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映画系大学生にオススメな映画100選

4月は始まりの季節。映画界隈だと、著名な映画監督が発表した大学生にオススメな映画リストがSNSのタイムラインに並ぶ。この手の映画リストは、その監督や映画関係者がどのように映画史を捉えているのかがわかるので参考になる。と同時に自分も作ってみたくなった。大学生にオススメとはいいつつも、現在の映画の関心領域を見定める役割を担っている。そのため、ある程度の偏りがあったり、かなり思想が強めのラインナップになっている。映画も大学生向けと言ってはいるもののAVライブラリにもない日本未公開作品が混入していたりする。だが、これらの映画は私にとって映画の教科書であり、体系的に映画を学ぶことができると思っている。映画批評だけでなく映像制作にも役立つ作品を100本紹介した。

なお、30本目以降は有料となっているので、もし面白かったら続きを講読してみていただきたい。


1.SHOAH ショア(クロード・ランズマン、1985)

ホロコーストの生々しい記憶をインタビューのみで記録した9時間以上に及ぶ映画遺産『SHOAH ショア』。「死ぬまでに観たい映画1001本」にも掲載されている映画史上重要なドキュメンタリーであるが、日本ではメルカリ等で5万円以上する鑑賞困難作となっている。

この手の高額作品は意外にも大学のAVライブラリで簡単に見つかるケースが多い。大学教授のリクエストなのだろうか、紀伊国屋レーベルの高額DVDボックスも揃っていたりするので、入学してまず行くべき場所はAVライブラリ一択である。

ノート片手に、ラインナップをメモすると驚くべき顔ぶれに興奮すること間違いなしだろう。わたしは大学時代に『ゴダールの映画史』やテオ・アンゲロプロスBOX、ジャン・ルノワールなど片っ端からレアな作品を観まくっていた大学時代であった。

閑話休題、『SHOAH ショア』は確かに凄まじいドキュメンタリーではあるが、3つの点で慎重に観るべき作品だ。

①イスラエル外務省からの要請で製作された(ソースはアルノー・デプレシャン『映画を愛する君へ』)
②取材のアプローチに問題がある
③ワン・ビン『鉄西区』と比べると、9時間である必然性がない

映画批評として本作を分析し、演出として良い部分と問題のある部分を切り分けていく作業は勉強になるため、最初の1本目に本作を挙げた。

2.泥酔夢( バスビー・バークレー&レイ・エンライト,1934 )

ミュージカル映画で、万華鏡のようにマスゲームをしている群れを撮るショットを観たことないだろうか?

これはバズビー・バークレーが開発した「バークレー・ショット」であり、現代ミュージカル映画でも頻繁に使用される手法だ。ベースは『四十二番街』のバークレー・ショットとなっているのだが、バズビー・バークレーはそれ以外にもユニークなマスゲームを考案している。特に『泥酔夢』における、無数の女性の顔パネルが動く場面には腰が抜けるだろう。

そして、いかに現代ミュージカル映画が安易なバークレー・ショットに頼ってしまっているのかがわかるであろう。『四十二番街』とセットで触れるとミュージカル映画に対する解像度が高まる。

3.不思議の国のアリス(エドウィン・S・ポーター、1910)

アンドレ・バザンは「映画とは何か」の中で、映画と演劇の差について論じていたが、最もわかりやすい作品はエドウィン・S・ポーターのサイレント映画『不思議の国のアリス』である。映画の登場によって、物理的制約が緩和されたのだ。ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」では、身体の大きさが変化する場面がある。演劇の場合、人間のサイズを変えることはできないため、背景の縮尺を変化させることで、擬似的に身体の変化を表現するしかできない。一方で、映画は画の重ね合わせによって人間そのもののサイズを変化させることができる。それもあってか「不思議の国のアリス」は、長編アニメが社会的地位を得たり、CG、3Dの登場と映画における技術発展のタイミングで映画化される傾向がある。「映画とは何か」を考える上で、最重要な題材と言えるのである。

また、本作を序盤に入れたのは、大学のレポート/卒論の題材としても取っつきやすいからである。映画について書く際に、類似の作品を比較・分析する必要がある。童話を題材とした作品は比較分析の入門といえる。

