みんなの恋を応援してきた君は自分の恋だけ諦めようとしている
石森璃花
彼女の名前をこの大学で知らない人はたぶんいない
まず圧倒的に可愛い
学部どころか大学全体で見ても屈指だと言われていて、実際、初めて見た人はだいたい二度見をする
そしてあざとい
『え〜それほんとに~?』
『やだぁ〜〇〇くん面白い〜』
小首をかしげて、少し上目遣いで笑う
けれど不思議なもので、彼女のあざとさを嫌う人を僕は見たことがない
それは男女関係なく、誰とでも分け隔てなく接するからだろう
派手なグループにも、教室の隅にいるタイプにも、同じ距離で話しかける
そして何より
彼女は人の話を最後まで聞く
だからだと思う
石森さんのところには、いつも誰かが相談に来る
…………
僕が彼女を知ったのは入学するよりも前
大学入試の朝
独特の緊張感に包まれた受験会場
誰も喋っていないのに、緊張だけがはっきりと満ちている
僕は自分の受験番号を探しながら廊下を歩いていた途中でポケットからハンカチを落とした
その時
『あの、待ってください』
後ろから声をかけられて振り返ると、知らない女性が立っていた
『これ、落としましたよ』
そう言って僕にハンカチを手渡す
「あ…すみません」
『今日は、ハンカチでも落ちると縁起が悪いですから』
そう言って、その子はふわりと笑った
そして自分の教室の方へ歩いていって、それきりだった
名前も聞かなかった
たった十秒の出来事だ
それなのに、あのとき固まっていた肩が、すっと下りた
入学して、学部のガイダンスで彼女を見つけたとき
僕は思わず、声を出しそうになったのを覚えている
…………
ある日
僕は大学近くのカフェテリアの窓際で、ぼんやりとその光景を眺めていた
三限が始まって、人の波が引いた時間
隅の席に石森さんが座っていて、向かいには見覚えのない女の子がいた
うつむいたまま何かを話し続けるその子に、石森さんは静かに相槌を打っていた
『うん』
『うん、それでかれはなんて言ったの?』
"それが…「今は誰とも付き合う気ない」って言われて…"
『そっかぁ』
石森さんはすぐには続けなかった
しばらく黙って、それから、ゆっくり言った
『でもね』
『それって「あなたが嫌い」って意味じゃない気がするなぁ』
"え…?"
『ほんとに嫌だったら、もっと違う言い方すると思うの』
『だからその人は迷ってるだけなんじゃないかなぁ』
その一言で後輩の子の顔が上がった
まるで暗い部屋の電気がついたみたいに表情が変わる
"璃花ちゃん、なんでそんなことまで分かるの?"
『分かんないよ?』
『璃花、頭よくないもん』
そう言って、彼女はふわりと笑った
その笑い方も、たぶん無意識なんだろう
その笑顔を見て彼女の目には涙が浮かんでいた
…………
石森さんに相談して恋が実った人を、僕は少なくとも4人知っている
そのうちの1人が僕の友人だ
"石森さん、マジで神だから"
学食のカレーをかき込みながら友人は言った
"俺、3回くらい心折れかけたんだけどさ"
"そのたびに「まだ大丈夫だと思うよ」って言ってくれだんだよ"
"それで実際大丈夫だったんだよな"
「へえ~」
"あとさ、石森さんのすごいとこ知ってる?"
