『アバター:ファイアー&アッシュ』の真の主人公は?
(アバター最新作の重大な #ネタバレ を含む。)
3作目も、古典的な西部劇の変奏。
『アバター:ファイヤー・アンド・アッシュ』が公開された。自分は3D吹き替えで初日鑑賞した。
歴代世界NO1を誇るシリーズの3作目。
前作同様、アメリカ人が大好きな、伝統的西部劇の変奏である。相変わらず画面は美しい。特にキャラバンの空中船はすばらしい。

新勢力として、火を崇めるマンクワン族が登場する。銃を手にし侵略者に手を貸す部族という造形は、歴史的にはアパッチ族を想起させ、映画史的には
の系譜に、ほぼ無抵抗に回収される。マンクワン族の長ヴァラン含め、ほぼ予想通りの展開になる。

新天地としての惑星パンドラ(アメリカや中東…あらゆる植民地の暗喩)
侵略者としての人間、スカイピープル(入植者の暗喩)
先住民としてのナヴィたち(アメリカ先住民やパレスチナ人等の暗喩)
文明の侵略
双方の内部対立、裏切りと和解
戦いと決着
これらはすべて、ハリウッドが何度も使い回してきた安全な語彙をVFX化しただけだ。「白い救世主だ、結局は宣教師が植民地を教化する話ではないか」という批判を完全に克服できたわけでもない。
3作目なのにまったく学ばない侵略者側のガバさは、コメディかサメ映画の領域に達しており、鑑賞後の感触は、エメリッヒの『ムーンフォール』に近い脱力感だ。
柔らかく、毒がなく、ファミリー向けの娯楽作と言える。
群像劇としては不足、スパイダーの物語としては成立。
3作目とあって、登場人物・部族・サブプロットが多い。群像劇としては、尺の割にどうしても薄くなる。
3時間17分を費やしても、キャラクターは浅く、ドラマは散漫になりがちだ。この点での物足りなさは否定できない。
ただし例外が一人いる。
スパイダーを主人公と捉え直した瞬間、この映画は別の顔を見せる。
彼のキャラクターアークは、本作で最も完成度が高く、最もエモい。

スパイダーことマイルズ・ソコロは、惑星パンドラで生まれ育った人間の少年である。
両親は人類側の兵士であり、父は前作のラスボス、クオリッチ大佐。
父がスパイダーを知らぬ間に、母を亡くし幼少期に孤児となり、地球へ帰還できず惑星パンドラに残留。人間の科学者と、ジェイクとネイティリのサリー家、ナヴィ社会の養子として育てられる。
スパイダーの身体は人間。帰属意識はナヴィ側。
どちらからも完全な仲間として属せない。
この時点で彼は、最初から境界存在(liminal being, hybrid figure)として設計されている。
1作目のジェイクが最初、身体はナヴィ、帰属意識は人間側だったことを思い出そう。ちょうど反転になっている。
本作が提示するトロッコ問題。
スパイダーがキリの能力と神エイワの助けで、ナヴィとして自由に呼吸できるようになった瞬間、彼個人は自由を失い、ナヴィ社会の生存を脅かす危険因子になる。
なお、この場面の癒しの奇跡は、キリが単為生殖(≒キリストの処女懐胎)で生まれたこと、スパイダーが長髪(≒マグダラのマリアの象徴)を持つことなど、新約聖書にもとづく宗教的色彩が濃い。その意味で、『果てしなきスカーレット』との比較も面白い。
人類=RDA=スカイピープルは、愚かで、ガバガバである。だが強欲さに限れば、彼らは正直で合理的だ。
スカイピープルがスパイダーを殺さない理由は明確だ。
彼の身体に宿った、パンドラ大気の呼吸能力に、研究する価値があるから。
もしスパイダーの呼吸の原理が解明されれば、人類は酸素マスクから解放され、パンドラ植民地化は決定的に加速する。
だから軍は、彼を「殺さない」。
スパイダーの存在は、父ジェイクに次の問いを突きつける。
愛する子を一人殺せば、惑星全体を守れるとしたら、どうする?