たとえば、ディズニーアニメ版『白雪姫』は原作とは大きく異なる。原作に近い東ドイツDEFA版や最近公開された実写版と比較する。ディズニーアニメ版が原作のように扱われてしまう問題に踏み込んでみるといった様々なアプローチができるのである。誰しもが知っているような話でも、意外と掘れば掘るほど奥深い世界、それが「童話映画」なのだ。

4.Grand Theft Hamlet(サム・クレイン、2024)

カメラを持って映画を撮る時代は変わりつつある。発展途上故にブルーオーシャンな世界を覗いてみるのも良いかもしれない。

『Grand Theft Hamlet』はゲームソフト「グランド・セフト・オート」の中で撮影されたドキュメンタリーだ。コロナ禍で仕事を失った役者が、ゲームの中でシェイクスピア「ハムレット」を公演しようとオーディションを行う。犯罪をするのが当たり前なゲームの世界で演劇はできるのかといったユニークな試みが意外にも「ハムレット」の世界と共鳴する不思議な感覚に衝撃を受けるだろう。

ドキュメンタリー映画の世界では『バーチャルで出会った僕ら』『ニッツ・アイランド 非人間のレポート』『イベリン 彼が生きた証』と、メタバースや仮想空間内で映画を作るアプローチが模索されている。日本でもVTuber文化が盛り上がり、実体/仮想の垣根を超えたコンテンツが作られている中で、この新しい技術を使ってどんな映画が作れるか模索することは重要だろう。

5.search/#サーチ2(ニック・ジョンソ&ウィル・メリック、2023)

スマホが登場して20年近く経とうとしているが、いまだにスマホ画面を映画に活用できていない気がしてならない。多くの場合、顔をアップにした自撮り画面とSNS的騒々しさ表現に留まってしまい、MVやYouTube動画なんかと比べるとずいぶん遅れていると思う。

個人的にスマホ画面の可能性を広げた作品に『search/#サーチ2』がある。全編PC画面で描いた作品の第二弾であるが、今回はサスペンス要素としてスマホ画面が活用されている。縦画面ゆえの視野の狭さが恐怖を引き立てるのだ。映画撮影用のカメラ以外のデバイスによる表現技法の幅広さもあり、映画の教科書として最適だ。

6.乱れ雲(成瀬巳喜男、1967)

正直、成瀬巳喜男映画は勉強感が強くて「面白い」とはかけ離れたところにいる監督だと思っている。苦手な監督ではあるのだが『乱れ雲』は理論と面白さが奇跡的に噛み合っている作品だ。

交通事故によって夫を失った女の前に、轢き殺した男が現れる。現場検証の末、彼は無罪となるのだが、罪意識から彼女に尽くそうとする。本作は「手続き」を通じて「過去/罪」の分離と結合を鮮やかに描いている。警察の調査によって「過去」は整理され「罪」と分離させたにもかかわらず、男が金を振り込む手続きによって「過去/罪」が結合する。罪を清算したく追う男、過去を忘却したく逃げる女の関係性がバカンス日和の陽光に翳り差し込む。

映画における行動分析するのにもってこいだ。

7.Eephus(カーソン・ランド、2024)

ツッコミどころのある映画は本質で観るとツッコむ余地がないほどに堅牢であったりする。数学科で群論あたりを専門にしている方は、一見すると異なるものが本質的に同一であったり、反対に同一に思えるものが全く別なものであることを学んだりする。映画にもそういう世界がある。

『Eephus』は、おっさんが草野球をしているだけの映画であるが、もはや野球のルールが消滅したような世界へと迷い込む。それでも、本作には「野球」がある。何が『Eephus』を野球映画たらしめるのか?それを考えることは重要なのかもしれない。フレデリック・ワイズマンがカメオ出演しているところに鍵がある。

8.幸福の設計(ジャック・ベッケル、1946)

映画において小道具は重要である。たとえば、宝くじについて考えてみよう。『幸福の設計』では、靴から出土した80万フランの当たりくじを拾い夢を膨らませる夫婦が主人公となる。ただ、宝くじは換金しなければただの紙切れである。宝くじを持っているだけでは幸福は確定していないのだ。幸福の不確定装置として機能する宝くじがなくなったことで起こるドタバタ劇。幸福はどこで確定するのか、不確定が故に何が起こるのかに着目して観てほしい。

9.結婚五年目(プレストン・スタージェス、1942)