"男性からも女性からも相談来るんだよ"
「確かによく相談されているところ見る」
"むしろ女性の方が多いくらい"
"でもさ"
"石森さんって自分自身のことは何にも話さないんだよね"
その言葉が、なぜか少しだけ引っかかった
たしかに僕は彼女が自分の話をしているところを見たことがない
誰かの恋の話は何時間でも聞くのに
…………
僕が石森さんに相談を持ちかけたのは、それから2週間ほど経った頃だった
図書館の帰り道
たまたま出口で一緒になった彼女に、思い切って声をかけた
「石森さん」
『あっ!〇〇くんだぁ〜』
『ねえねえ、今日の三限の課題やった?』
「まだやっていないよ」
『よかったぁ〜璃花もまだなの』
『仲間だね?』
たぶん、この人はこれを誰にでも言っている
そう分かっていても、悪い気はしない
そういうところが、この人のずるいところ
「ねえ1っ相談してもいい?」
その瞬間、彼女の表情が変わった
さっきまでのふわふわした顔がすっと引いて、別のものに切り替わる
『…うん』
『いいよ』
『どこか座って話さない?』
近くのベンチに並んで腰を下ろす
夕方の風はもう冷たくて、彼女はカーディガンの袖を少し伸ばしていた
『それで、どうしたの?』
「好きな人が…いるんだ」
自分でも驚くくらい声が小さくなった
『…そっか』
『詳しく聞かせて?』
彼女は急かさなかった
ただ、静かにこちらを見ていた
「名前は言えないんだけど」
『無理して言わなくて大丈夫だよ』
『どんな人?』
どんな人か…
その質問に僕は少しだけ迷ってから答えた
「人の話を最後まで聞く人」
「そして誰にでも優しい人かな」
『…へえ』
『素敵な人だね』
「うん」
「素敵だと思う」
石森さんはしばらく黙ってから、小さくうなずいた
『その人のこと、もっと教えて』
『璃花もどうすれば上手くいくかちゃんと考えるから』
…………
本当は、こんな回りくどいことをする必要はなかった
好きな人がいる
ではなく
好きです
そう言えば済む話だ
けれど僕には、どうしてもそれが言えない理由があった
石森さんは誰にでも優しい
派手なグループにも、教室の隅にいる人間にも同じ顔で笑いかける
だから彼女が僕に向ける優しさに意味があるのかどうかが、まるで分からなかった
『〇〇くんだけだよ』
彼女はよくそう言う
たぶんその台詞を僕の他にも何人も聞いている
そんな相手に「好きです」と伝えて
『ありがとう』
『すごく嬉しい』
『でもごめんね』
といつものように言われたら
僕はもう2度とこの人の前に立てない
だから相談という形にした
情けない話だけれど
これからも彼女の隣に座る理由が、それしか思いつかなかった
…………
それから僕たちは、週に1度くらいのペースで話すようになった
図書館の前のベンチだったり
講義棟の廊下だったり
たまにLINEだったり
場所も方法も様々だった
『その人と最近どう?』
「相変わらず人の相談ばっかり聞いているよ」
『あはは』
『忙しそうだねぇ』
『そういう人ってさ』
『たぶんだけど』
『誰かに頼られるのは慣れてても』
『自分が誰かに頼るのは、苦手なんじゃないかなぁ』
「…なるほど」
『だからね』
『〇〇くんが先に頼っちゃえばいいと思うの』
『頼られたら、その人きっと嬉しいよ』
「そうかな」
『絶対そうだよ!』
『あのね、〇〇くん』
『その人、たぶん〇〇くんのこと、すごく見てると思うよ』
「なんで分かるの?」
『分かんないけど』
『勘…かな?』
『〇〇くん、いい人だから』
そう言って笑う彼女の顔を、僕はまともに見られなかった
ある時1度だけ、言おうとしたことがある
『その人ってさ』
彼女がそう話し始めた瞬間
「石森さんのことなんだ」と
でも喉まで出かかったその言葉を飲み込んだ
言ってしまえば、この時間が終わる
週に1度こうして並んで座る理由が、なくなってしまう
我ながら臆病だと思う
けれど僕は、その臆病さのおかげで、まだ彼女の隣にいられていた
…………
そんなある日、学部の飲み会があった
石森さんはいつも通り輪の中心にいた
隣に座った男子とも、向かいの女子とも、同じ温度で話している
その席で、彼女のアドバイスで付き合うことになったという2人が、みんなの前で報告をした
"いや〜これ全部石森さんのおかげだから!"
