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雑草の神様が教えてくれたこと

その日の午後は、曇り空の下で空気がぴたりと止まっていました。
雨が降るのか、降らないのか、はっきりしない空模様でした。

母が「野ばらの枝を少し切って、家に持って帰って接ぎ木したい」と言い出したので、私たちは家の近くの山際へ向かいました。

フェンス越しに見える一面の野ばらが、やさしい香りを微かに運んできました。

そのとき、私はふと、どうしようもなくフェンスの向こう側に行ってみたくなったのです。

手が届きそうにしなやかに咲いている野ばら

母は腕を伸ばして枝を30cmほど切りました。突然母が「痛っ」と声を上げました。痛そうにヒィーとしています。どうも指先に棘が刺さったようで赤くなっていました。

「大丈夫?」と声をかけると、母は笑って「たいしたことないよ」と言いました。
いくつになっても母は強しです。

風もなく、そっと香るように咲いていた

母も私も草花が大好きなので、足元に咲いている野の花をスマホで写真に撮りました。

足元に小さく、けなげに咲いていました。よく見ないと見つけられないくらい。まるで「ここにちゃんといるよ」と咲いているかのようでした。

あなたがちゃんとここにいるのがわかったよ。
あなたをちゃんと見つけてあげれてよかった。

見ていたら小さいころの記憶をかすかに思い出してきました。

もっともっといろんな草花を見つけたい。フェンスの向こう側には、きっと小さいころに見つけた草花達がいるに違いない。草花が森のように見えているだろう虫達は、どんなふうに動いているのだろう。

そうして、小さな子どもでもない私は突然、フェンスの向こう側へ行ってみたくなったのです。

小さいころ、まだコンクリートで整備されていない川辺で兄は魚釣りをしていました。私はその横でいろんな草花を見つけて観察していたのを思い出しました。まるで宝探しのように、野に咲く小さな花を見つけてはキラキラと見つめていました。

虫も蛙もたくさんいました。虫との出会いはドキドキするけど、懸命に生きてる小さな命を見るとそっと守ってあげたくなりました。

でも、幼い子どものことなので、そんなきれいごとだけではありませんでした。花を摘んで「好き、きらい、好き、きらい……。」と花びらをむしっていたこともありましたし、川の石をひっくり返して水の中で気持ちよさそうに暮らしていたタニシを、かわいそうに、そっと手のひらにのせて家に持ち帰ったことも。そしてその存在を忘れてしまっていたこともありました。

そういえば、小学生の夏休みの自由研究で「庭の植物」という画用紙20枚くらいにまとめたものを作りました。庭の雑草を押し花にして画用紙に貼り付けたり、食べられる雑草を母に教えてもらいながら調べて書いたことがありました。

母がその雑草を食べられるように料理してくれたのを食べた感想も書きました。今で言うと、レビュー・口コミになりますね。「あ、意外と食べれるんだ」と思ってたくさん食べました。

今考えると、あの庭の雑草を食べたときに、雑草の神様が自分の中に入ってきたのかもしれない。それで今までずっとこんなに雑草に惹かれ続けているのかもしれないな。そんなことを思います。

私が野の草花に惹かれるルーツは、幼いころの「冒険心」と「探求心」にありそうです。

あの先に何があるのか

ふとしたときに衝動を感じるきっかけは、きっと日常生活の中でいつも私の横にあるのでしょう。

ワクワクした衝動を感じることを大切にしていきたい。見えない扉を開けるとそこには新たな視点が待っていると思うのです。

私が感じた「フェンスの向こう側へ行ってみたい」という衝動は、実現こそしなかったけれど、きちんと衝動を感じる私でいられてよかったと思います。

自分の心の奥底に眠っている幼いころの私が微笑んでくれたように思うのです。


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