TikTokやYouTubeショートなど短い動画コンテンツが増えている。短い時間に多くの情報を詰め込もうと早口、高速展開な動画が生み出されているが、そんな時代だからこそ、プレストン・スタージェス『結婚五年目』のオープニングを観てほしい。訳ありな花嫁が結婚式に向かう大団円がセリフなしで語られる。スクリューボールどころではない剛速球なアクションは、本編始まっても失速することなく駆け抜けていく。まさしくトムとジェリーだ。

10.耳をすませば(近藤喜文、1995)

映画はどこを舞台にするかといった空間が重要となる。そして映画をたくさん観ていると、「団地」がユニークな舞台装置として機能していることに気づかされる。フランスの場合、パリ郊外のバンリューを舞台にした映画が定期的に作られており、パリ市内を舞台にした映画では移民が物語の外側へ追い出されているようにみえる中、バンリューを舞台にした作品ではそういった移民の声を掬いあげているように思える。

日本の「団地」はどうだろうか。『耳をすませば』を例にする。一見すると中学生のアンニュイな日常を描いた作品だが、月島雫の住む団地は仄暗く息苦しさを感じるものがある。この空間の対岸にある古道具屋「地球屋」と対比することで何か見えてこないだろうか。

11.ストップ・メイキング・センス(ジョナサン・デミ、1984)

ライブをと撮った映像は「映画」になり得るのか?

そんな疑問を抱く時がある。そんな問いに答えてくれるのがジョナサン・デミ『ストップ・メイキング・センス』である。がらんとした空間に、デイヴィッド・バーンが現れ「Psycho Killer」を歌う。一曲ごとに演者が増えていき「Life During Wartime」で絶頂を向かえ、第二幕へとシフトする。一見すると、ひとつの公演を撮ったものに思えるが、本作は3回の公演を繋ぎ合わせた作品である。

つまり、厳密には存在しないライブなのだ。時間の魔法によって生み出された高揚感溢れるライブ。そして、観客/演者の関係とは別支店の眼差しにより本作は確かに「映画」となった。トーキング・ヘッズのことを知らなくとも、編集の映画として一見の価値がある作品だ。

12.惑星ソラリス(アンドレイ・タルコフスキー、1972)

SF映画の金字塔。最近、コミカライズ版が出版されたことから再注目されている。人間心理における過去が再生産されて痛みを帯びてくる様子を具象化した本作もまた様々な映画に影響を与えている。意外なところでは『ファーストキス 1ST KISS』の高速道路のシーンで引用することによって、映画の本質と結びつけられている。モスフィルムの公式YouTubeチャンネルにて、高画質な『惑星ソラリス』を楽しめるので、お金がない学生にもオススメだ。

13.サドのための絶叫(ギー・ドゥボール、1952)

映画を深く学ぶためにはジル・ドゥルーズを避けては通れないらしい。しかし、残念ながら私はドゥルーズのことは知らない。代わりにギー・ドゥボールを紹介する。ギー・ドゥボールは「スペクタクルの社会」において、映画を始めとする「スペクタクル」が社会に与える影響に疑問を呈した。その実践としていくつかの映画を撮っている。その中でも『サドのための絶叫』は映画に対する批判的な眼差しを鋭利に画へ焼き付けている。断片的な語りの乗った白画面と、無音の黒画面が交互に展開され、最終的には24分もの沈黙が続くといった内容。この手の作品ではデレク・ジャーマン『BLUE ブルー』が有名だが、ギー・ドゥボールは白画面と黒画面を組み合わせることで「無」にアクションを与える離れ業をやっている。

ギー・ドゥボールの映画におけるスペクタクル性批判を念頭に入れることでジガ・ヴェルトフ時代のゴダール映画への理解が進むため、一度触れると良いことがある。

ドゥボール作品は『かなり短い時間単位内での何人かの人物の通過について』『われわれは夜に彷徨い歩こう、そしてすべてが火で焼き尽くされんことを』とカッコいいタイトルの作品が多いのもあり一押しである。

14.湖の見知らぬ男(アラン・ギロディ、2013)