"ほんとにそう! 璃花ちゃんいなかったら絶対無理だったもん"
あちこちから拍手が起こる
石森さんは照れたように手を振って、いつものように笑った
『え〜璃花なんもしてないよぉ』
『2人が頑張っただけだよ』
いつもの言葉だった
何度も聞いた台詞だった
けれどそのとき、僕はたまたま、彼女の手元を見ていた
グラスを持つ指が少しだけ強く握られていた
拍手が終わって、みんなが次の話題に移った頃
石森さんは静かに席を立った
戻ってきたのは、15分ほど経ってからだった
「大丈夫?」
『え?』
「いや、ずっと席を外していたから」
『あ〜…うん』
『ちょっと、外の風にあたってた』
そう言って笑った彼女の目は少しだけ赤かった
だけど僕は気づかないふりをした
…………
石森さんの変化に気づいたのは、飲み会のすぐあとだった
まず、石森さんからのLINEの返事が遅くなった
それまでは数分で返ってきていたのが、半日、1日と空くようになった
そして、キャンパスで会っても、あの『〇〇くんだ』がなくなった
誰にでも向けていたはずの笑顔が、僕にだけ向けられなくなった
「石森さん」
『…あ』
『ごめん…今ちょっと急いでて』
『またね』
そう言って、足早に去っていく
1度や2度なら気のせいだと思えた
けれど、3度目でさすがに分かった
避けられている
でも心当たりを探しても、何も思い当たらなかった
気に障ることを言った覚えもない
相談ばかりして迷惑をかけたのかとも思ったが、それなら彼女はきっと、僕が傷つかないように遠回しに伝えてくる
彼女はそういう人だ
「最近会えてないけど元気?」
送ったメッセージに既読がついたのは次の日の夜だった
返事は、その2時間後に来た
『元気だよ』
『ごめんね…ちょっと忙しくて』
顔文字も伸ばし棒も何もないシンプルな文
前は彼女から届くこともあったのに
…………
彼女がイタリアンの店でアルバイトをしていることは、前に本人から聞いていた
大学から歩いて15分ほどの小さな店
そこで2年近く働いていると、少し得意げに話してくれたのを覚えている
僕がその店の前に立ったのは閉店時刻を三十分ほど過ぎた頃だった
看板の明かりはもう落ちていて、店の中だけが薄く光っている
ガラス越しに、1人でテーブルを拭いている彼女の姿が見えた
その横顔を見て、僕は思わず足を止めた
いつもの石森さんじゃなかった
誰かの相談を聞いているときの、あの穏やかな顔でもない
小首をかしげて笑う、あのあざとい顔でもない
ただ、疲れた人の顔をしていた
しばらく迷ってから、僕は扉を叩いた
『すみません…もう閉店で…』
『…え』
扉を開けた彼女が僕を見て固まった
『〇〇くん…なんで』
「話がしたくて」
『……』
「10分でいい」
「話をしてもいいかな」
長い沈黙のあと、彼女は小さくうなずいた
…………
店の裏手にある細い路地
そこに置かれた古い木のベンチに僕たちは並んで座った
『ごめんね、こんなとこで』
「いや」
「こっちこそ急に来てごめんね」
「…」
『…』
しばらく、どちらも黙っていた
遠くで自動販売機がぶうん、と唸っている
先に口を開いたのは僕だった
「最近、僕のこと避けてる?」
『…』
「理由…聞いてもいい?」
『…避けてないよ』
「石森さん」
『…ごめん』
彼女は膝の上で手を組んで、じっとそこを見ていた
『避けてた』
「なんで?」
『…言えない』
「僕が何かした?」
『違うの』
『〇〇くんは何も悪くないの』
「じゃあ」
『璃花の問題だから』
その声が少しだけ震えていた
『あのね』
『璃花にも好きな人がいるんだ』
心臓が嫌な音を立てた
「…そうなんだ」
『うん』
『でも諦めようと思って』
「え」
『だから、ちょっとだけ距離を置きたかったの』
彼女はそう言って無理やり笑った
「なんで諦めるの?」
『…』
「石森さん、いつも言ってるじゃん」
「まだ大丈夫だと思うよ、って」
