子どもたちには“上位校神話”をあまり信じていない。
集団の中で、自分がトップでいられるほうが力を発揮できる。
そういう別の軸があることを、私は知っているから。
とはいえ──
大人になって、いろんな経験をして思う。
「どんな大学でもいいから、一度は卒業しておくべきだったなぁ」って。
気づけば、そんなことを何度も何度も思っていた。
当時は相談できる相手もいなかったし、ネットもまだ今のようには普及していなかった
自分に必要な情報を持つ“誰か”に辿り着くには、努力と、ちょっとした運が必要な時代だった。
少し変わっていた父は、勉強しろしろと言い続けるのに飽きたのか、
あるときふっと口を閉じて、「女は手に職だからな」とだけ言った。
家庭科の教員をしていた、賢いお姉さんのことが父の頭にあったのかもしれない。
不思議と服飾の道を選んだ私を尊重してくれた。
洋裁との出会い
子どもの頃から、手芸が好きだった。
小学1年の頃。シルバニアファミリーのお洋服を手作りする方法を、友達のお母さんが教えてくれた。
グレーにピンクの花柄の生地を、ボンドで組み立てる。
パーツとパーツを繋げると、ちゃんと服になる。
吊り紐付きのスカートなんか、本当にすぐできた。
まるで工作みたいで、夢中になった。楽しかった。
小学校4年生の学芸会では、背が高かったから王女様役をやったことがある。
あのときの衣装は、今思い返してもすごかった。
確か、先生と保護者の方々が協力して作ってくれたのだと思う。
人生で初めての「仮縫い」のときのこと。
赤紫のサテンで仕立てた、大きなギャザースカートのドレスだった。
前中心の裾は、ウエストに向かってつままれていて、その内側からは濃い紫色のサテン生地がのぞいていた。
中にはチュールのパニエを履き、バロック期のお姫様のシルエット。
──絵本で見たドレスを、人が手で作ってしまうという光景に、私は驚いた。
「ボンドで着せ替えを作る私」と、「あのドレスを作れる人たち」との、
圧倒的な技術の差を、幼いながらに感じた。
自宅で縫う必要のある部分があり、母が重たいミシンを押し入れから出してきて、縫ってくれようとした。
祖母が洋裁上手だったので、母はあまり縫い物をせずに育ったらしい。
「ばあちゃんが上手いから、ママはあまり得意じゃないんだよ」と、少し不安げにミシンに向かっていた。
面白そう。縫ってみたい。
「私にやらせて」と頼んで、結局、私が大部分を仕上げたと思う。
手を動かすことの楽しさを知ってからは、
母にねだって、いろんなことをやらせてもらった。
編み物も、刺し子も、なんでも好きだった。
単純作業が大好物。
動物占いはオオカミ──単純作業好き、たしかに当たっている。
ミシンの音に包まれながら、黙々と縫う、あの時間の没入感が、たまらなく好きだった
縫っているうちに、外がすっかり暗くなっていたりして……
気づけば、数時間なんてあっという間に過ぎていた。
私を育てた13枚のブラウス
周囲がきちんと勉強を続けているなか、暇だった私は、いつの間にか洋裁にのめり込んでいた。
最初は『装苑』を見ながら、見よう見まねで型紙を引いていた。
でも、本だけではわからないことが多すぎた。
そんな私を見て、母がユザワヤ洋裁学院に通わせてくれた。
おばさまたちに囲まれた、17歳の女子高生。
わからないことは、どんどん質問して、本では解決できない技術を、目と手で、じかに学んでいった。
あるとき、自分でも満足する型紙ができた。
それを使ってブラウスを何枚か縫ってみたけれど、全然飽きなかった。
布も、糸も、ボタンの色も質感も、自分で選べる──それが、たまらなく楽しかった。
友達から「かわいいね」と褒めてもらえたので、
「生地を選んでくれたら、私がブラウスを縫うよ!」と声をかけた。
2メートルの布があれば、私の手でかたちにできる。
それが嬉しくて、同じ部活の13人分のブラウスを縫った。
いわば、一人縫製工場をやっていた。
あのとき私に「縫わせてくれた」友達たちに、心からありがとうを伝えたい。
私は、みんなに育ててもらったようなものだから。
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この文章を書くまですっかり忘れていたけれど、思い出してみると──
体育祭でクラス全員の衣装を準備したこともあった。
各家庭で作れるように、デザイン画や型紙の図、裁断・縫製の指示書まで作って配布した。
「わかりやすい!」と、いろんな人に褒めてもらえた。
……今の仕事と、あまり変わらないじゃん。
笑ってしまうくらい、自然に伏線が回収されていた。
自分で選んできたつもりだったのに、気づけば「逃げ場なし!」みたいな感じで編み目が完成している。
私の人生、どこまで手芸仕様なんだろう。
そして30年
服飾の専門学校に進んでからは、課題の山をこなす日々。
そのたびに、このサンヨーのアイロンで、ひとつずつ乗り越えてきた。
そんな私が思い出すのは、モデルのアンミカさんの名言
「白って、200色あんねん。」
これは、カラーを学んだ人なら誰でも知っていること。白とひとくちに言っても冷たさや温かさ、くすみ、明度、彩度の違いで印象はまったく変わる。
そんな繊細な目を養ってきたはずの世界で、それでも「白いものを黒」と言われたら、それが黒になる——そういう現場もあると聞いた。
そんな世界で働く自分を想像すると、どうも性に合わない気がして、結果的に大手企業への就職を選んだ。
社会人になっても、子育てしても、私のそばには、いつもこの相棒がいた。
黙々と、文句ひとつ言わずに働き続けてくれた。
火事もヤケドもなく過ごせた。
それだけで、なんだかありがたい気持ちになる。
ここ数年、「さすがに、そろそろ買い替えようか」と思って調べてみた。
でも、どれもピンとこない。
重さも、コードレスの使いやすさも、熱の立ち上がりも──
結局、うちのサンヨーに勝てる気がしない。
母が買ってくれたものだし、壊れていないし、家に2台も要らないし……
だからまた、検索したページをそっと閉じる。
あなたの家にも、そんな家電がありますか?
私の家には、30年モノのアイロンがあります。
サンヨーのアイロン。これからも、きっと当分、現役でいてくれそうです。
ただの家電なのに──
ふと目をやるたびに、歩んできた日々が静かに立ち上がってくる。
仕事に向き合ってきた時間も、迷いながらも続けてこられた理由も、
いつのまにか、このアイロンが全部そばで見ていてくれたような気がしています。
それはきっと、私にとって「長年の相棒」だから。
もしよかったら──
あなたにとっての「長年の相棒」の話も、いつか聞かせてください。
それが家電でも、道具でも、人でも──
何かひとつ、静かに寄り添ってくれた存在のことを。
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言葉にしてみると、案外、自分でも気づいていなかった
“これまでの自分”が浮かび上がってくるかもしれません。
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