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■■大阪を歩こう!■■③大阪城の天守台周辺を土木目線で歩く

大阪に転勤してからおよそ半月が経過しました。生まれ育った関西なのですが、知らないことが多い中、行ってきたのが、大阪のシンボルともいえる、大阪城です。大阪城と言えば、大半の人が思い浮かべるのが、豊臣秀吉が作ったお城、というイメージだと思いますが、実は、そんなに簡単な歴史では無かったりします。その後も、様々な変遷を経てきており、なかなか興味深い場所でもあるのです。そんな場所を土木目線で歩きました。

■1 大阪城の歴史

今の大阪城の天守閣は、実は「3代目」だそうです。

①初代・・・豊臣時代に建てられた天守閣。大坂夏の陣に焼失
②2代目・・・徳川秀忠時代に再建された天守閣。江戸時代に焼失
③3代目・・・昭和に入ってから再建(現存)

豊臣時代に大阪城が築城される前には、この地には石山本願寺があったとされています。織田信長との長期にわたる「石山合戦」にも耐えたお寺でした。

大阪城内にある、「石山本願寺推定地」の石碑。
瓦などが発掘されているようです。

その後、豊臣秀吉が大阪城を築城します。大規模な土木工事によってつくられた大阪城は、現在の範囲よりもかなり広範囲の城郭でした。江戸時代に入り、大阪冬の陣と夏の陣で豊臣秀頼が自害し、大阪城は焼失・落城します。その後徳川秀忠が豊臣時代の大阪城を大規模な土木工事で改変し、徳川時代のお城は、豊臣時代とは別の形になったそうで、豊臣時代の大阪城は、実は「幻のお城」なのでした。江戸時代に大阪城の天守閣が火災で焼失し、その後は天守無しの状態が長く続きました。明治時代に入ると、大阪城は旧日本軍の施設が立地するようになり、軍の拠点となりました。それと同時に、大阪城の天守閣再建の機運が高まり、今の天守閣が作られることになったのです。そんな複雑な歴史を経ている場所なのですね。

実は、大阪城はそんな場所なので、同じ場所に色んな時代の面白いものが混在しているスポットでした。そんなスポットをいくつかご紹介します。

■2 巨石が積まれた徳川時代のお城の石垣

大阪城のお堀と石垣。これは徳川時代のお城のものです。
石垣のところどころに、とんでも無く大きな石があります。

大阪城の石垣には、一部分に巨大な石が使われています。これは徳川時代にお城を再建した際に、各国の大名に大きな石を積む工事をさせたものなのだとか。重機やクレーンが無い時代に、これをどうやって運んで積んだのか?想像もつきませんね。

実物を見るとそのスケール感に驚かされます。
天守に向かう途中には、水の入っていない空堀もあります。

■3 軍都の香りを色濃く残す場所

さて、天守が見えるところまで来ました。その横には・・、
何と近代的な建築物も一緒に建っています!

天守閣の横に、何やら近代的な(レトロな)建築物が建っていますが、これはミライザ大阪という施設で、元々は、旧日本陸軍第四師団部庁舎という建物なのです。この建物が建てられたのは実は大阪城天守閣と同じ昭和6年の建築。大阪城は、再建当時陸軍の拠点でもあったわけなのです。大阪城内は、軍都としての機能が多く残されています。

大阪城公園の管理事務所の門と塀も、軍隊施設時代のものが残ります。

そして、お城の北側には・・、

砲兵工廠跡 と書かれた石碑が残っています。
そして、廃墟のように残る建物が、砲兵工廠化学分析所跡。

■4 昭和の復元天守を歩く

天守閣は、昭和6年に再建された復元天守で、当時の関一(せきはじめ)市長の発案で市民から寄付金を募って豊臣時代の天守を徳川時代の石垣の上に築くというプロジェクトが遂行されました。豊臣時代の絵図から再現した天守は、当時最新鋭の鉄骨鉄筋コンクリート造で、大林組が施工したものです。その後、1997年には平成の大改修で、耐震補強なども行われています。

SRC造の建物でもある、今の天守閣。
天守閣の上から見た大阪の街並み。インバウンドが多い展望室でした。
SRC造の店主の内部。新しい、といっても間もなく築100年を迎えます。

特筆すべきは、軍都の中に作られた復元天守なので、戦時中に米軍の空襲などを受け、被害を受けた痕跡が残ります。

この部分の石垣がずれているのは、空襲の爆撃を受けた爪痕なのだとか。

■5 天守台の地下に眠る、豊臣時代の「幻の石垣」

実は、豊臣時代の大阪城は、今の形とは全く異なっていたのですが、どんな姿だったかは謎だったそうです。発掘調査が進むにつれ、豊臣時代の石垣が発見され、2025年に地下の部分を展示するスペースが出来上がりました。徳川秀忠は、豊臣時代の大阪城を消し去るべく、大規模な盛土と石垣を作ることを命じて、土木工事を挙行、豊臣時代の石垣の一部は、今も地中に眠っているのです。