「その人、迷ってるだけだよ、って」
「なんで自分のときだけ諦めるの?」
『…だって』
『璃花には無理だもん』
「無理って」
『あのね』
彼女は、そこで初めてこちらを見た
『璃花ね、誰にでも同じことしてきたの』
『〇〇くんだけだよとか』
『そんなこと言ってくれるの、あなただけとか』
『可愛いって言われたら、ちゃんと喜ぶ顔もして』
『そういうの、得意なの』
『でもね』
彼女の声が、そこで一段落ちた
『本気になった相手には、それが全部使えないの』
「…え」
『だって今まで全部同じこと言ってきたんだもん』
『璃花が本気で「好き」って言っても』
『その人、絶対に信じてくれないでしょ?』
『いつものやつだって思われて終わりだよ』
『でも自業自得だよね』
その横顔を見ていて僕はようやく分かった
この人はずっと、そうやってきたのだ
誰にでも同じ優しさを配って
そのぶんだけ、自分の言葉の値打ちを下げて
来てくれた人の背中を押して
その恋が実るのを見届けていた
そして、もう一つ分かった
石森さんは「誰にでも優しくしてきたから、本気を信じてもらえない」と言った
僕はずっと「誰にでも優しい人だから、本気かどうか分からない」と思っていた
まったく同じ場所で、2人ともつまずいていたのだ
このまま黙っていれば、たぶん一生このままだ
彼女は誰にも言えないまま諦めて
僕は隣に座る理由を失いたくなくて黙り続ける
そんなのは、さすがに情けなさすぎる
「石森さん」
『なに?』
「1つ相談していい?」
『今?』
「今がいい」
彼女は戸惑ったような顔をしたけれど、やがて小さくうなずいた
『…いいよ』
『聞くよ?』
僕が知っているいつもの顔だった
どんなときでも相談だけは断らない人の顔
だからこそ僕は言った
「僕がずっと相談してた好きな人」
「実は石森さんのことなんだ」
『…え』
「人の話を最後まで聞く人」
「誰にでも優しくて」
「全部、石森さんのことだよ」
『…じゃあ』
『璃花がずっと応援してたのって』
「うん」
『…璃花自身のこと?』
「そういうことになるね」
自分がしてきたアドバイスの意味に、彼女はようやく気づいたようだった
両手で顔を覆って、そのまま動かなくなる
『…ずるい』
『そんなのずるいよ』
「石森さんに言われたくない」
『…いやずるいよ』
顔を覆ったまま、彼女は少しだけ笑った
「あとさ」
「信じてもらえないって言ってたけど」
「石森さん、入試の日のこと覚えてる?」
『入試?』
「僕、あの日ハンカチ落としたんだ」
「気づいてなくて、そのまま歩いてた」
『…』
「それを拾ってくれた人がいるんだ」
「今日は、ハンカチでも落ちると縁起が悪いですからって」
『…あ』
顔を覆ったままの彼女が小さく息を呑んだ
『あれ〇〇くんだったの?』
「うん」
「その時に石森さんのことが好きになった」
『嘘だぁ』
「本当だよ」
「あのとき僕たちまだ他人だったよね」
「お互い名前も知らない受験生だった」
「それでも石森さんは拾ってくれた」
『…』
「石森さんが誰にでも優しい人じゃなかったら」
「僕のハンカチは、あそこに落ちたままだったんだよ」
『…』
「だから」
「誰にでも優しいから信じてもらえないなんて、僕は思わないよ」
「僕はその優しさに助けられたんだから」
しばらくして、彼女は指の隙間から小さな声を出した
『あのね』
『璃花が諦めようとしてた人も』
『〇〇くんだよ』
「…嘘だ」
『本当だってぇ』
「石森さんだってずるいじゃん」
『…』
彼女はようやく手を下ろして、こちらを見た
『〇〇くん』
『璃花の彼氏になってくれませんか?』
「もちろん」
「僕で良ければよろしくお願いします」
『…よかった』
そう言って、彼女はまた泣いた
『ずっと好きだった人と両想いなんて嬉しい』
『こんなこと言うの、彼氏の〇〇くんだけだからね?』
その言葉は本当に僕だけに向けられた言葉だった