アラン・ギロディ作品を観ると、人間を介した影響としての空間が意識される。特に「森」の扱いが興味深い。『湖の見知らぬ男』では、ハッテン場を舞台に、男を狩る眼差しが映し出される。森の中で情事が育まれるのだが、他者の眼差しによって阻害されることがある。本能が蠢く場でありながら、他者が干渉できる空間として「森」が扱われているのである。

「セックスをポルノグラフから解放したい」

と語るアラン・ギロディは、『キング・オブ・エスケープ』『ノーバディーズ・ヒーロー』そして『ミゼリコルディア』と一貫して森や寝室といったもん本能的空間に他者を介在させるスタイルを貫いてきた。行為を阻害し続けることで逆説的にセックスをポルノグラフから解放しようとする試みを実践しているのである。

15.仮面/ペルソナ(イングマール・ベルイマン、1967)

唯一無二な難解映画ほど多くの作品に応用される傾向がある。イングマール・ベルイマン『仮面/ペルソナ』は静なる存在と動なる存在の対話により成立する物語であるが、本質は内なる他者との対話である。このギミックは『ファイト・クラブ』にて引用されていることで知られているが、直接的な影響の横においても『リズと青い鳥』『敵』『けものがいる』などといった作品で見かける頻出構造といえる。ベルイマンは『第七の封印』や『野いちご』など他にも有名な作品があるが、一番多くの映画に影響を与えたのはこの『仮面/ペルソナ』ではないだろうか?

16.ヴィデオドローム(デヴィッド・クローネンバーグ、1983)

デヴィッド・クローネンバーグのSF映画は強烈なガジェットに気を囚われている内に迷宮へ突き落とされる感覚がある。しかし、抽象的な感覚を直接的に描いていることを意識することで、面白い知見を得ることができる。

『ヴィデオドローム』の場合、メディアを扱うテレビ局の社長が強烈な映像を探し求める中で自らの肉体に異変が生じるといったもの。ビデオテープを腹へインストールすることにより、腹から銃が生み出され、テロリストとして影響を与えていく様は、SNSを観る中で陰謀論に染まったり、過激な発言をするようになる現代。つまり、メディアによって暴力がインストールされ、行使してしまう様を象徴しているといえる。

17.それいけ!アンパンマン ブラックノーズと魔法の歌(矢野博之、2010)

脚本を勉強したいのであれば、幼児向け映画のストイックさに着目する必要がある。幼児の集中力は刹那。少しでもダレればそっぽを向かれてしまう中、多くのキャラクターを捌き、大冒険、スペクタクルを完結させる必要がある。

アンパンマン映画史上、最も凶悪なボスといわれているブラックノーズ回は、徹底的にアンパンマンサイドを追い詰めカタルシスを生み出す構図となっている。鮮やかに、アンパンマンサイドのリソースが奪われていく様の恐怖。絶望的状況からの大逆転を50分で描き切ってしまう脚本に学ぶところがある。

いかにハリウッド大作が鈍重な脚本であるかがよくわかるだろう。

18.ヴァン・ゴッホ(モーリス・ピアラ、1991)

フィンセント・ファン・ゴッホの晩年を描いたモーリス・ピアラの『ヴァン・ゴッホ』は、数多あるゴッホ映画の中でも異質なものとなっている。通常、画家の人生を描いた作品では、その画家がどのようなプロセスで絵を完成させるのかを直接的に描いている。しかし、本作は省略によって描いている。たとえば、「ピアノを弾くマルグリット・ガシェ」を描く場面では、カメラはキャンバスを捉えない。ゴッホとマルグリット・ガシェの対話、視線に着目し、作品の外側にある世界へ我々を誘うのである。画家を扱った映画は、Wikipedia的、事象を羅列していく作品が少なくないのだが、本作は絵画作品と外側の世界との関係を意識させる名作だろう。

19.砂時計(ヴォイチェフ・イエジー・ハス、1973)

シュルレアリスムは、それに没頭しているひとびとに対して、好きなときにそれを放棄することをゆるさない。どう考えても、それは麻薬のように精神にはたらきかけるものにちがいない。麻薬と同様、それはある種の欲求状態をつくりだすわけだし、おそるべき叛逆へと人間をかりたてることもできる。さらに、おのぞみであれば、それはいかにも人工的な楽園のひとつである。