豊臣時代の石垣と現在(徳川時代)の石垣の断面図。
展示施設で見られる、地下の豊臣時代の石垣。
徳川時代の石積みと比べると、積み方が違う感じです。

■6 天守台の上にある、もう一つの「知られざる土木施設」

天守台には、今でも観光名所である天守閣と、昔の師団司令部以外に、もう一つ重要な施設が置かれました。

天守閣の脇に、厳重に柵で囲まれたスペースが。

看板にはこんなことが書かれています。

え、まさかの水道施設??

実はここ、大阪市水道局 大手前配水場という現役の水道施設なのです。

Googleマップで見ると、お城のすぐ横の緑の四角の下に、
配水池が埋まっている形です。

なんでこんなところに配水池?と思うかもしれませんが、水道施設を安価に作りたい場合は、実は配水池を標高の高いところに設置し、自然流下で市街地に流すのが効率的なのです。大阪城は上町台地の北端の高い場所に設置され、明治時代に水道ができた際にここに水道施設を作るのが好都合、ということで、この施設が最初にできたのは、明治26年(1893年)になります。この施設は、土木学会の選奨土木遺産にも認定されています。

空堀を横切る水道管は、配水施設の一部なのだとか。

実は、豊臣時代の石垣が見つかったのは、この配水施設の工事を行おうとして発掘した際の出来事だったそうです。この場所が絶えず色んな時代に土木工事を続けてきた証拠、とも言えるかもしれません。

■7 まだまだあります、天守台の地下に眠る面白いもの

もう一つ、天守台の地下にある、面白いものを見つけました。

天守台の近くにある、このモニュメントですが・・、

こちらは、1970年の大阪万博の際に、大阪城に埋められたタイムカプセルです。大阪城の隣、大阪歴史博物館に、その一つがありました。

こちらが、歴史博物館に展示されているタイムカプセルと同型のもの。

タイムカプセルの中には、EXPO70の松下館で展示されていた当時の展示物が入れられているそうで、2つあるタイムカプセルの一つは、5000年後に開封される計画なのだとか。もう一つは、2000年に開封され、その後100年ごとに開封される計画だそう。

大阪歴史博物館に書かれた説明。

こんな感じで埋設されているそうです。結構厳重に管理されていますね。

タイムカプセルの埋設図。5000年後に開封されるものは、
地下15mくらいに埋まっているようです。

パナソニックのホームページに、開封の仕方が書いてあります。書かれている内容、なかなか熱いものがあります。当時の松下電器の技術陣の本気度を感じるようなものがあります(笑)。

■8 天守台付近で見つけた、不思議スポット

何だかすごい発見が続く天守台周辺。まだまだ面白い場所がありました。

天守台の裏側に建つ、小さな祠に、いくつかの石碑が。
大林組の下請けさんの業績を讃える記念碑のようです。
復元天守を建てた作業員の記念碑でしょうか。
発起人 大林組 主任 森定松之佑 とあります。

森定松之佑さんは、このホームページにも、やはり天守閣建設時の工事主任という記載があるので、どうやら天守建設を記念する石碑のようです。

また、その近くにはこんな謎の階段があります。

石垣を貫く、使われていない謎の階段。
下から見上げるとこんな感じ。
配水池に向けてつながるので、水道施設の管理用?かと思いましたが・・、

水道の排水施設に繋がる階段?他にも通路があるのになぜ?石垣をくりぬく工事をしている・・みたいな謎があったのですが、こちらの論文に記載がありました。

この階段は、陸軍施設を避けて天守台に
アクセスできるルートだったようです

引用文献:小川・岡田(2017):大阪城大手前配水池の造形に関する史的研究 http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00902/2017/37-0089.pdf

本当に複雑な歴史がある場所、なのですね。

■終わりに

単に「大阪城を見てみたい!」と思って歩いた天守台周辺でしたが、あまりに複雑な歴史を経て、過去に何度も大規模土木工事を経て、歴史の表舞台に立っていた大阪のシンボルである場所。過去にいろんな施設に変貌したり、何と現役の水道施設があったりと、驚きの連続の探索でした。そして、5000年後に開封されるタイムカプセルが埋まる場所。5000年というと、難波宮が造営された時代よりもはるかに長いタイムスケールです。そんな壮大な夢物語までもがあるような、面白いスポットでした!

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