最も合理的な選択と、最も人間的な失敗。
論理だけで考えれば、ジェイクに解は一つしかない。
後患を断つため、スパイダーを殺す。
この結論に、ジェイク自身が到達してしまう点が重要だ。
彼はかつて、人類と戦った。だが今回は違う。
父として、惑星の守護者として、彼は子へ殺意を抱く。
スパイダーは最初、慈悲を乞う。
だがすぐに理解する。
自分が生きている限り、人類はパンドラに戻ってきて危機は続く。
彼は「災厄になりたくない」と考え、命乞いをやめ、ジェイクによる処刑を受け入れようとする。
――ここで、この映画は西部劇をやめる。
ジェイクは撃てない。
ネイティリが止めに入り、三人は泣き崩れながら抱き合う。この瞬間、ナヴィ社会の倫理としては破綻する。
だが、物語はこの決意で息を吹き返す。
境界存在・半吸血鬼の系譜と定義。
本作のキャメロン監督とシガニー・ウィーバーが初めて組んだ『エイリアン2』における少女ニュート。
小予算SFで大ヒットした『第9地区』の主人公ヴィカス。
この2者が、境界存在としてのスパイダーの原形だろう。
アメコミでは『Xメン』のX-23ローラ・キニーや、『ヘルボーイ』が思い当たる。
日本にも、人間と悪魔の間で悩む境界存在のヒーロー『デビルマン』や、『寄生獣』『NARUTO -ナルト-』『東京喰種トーキョーグール』から『チェンソーマン』まで、数多くの例がある。
だが、現代日本の観客にとっては、神話やSFよりも、とあるホラーアクションの半吸血鬼を連想させるそうだ。
今になってふと気づいたのだが、ストーリーの重要なラインの1つは『鬼滅の刃』のパクリだね。もちろんスパイダーが禰󠄀豆子。キャメロンてば、日本の漫画やアニメからパクリ過ぎ。 https://t.co/pfp2NZmAEn pic.twitter.com/n2yHoJ86OY
— ぼのぼの (@masato009) December 20, 2025
半吸血鬼(ダンピール)自体は、バルカン半島の民間伝承から来ている。
この概念がブレイクしたきっかけは、1973年のアメコミ『ブレイド』シリーズだ。これは1990年代ウェズリー・スナイプス主演の映画三部作としてヒットしたが、日本ではもっと大きな大樹に育った。
『ブレイド』や、同時期に日本でヒットした人間と悪魔の間で悩む境界存在のヒーロー『デビルマン』のイメージから、菊池秀行は1983年『吸血鬼ハンターD』シリーズを生み出した。

これらを受け、荒木飛呂彦は寄生された悲劇のヒーロー『バオー来訪者』に続き1986年『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズを開始。同シリーズは1億部以上を売り上げた。そのスピンオフ『岸辺露伴は動かない』の映像化に際しては菊池秀行の弟、菊地成孔が音楽面で多大な貢献をしているのも楽しい。
そしてこの系譜は2016年、『ジョジョ』の和風翻案『鬼滅の刃』として再び花開いた。鬼滅は全23巻でありながら2億部以上を売り上げ、映画は2作とも記録的ヒットとなっている。
境界存在の共通点は単純だ。
敵の血を引きながら、敵とは明らかに異質な存在。
敵に狙われるが、利用価値があるので殺せない。
その利用価値は、本人にとっては能力の制約である。
味方からは嫌悪あるいは忌避される。
その存在が、善悪二元論を破壊しドラマを生む。
スパイダーも同じだ。
たまたま世界にとって都合が悪い存在になってしまった彼が、アバターシリーズに新しい息を吹き込んだ。
だが――
アバターの物語は今のアメリカには刺さらない。
この映画は、残念ながら今のアメリカには1作目ほど刺さらないだろう。
西部劇的変奏に、境界存在・半吸血鬼を巡るトロッコ問題を突っ込んでしまうと、中途半端に批評家を刺激するだけだ。
今のアメリカ社会では、本作は
右からは「反軍・反文明・左派的」と撃たれ
左からは「植民地主義の再演・右派的」と撃たれる
哀しい運命にある。少なくとも、批評家の評価が高くなりようがなく、視覚効果以外の賞を獲るのは難しいだろう。本作は、
トマトメーター:低め
ポップコーンメーター:そこそこ高い
という、典型的な娯楽作評価に落ち着くことになる。
『アバター:ファイヤー・アンド・アッシュ』は、革新的な映画ではない。
だが、スパイダーを主人公として捉え直したときだけ、この映画は悲劇とそれを乗り越えようとする家族の物語として立ち上がる。
正しい選択が分かっていても、それを選べない人間性の物語。
本作クライマックスの派手な戦闘が終わっても、状況は何一つ解決していない。スパイダーの存在を知った地球は、ますます多くの軍と入植者を惑星パンドラに送るだろう。
愛する子を一人殺せば、惑星全体を守れるとしたら、どうする?
自分が生きている限り、人類はパンドラに戻ってきて危機は続く。
この2つの問いは、そのまま次作へ引き継がれる。
クオリッチ大佐も、おそらく生存しているだろう。
『ワン・バトル・アフター・アナザー』が、同じく二人の父を持つ主人公を「分断」として描き切って大絶賛されたのに対し、『アバター』の3作目はほぼ自動的に「物語の継続」を選んだ。
その選択が正しいかどうかは、まだ分からない。
だが少なくとも、第4作が本当に強い物語になりうる希望は、ここにだけ残されている、と自分は考える。