アンドレ・ブルトン「シュルレアリスム宣言」より引用

悪夢的世界を描いた監督といえばデヴィッド・リンチが有名であり、本来であれば『イレイザーヘッド』や『マルホランド・ドライブ』などといった作品をいれるべきだとは思うが、個人的にこの手の映画の入門として『砂時計』を推したい。

理由は明白で、悪夢におけるシームレスな違和感の遷移をハッキリと目撃することができるからである。

列車から降り、霧に満ちた空間を抜け、サナトリウムへと辿り着く。横移動で、建物を移動する主人公を捉えていくのだが、屋外にもかかわらず、ヌルっとホテルの廊下を彷彿とさせる空間へと辿り着く。サナトリウムは至る所に穴が空いており、それらは主人公の様々な記憶へと繋がっていく。

20.I Like Movies アイ・ライク・ムービーズ(チャンドラー・レバック、2022)

シネフィルに一歩足を突っ込むと誰しもが映画や映画ビジネスをわかった気になってしまう。その態度を自覚しなければ社会不適合者となる。この状況を赤裸々に描いた『I Like Movies アイ・ライク・ムービーズ』は反面教師として観たほうが良い。

映画に詳しいからレンタルビデオ屋で大活躍できるわけではない。ビジネスとして通俗な映画を売る必要だって出てくるのだ。高尚なアート映画を客にすすめようとしているけれど、それってただのエゴで相手に寄り添っていないのでは。そういった痛ましいシネフィル姿を観て我がふりを直す必要がある。

21.見知らぬ乗客(アルフレッド・ヒッチコック、1951)

ヒッチコックはサスペンス映画の巨匠である。本作もサスペンス映画ではあるが、同時にあらゆるテニス映画の頂点に君臨する手汗握る試合が描かれている異色作だ。ラリー発生時に観客の視線が動く中、ひとりだけ正面を凝視する不気味さによってサスペンスとスポーツ映画を両立させていることからわかる通り、惨事が起こるか否かの宙吊りのサスペンスとラリーがどこまで続くのかといったスポーツにおけるハラハラドキドキを結び付けているのだ。終盤の試合を早く終わらせようとするも、沼って激戦試合となってしまう場面における緊迫感は他のテニス映画でも観ることのできない強烈さを持っている。

22.SSHTOORRTY(マイケル・スノウ、2005)

『波長』で知られるマイケル・スノウは、映像を圧縮させる独特な実験映画をいくつか発表している。2003年には、『波長』を15分に短縮させた『WVLNT ("Wavelength For Those Who Don't Have the Time")』を制作しているわけだが、ここでは『SSHTOORRTY』を紹介したい。幾重にも層をなした1分の映像が反復させることで、段々と映画の構造がわかる本作は認知の限界を意識させる。映画は1度観ただけでは、すべてを追うことは不可能であることを証明している。

23.ヌーヴェルヴァーグ(ジャン=リュック・ゴダール、1990)

工場を巡回するシーンで「国家の姿は凡人の目には見えない。国家には倫理がない。なぜなら官僚や政治家をそそのかすからだ。場合によっては国家を強制する事さえある。不信感、努力欲、復讐心をもつようにと国家はこうしたものを罰することがない。それどころか反対に報酬を与えて評価することが多い。」と語られる。

ゴダールは映画の中で展開される運動を通じて国家と個の関係を紐解いた。一般的にジャン=リュック・ゴダール作品はハイコンテクストで難解なのだが、本作は比較的わかりやすいので入門としてオススメだ。

23.デイヴィッド・ホルツマンの日記(ジム・マクブライド、1967)

元祖YouTuberともいえる、自分語りをテーマにした内容。映画史には日記映画やシネマ・ヴェリテなどといったドキュメンタリージャンルがあり、ジョナス・メカスやジャン・ルーシュが紹介されるケースが多いのだが、私はジム・マクブライド『デイヴィッド・ホルツマンの日記』を紹介したいところ。ゴダールかぶれな青年がキザな佇まいでカメラに向かって語り掛ける様はYouTube動画そのものだろう。ちなみに、ジム・マクブライドはゴダール好きで知られており、『勝手にしやがれ』のリメイク『ブレスレス』をリチャード・ギア主演で撮っている。『勝手にしやがれ』は過大評価されている作品だと思っている一方で『ブレスレス』は過小評価されている気がする。捨てる/拾うアクションで運命を手繰り寄せる様が見事なリメイクなので、こちらも機会があれば観てほしい。

