美とは管理されているという感覚である

## 管理の隙間

庭師が剪定した枝を見て、人はそれを美しいと言う。伸びるままに任せた枝を見て、人はそれを乱雑と言う。枝そのものの形はどちらも大差ない。違うのは、そこに意志が働いたかどうかを、見る者が読み取れるかどうかだけである。

美とは対象の性質ではない。美とは、対象の背後に管理する手を感じ取る、こちらの推論である。

だから醜いものも美になりうる。腐りかけた果実の表面に、それが発酵という制御された過程の途中であると分かれば、人はそこに美を見出す。廃墟の崩れ方に、崩落が偶然ではなく風化という一つの秩序に従っていると分かれば、人はそこに美を見出す。醜さが美に転じるのは対象が変わるからではない。管理の痕跡が見えたかどうか、それだけが変わるのである。

けれどもここに一つの罠がある。

管理が完全に行き届いた瞬間、美は死ぬ。工場の製品棚、軍隊の隊列、寸分違わず刈り揃えられた芝生——これらは秩序ではあっても、多くの場合、美とは呼ばれない。管理が対象を完全に掌握し尽くしたとき、そこにはもう不安の入り込む余地がなく、不安がなければ安心もまた成立しない。安心とは、管理がないことの確認ではなく、管理が及んでいることへの確認だからである。確認すべき緊張が失われれば、安心という感覚そのものが立ち上がらない。

美が生まれるのは、管理の意志は確かに働いているが、その手が対象を最後まで掌握しきれていない、その境目のことである。

儚さが人を惹きつけるのは、時間という誰にも制御できない力に対して、形が今かろうじて秩序を保っているのを見せるからだ。花が美しいのは、散ることが決まっているからではない。散ることが決まっているにもかかわらず、今この瞬間だけは散っていない、その一点においてである。

妖しさが人を惹きつけるのも同じ構造による。それは規範という管理の枠の中に、枠にはみ出す過剰がわずかに滲んでいる状態である。完全に枠に収まれば端正になり、枠を破れば醜悪になる。妖しさはその中間、破れる寸前の膜のような場所にだけ棲んでいる。

とすれば、全体主義建築が美ではなく威圧として受け取られる理由も同じ構造から説明できる。あの対称性には管理の意志だけが露出していて、管理しきれない残余がどこにもない。あるいは、残余があってもそれは意図的に隠蔽されている。不安だけがあり、安心が生まれる余地がない。美とは、管理の意志を信頼できることから生まれるのであって、管理が完璧であることから生まれるのではない。

だから最終的に、美とは秩序そのものではなく、秩序が対象を捕らえそこねている、その隙間の幅のことだと言える。

隙間が広すぎれば混沌になる。隙間が閉じれば無機質になる。美はその両端のあいだ、管理する手と管理される対象とのあいだに生まれる、わずかな距離の中にだけ存在する。

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