愛情は『愛』ではない。
『愛』という概念ほど広大で、私たちを惑わせるものはない。そう思えて仕方がなくて、wikipediaを調べました。
広辞苑によれば、様々な語義があるようです。とても広い意味合いを持って用いられる言葉だとわかります。
親兄弟のいつくしみあう心。ひろく、人間や生物への思いやり。
男女間の愛情。恋愛。
大切にすること。かわいがること。めでること[1]。
神が、全ての人間をあまねく限りなく いつくしんでいること。アガペー(隣人愛)。
渇愛、愛着(あいじゃく)、愛欲。「十二因縁」の説明では第八支に位置づけられ、迷いの根源として否定的に見られる。
この中だと、「神が、全ての人間をあまねく限りなく いつくしんでいること」が難解に思えます。キリスト教における愛の概念だそうです。私が連想するのは、コミック『ヴィンランドサガ』の名場面。第6巻で、クヌート王子が修道士ヴィリバルドと『愛』について問答するシーンです。

修道士は、「本当の愛とは、誰を選ぶ/誰を優先するという“差別”を含まないもの」であり、自然の中にある雪・風・山・木々といった“無差別/無為”な存在こそが愛の本質だと説きます。

クヌートはこれに衝撃を受け、「この世界、神の創りたもうたものがこんなにも愛に満ちているのに、人の心にはどうして愛がないのか」と涙し、やがて民を統べる王者へと覚醒してゆく、と言う名場面です。
哲学的・神学的なエピソードですが、私には「人は特定の誰かを大切にする限り幸福になれないし、世界は理想的な状態にはならない」と読めました。好き嫌いで区別して、特定の誰かを大切にする愛情は、『愛』ではない。
これに類似する考え方は、様々な宗教や思想に見られますよね。仏教だと執着が「苦」の原因で、特定の誰かだけに限定的な愛を向けるのではなく、無差別の慈しみを広げることが理想とされる。
「嫌われる勇気」で有名になったアドラー心理学でも「共同体感覚」、すなわち「私は世界の一部であり、世界に貢献できる」という意識がカギですし、マインドフルネスにおける瞑想でも、他者の幸福を願うことで心が穏やかになる、とされています。心理学でも「利他の心」は幸福感を高める、と考えられています。
分け隔てなく利他の心を持つことは、多くの思想が支持する、幸福に生きるためのベストプラクティスのように見えます。
・・・でも、私にはどうしてもそのベストプラクティスが実践できない。深刻で特別な事情があるわけではありません。ごくありふれた、どこにでもある椅子取りゲーム。中学受験の真っ最中だからです。
長男が、まもなく中学受験の本番を迎えます。行きたい学校があって、自分から受験がしたい、と言って挑戦を始めました。好きだったゲームは全てやめて、他の何よりも熱中していたサッカークラブも休部して、何時間も何時間も勉強しています。私が人生で一番勉強してた、大学受験の頃よりもずっと多い勉強量です。1週間で、塾に行かない日は1日だけ、夕飯はお弁当が週5回。それでも、行きたい第一志望は未だ遠い。最近は良く眠れない様で、睡眠の質を改善する乳酸菌飲料がお気に入りです。
もちろん、大変なのはうちの子だけじゃありません。中学受験する子は、皆同じかそれ以上に頑張っているはず。
それでも、どうしても「この子だけは」と思ってしまうのです。仮に第一志望校の当落線上にうちの子と他の子がいたとしたら、どんな理由でもいいから、うちの子が選ばれて欲しい。「利他の心」なんて、とても持てそうにない。
愛じゃなくていい。差別でもいい。
この子の頑張りだけは、どうか報われて欲しい。
