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自然災害のニュースを見るたび、私は「あの日の夜勤」を思い出す

「もし今、電気が消えたらどうしよう。」

災害のニュースを見るたびに、
私が思い出すのは恐怖だけではありません。

この記事は、あの夜、病院の中で
その言葉ばかりを頭の中でぐるぐる回していた、私自身の記憶です。

「大変だったね。」

災害のあと、そんな言葉をかけてもらうことがあります。
もちろん、大変でした。
でも、私がいた場所はニュースで繰り返し映し出されるような被災地ではありませんでした。

建物が倒れたわけでもない。
津波が来たわけでもない。

それでも、あの日、
病院の中には確かに「災害」がありました。

1. 「被災地じゃないから大丈夫」なんて、誰も思っていなかった

2011年3月11日、東日本大震災。
当時産婦人科に勤めていた私は、その日夜勤でした。

出勤前に自宅で大きな揺れに襲われ、
家の中を確認して夫に連絡し、
いつも通り職場へ向かいました。

夜勤は3人。
ベテラン助産師さん、新人さん、そして私。

お産が進んでいる妊婦さんはおらず、
いつもなら「今日は少し落ち着くかもね」
なんて空気が流れるような日でした。

でも、その夜は違いました。

緊急地震速報の音が、病院中に何度も何度も鳴り響く。
鳴る。揺れる。止まる。
少し安心する。
また鳴る。また揺れる。

一晩中続いたその繰り返しに、
最初のうちは毎回全員で全部屋を回っていました。

「大丈夫ですか!?」
「何かありませんか!?」

でも途中で気づきます。
このままでは仕事が回らない。

そこで患者さんにお願いをしました。
「大きく揺れた時は必ず来ます。でも、小さな揺れなら病室には行きません。不安なことがあったら、いつでも呼んでください。」

誰も怒らず、
「分かりました」
と言ってくれました。

あの日、私たちは患者さんたちに助けてもらっていたのだと思います。

走り回る時間を減らしたおかげで、
「怖いですよね」と寄り添う時間が生まれました。

立ち止まるわけにはいかなかった。
格好いい話ではありません。
立ち止まっても誰も代わってくれないからです。

そして私たちが本当に恐れていたのは、
余震ではなく、その先にある「もしも」でした。

2. 「患者さんを守る」の前に、私たちが準備していたこと

余震が続く中、病院の中には
少しずつ緊張が広がっていきました。

一番気になっていたのは、
「電気が止まったらどうしよう」でした。

非常電源はあるけれど、“ずっと”は持たない。

だから私たちは、
「今ある電気」をどう使うかを考えはじめました。

機械の充電状況を確認し、
使っていないものは全部充電する。

懐中電灯を集め、
どこに何があるかを確認する。

一つひとつは地味な作業ですが、
その積み重ねが備えでした。

点滴の速度を管理する機械も、
電気が止まれば手で計算するしかありません。

新人さんへ計算方法を説明しながら、
「いざとなったら一緒にやろうね」と話しました。

結局、その出番はありませんでした。

でも、「使わなかった知識」は「必要なかった知識」じゃない。

災害は“普段”を簡単に壊してしまいます。
だから、その時その時で、一番現実的な方法を選ぶしかありません。

「何事もなくて良かったね」
と言われるたびに、
私は少しだけ複雑な気持ちになります。

何も起きなかったのではありません。
何も起こさないように、
たくさんの人が動いていた。

ただ、それだけなのです。

3. 病院を救ったのは、医師でも看護師でもなかった

その夜、最後まで答えが出なかった問題が一つありました。

朝食です。

「え? 朝食?」
と思われるかもしれません。

でも、病院では食事も治療の一つです。

当時の病院は厨房が別の階にあり、
料理を運ぶエレベーターが地震で止まってしまっていました。

夕食は日勤スタッフが残って手伝ってくれましたが、朝は?

夜勤は3人。
翌日の日勤が何人来られるかも分からない。

階段で何十人分もの食事を運ぶ?
誰が運ぶ?
その間、患者さんは誰が見る?