24.ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地(シャンタル・アケルマン、1975)

BFIの映画史上最高の作品に選出されたことで話題となった作品。主婦のルーティンワークを提示する中で少しずつほころびが見えていき、やがてある事件へと繋がっていく。ドライでありながら洗練された画は、一目で唯一無二のサインを我々の心に刻むであろう。映画における反復の役割に気づかせてくれる一本である。

25.ブレインウォッシュ セックス-カメラ-パワー(ニナ・メンケス、2022)

映画とジェンダーを考える上で最重要な論文映画はこれだ。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』や『ファントム・スレッド』など、名作だといわれる作品に存在する男性の眼差し(male gaze)の問題点を指摘している。無意識に受容してしまっている男性の眼差しの加害性からジェンダー論を考えてみたり、レポートのテーマにしてみるとよいだろう。

26.エイリアン(リドリースコット、1979)

SFホラーの金字塔でありながら、末端労働者の生々しい状況を描いたお仕事映画としても洗練されている。前者で観るのなら、ノストロモ号の造形、ライティングの観点からホラー演出を分析すると発見があるだろう。後者で観るのなら、序盤からエイリアンの猛威が発揮される中盤までのやり取りに着目すると発見がある。それぞれが役割を全うしようとする中で、企業の理論に絡み取られてしまう切なさに涙するだろう。

27.東京物語(小津安二郎、1953)

小津安二郎の名作『東京物語』はホラー映画なのではと思っている。我々の内面を見透かしたような東山千栄子や原節子の悟り切った眼差しにゾクッとさせられるものがある。都会のドライな人間関係を介した冷たさと情緒的なやり取りによって生み出される社会に着目したいところ。

28.ワイルド・スタイル(チャーリー・エーハーン、1983)

いまやヒップホップは日本のメジャー音楽ジャンルとして社会的地位を得ている。ボカロ、アニソン、VTuber楽曲などで、ヒップホップの要素が多く取り入れられているのだが、そのルーツを知ると、今との違いに驚かされるかもしれない。1980年代、ニューヨーク、サウス・ブロンクスの廃墟でグラフィック、ラップ、ダンスなどを織り交ぜたヒップホップ誕生しようとしていた。黎明期を描いた本作はヒップホップファン必観である。

29.Electra, My Love(ヤンチョー・ミクローシュ、1974)

長回し映画で知られるハンガリーの異才ヤンチョー・ミクローシュの『Electra, My Love』は『ミッドサマー』に影響を与えたのではと囁かれる場面が散見される。それを抜きにしても映画における長回しの儀式的役割が強調されている。複雑なマスゲームをコントロールするカメラワークの妙もあり、ヤンチョー・ミクローシュ作品を観るならこれが一番だ。

30.清子の場合(出光真子、1989)

出光興産創業者である出光佐三の四女として生まれた彼女は早稲田大学第一文学部卒業後にニューヨークへ留学。帰国後、一時執筆活動を送っていたが、再びアメリカへと渡り美術家のサム・フランシスと結婚。育児をするなかで創作意欲が掻き立てられ、映像作品を制作するようになる。

その集大成が『清子の場合』である。清子は部屋で絵を描こうとしている。違和感に気づき、紙をめくるとテレビが出現する。そして、心象世界が映し出される。ここでは明確に現実を清子の心理、テレビを過去として表現している。テレビから両親が映し出され27歳にもなって結婚しない清子に対し叱責をぶつける様が描かれる。その言葉に彼女は苦しむ。「絵なんか子育てが終わってからでいいのよ」と圧をかけられ、結婚するものの、個人としてのアイデンティティは剥奪され、社会規範としての「母親」に収まることを強要される。夫から、家事・子育てがなっていないことを怒られ、反論しようものならヒステリックと親を呼ばれる始末。テレビに映される強烈な過去を前に、彼女の心理はボロボロとなっていく。無数に散らばる酒瓶、テレビにまたがり、酒に溺れながら過去と対峙し、終いには自殺を遂げる。

24分と短い作品でありながらも、『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』を彷彿とさせる壊れゆく女性の肖像をパワフルに描いた作品であり、単にテレビを2つの領域に分ける媒体としてだけでなく社会規範を映す鏡としても扱われていたことに興奮したのであった。

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