考えても考えても、答えは出ませんでした。
時計を見ると、もう日付は変わっていました。

「さすがに朝までにはエレベーター、直らないよね。」
「朝食、どうしようね」

そんな話をしていた、その時でした。
時間外受診のインターホンが鳴ったのです。

一瞬、みんなで顔を見合わせました。
「こんな時間に誰だろう?」

少し身構えながら玄関へ向かうと、
立っていたのはエレベーターの保守員さんでした。

「点検に来ました。」

その一言を聞いた瞬間、
もう顔も覚えていないのですが、
とにかくイケメンに見えたことだけは、なぜか今でも覚えています。

夜中にもかかわらず病院中のエレベーターを点検して、復旧させてくれました。

患者さんへ、いつも通り朝食が届けられる。
その当たり前が戻ってきた瞬間でした。

作業を終えた保守員さんへ、
自販機で買ったコーラと、
チョコとメロンパンを渡しました。

今思えば甘いものばかりで
「もっと気の利いたものはなかったのか」
と笑ってしまいます。

商売道具の工具を抱えたその人は少し遠慮しつつも、
「実はちょうど小腹が空いてたんですよ。まだまだ回らなきゃいけないので、今日は帰れそうにないですね」
と言って受け取ってくれました。

その背中を見送りながら、ふと思ったのです。
ああ、災害の時に働いているのは、私たちだけじゃないんだ。

患者さんが安心して朝ごはんを食べられたのは、私たちが頑張ったからではありません。
夜中じゅう街を走り回っていた人がいたから。

誰にも知られず、
誰にも拍手されることもなく、
「当たり前」を取り戻してくれる人がいたからです。

4. 経験は、人を強くするんじゃない。迷い方を変える。

東日本大震災から数年後。
今度は観測史上初と言われた大雪の日。

その日も、私は夜勤でした。

出勤するときはまだ雪なんて降っておらず、
「明日の朝、降ってるかなぁ」
なんて考えながら、
真冬にもかかわらず私はいつものクロックスで出勤していました。
(今の自分なら全力で正座させて説教したい)

夜勤が始まって日付が変わる頃、
妊婦さんから「陣痛かもしれません」と電話がありました。

まだ急ぐ状況ではなく、
「天気も悪いし、もう少しご自宅で様子を見てみましょう」
といつも通りの対応をして一度電話を切りました。

でもなんとなく気になって窓の外を見ると、
病院の外は真っ白でした。
音が消えたような静かな夜でした。

その景色を見た瞬間、
震災の夜が頭をよぎりました。

机の上の情報だけじゃ足りない。

あの夜、私は「もし電気が止まってしまったら」を考え続けていました。
今回は、「もし、この人が病院に来られなかったら」を考えなくてはならないんだと気が付きました。

当直の院長に相談すると、
「だったら、救急車で来てもらえば?」とあっさり。

陣痛が始まったばかりの状況での救急車の利用はご法度だと思っていましたが、そうではありませんでした。
病院に来る手段がない=患者さんにとっては緊急事態だったのです。

道路が通れない。
車が動けない。
家族も迎えに来られない。

災害時は、「大丈夫」の意味が変わるんだ。

それを教えてくれたのは、あの震災の経験でした。

5. 「災害時でも働く人」は、病院の中だけじゃなかった

救急車をお願いした妊婦さんは、
結局、近くでお産に対応できる別の病院へ搬送されました。

その判断が一番安全だったと思えたので、ホッとしました。

一方で、その夜はもう一人、
別の妊婦さんが病院へ向かっていました。

大雪の中、
ご主人の運転で
いつもの倍以上の時間をかけて到着し、
そのまま分娩室へ。

到着から2時間もしないうちに、元気な赤ちゃんが生まれました。

立ち会い希望だったご主人はというと……
無事に病院へたどり着いて安心したのか、ソファで爆睡(笑)

「もう生まれますよ!」
と声をかけるまで起きませんでした。

でも、
「寝てる場合じゃないですよ」
とは思いませんでした。

あの雪の中、
車の中でどんどんお産が進んでいく奥さんを乗せて、
必死に運転してきたのです。

「本当に、お疲れさまでした」
という気持ちの方が大きかったのを覚えています。

でも、
「次からは救急車呼んでください」
と、付け加えることもできました。

夜が明けると、外は別世界。
窓の外は、膝近くまで積もった雪。

「雪で出勤できません」
という連絡が相次ぐ中、
近くに住む師長や事務さんが早くから来てくれました。

厨房のスタッフさんは
「帰ったらもう来られなくなるから」
と一晩病院に残ってくれていたそうです。

昼近くになると、
自宅から何時間もかけて歩いてきた仲間が
一人、また一人と現れ始めました。

もう「社畜」という言葉しか思い浮かびません。
(……もちろん、その中には私も含まれるんですけどね)

お昼前になんとか人もそろい、ようやく夜勤終了。

「やっと帰れる」
と思って更衣室で着替え、
自分の足元を見て固まりました。

そうだった。

昨日の私は、
「雪? 降る降る詐欺でしょ」
くらいの気持ちで出勤していたんだった。

……クロックス!!😱

膝まで積もった雪道を歩く覚悟を決めて
職員玄関を開けた瞬間、院長の声が響きました。

「ちぇぶさん、それで帰るの!? ダメダメダメ!!」

本気で驚いた顔をした院長はどこかへ消え、
戻ってきた手には真っ白な長靴。

「厨房に一足だけ余ってた」
と言って差し出してくれた長靴は、
どんなブランドの靴よりもありがたい一足でした。

6. 迷いながらも、最善を探すということ

学生の頃、お世話になった先輩NURSEから聞いた言葉があります。

阪神・淡路大震災を愛知で経験された方でした。

正直なところ、守るべき対象について、
数を取るべきか、質を取るべきかですごく悩んだんだよね

NICUという、重症新生児を扱う現場で働いていた時の話だそうです。
当時はまだ学生だった私には理解ができませんでした。

命に優劣なんてない。
助けられるなら、みんな助けたい。

でも、震災や大雪の夜を超え、
限られた人数で目の前の人を守ろうとした経験が、
少しずつその言葉の意味を教えてくれました。

災害では
「いつもならできる」ができなくなる。

人が足りない。
物が足りない。
時間が足りない。

その中で誰かが判断しなければいけない。
どんな判断をしても「これで良かったのか」は残る。

災害対応というと、
「冷静な判断」や
「正しい行動」
ばかりが注目されます。

でも、その判断をしているのは機械ではなく、
迷い、
怖がり、
それでも目の前の最善を探す
一人の人間です。

10年以上経った今でも、
私自身その「正しい答え」は出せていません。

ただ、迷いながらもその場に立ち続けることこそが、現場で働くということなのかもしれません。

おわりに

長靴を借りて病院をあとにし、
途中のコンビニでコーヒーブレイクをはさみ、
やっとの思いで帰宅したあの雪の日。

家の近くまで来ると、
自宅前の駐車場に、
一本だけ雪が踏み固められている“けもの道”を見つけました。

「お、誰か歩いたのかな。」

そう思ってその一本道をたどると……
最奥は我が家の玄関。

扉の前に胡坐をかいて座っている夫がいました。
片手には、いつ買ったのかも忘れていた私のみかんジュース。

「あ、おかえり。」

その一言を聞いた瞬間、思わず笑ってしまいました。

いや、もっとあるでしょ!?
「大丈夫だった?」とか、
「寒かったね」とか(笑)

あの日、病院ではたくさんの人に助けられました。

そして、

帰ってくる私のために

“けもの道”を錬成した夫がいました。

災害の記憶を思い返しても、
不思議と「怖かった」という感情だけは残っていません。
代わりに思い出すのは、人の顔です。

だから今日も私は、
災害のニュースを見るたびに、
被害の大きさだけではなく、
その裏側で働いている名前も知らない誰かのことを考えます。

きっと今日も、誰かが誰かの日常を守ってくれている。
あの日、私たちがたくさんの人に守られたように。


【このnoteを書いた"ちぇぶ"の自己紹介】

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