『メガロポリス』アベル・ガンスに憧れるフランシス・フォード・コッポラ
フランシス・フォード・コッポラが40年かけて構想した『メガロポリス』が完成した。カンヌ国際映画祭で上映された時、役者と思われる人物が銀幕のアダム・ドライバーと対話を始めるパフォーマンスを行ったことで話題となったが、アメリカで公開されると酷評の嵐となり、第45回ゴールデンラズベリー賞最低監督賞を受賞した。
予告編を観ると、『スカイキャプテン ワールド・オブ・トゥモロー』を彷彿とさせる痛々しいCGに頭を抱えた。また、グランドシネマサンシャイン 池袋で行われたパフォーマンス付き先行上映の感想をXで確認すると、映画の感想よりもワインが美味しかった旨が多数投稿されていた。実際に足を運んだ知り合いによれば、パフォーマンスは一瞬だけであり、タートル・トークのようなものだったらしい。これにはガッカリした。恐らくフランシス・フォード・コッポラは、かつて彼が配給したハンス=ユルゲン・ジーバーベルク『ヒトラー、あるいはドイツ映画』が演劇の拡張としての映画を探求したのに対し、映画から演劇へ眼差しを向けることで一回性の体験をもたらそうとしたのかもしれない。しかし、その擬似インタラクティブなパフォーマンスはVTuberのライブに行ったことがある者からすれば旧時代的なアプローチに過ぎないであろう。
たとえば、川崎チネチッタのスクリーンを貸し切って行われた名取さな「さなのばくたん。 -ハロー・マイ・バースデイ-」では、
「自分の会場がわからない方?」
「8番スクリーンが多いようだね」
「9番スクリーンの方、おいおいなんで8番スクリーンの人がペンライト降っているんだよ」
とスクリーンに対して彼女がコールを行うことで、分断されたスクリーンを同期させている。
SHIGURE UI 5th Anniversary Live “masterpiece”では、イラストレーター兼VTuberである「しぐれうい」の9さいの姿と観客がインタラクティブな対話をしているような場面で、実体としての「しぐれうい」が登場する演出がある。我々が対話をしていたのは録画なのか?本人が同時に声をあてているのか虚実曖昧となる面白さがある。
ピーナッツくん「BloodBagBrainBomb」でも、3DCGから2D、着ぐるみへと様々な形態に切り替えながらライブを盛り上げており、スクリーンに投影された虚像と実体を織り交ぜた一回性のスペクタクルをVTuber業界は模索している。これを踏まえると、単にアダム・ドライバー演じるカエサル・カティリナにインタビューするだけのパフォーマンスは出オチに思えてしまう。
このような事前情報から一抹の不安を抱えてTOHOシネマズ新宿のIMAX上映に足を運んだ。これが意外なことに面白く観た。確かにドナルド・トランプやイーロン・マスク、日本の政治家のことが脳裏に浮かび、本作に揺蕩う理想と現実には腹が立ってくるものがある。しかし、構想40年かけて辿り着いた答えが現実とシンクロする解像度の高さ、そして何よりも現代映画が忘れてしまったであろう映像への探求により生まれる醜悪でありながら魅力的な美学に惚れ込んだ。今回は、有料記事としてフランシス・フォード・コッポラ『メガロポリス』について掘り下げていく。
1.メガロンって何?
アメリカの大都市、貧富の格差が広がる中、天才建築家であるカエサル・カティリナは新素材メガロンを使った画期的な発明を思いついたようだ。しかし、その実態はつかめない。映画を観ていると、どうやら透明な服を作ることができるらしい。また、動く歩道にも役に立つらしい。しかし、それが画期的な素材のようには思えない。抽象的なものとして世界に概念が漂っているように思える。
人びとが「メガロンって何?」と疑問を抱くように我々の脳裏にもクエスチョンマークが浮かぶ。まさしくアイン・ランド「肩をすくめるアトラス」におけるジョン・ゴールドに近い存在として映画を支配する。凋落しつつも、いけいけドンドン微かな希望に向かって突き進むが社会は荒廃していく様を長々と描いた「肩をすくめるアトラス」に近いフラストレーションを本作は完全に再現している。映画を観終えた時、アメリカはイランに攻撃し、安野たかひろのポストがシステム的なことしか考えられておらず人間に歩み寄っていないと非難された世界が広がっていたが、まさしく政治家と市民との乖離、市民が介入できず、政治家の脳裏で世界が回っている醜悪さを生々しく描いた作品に仕上がっていた。
メガロンは結局なにかはよくわからない。しかし、カエサル・カティリナの脳裏ではすべてがわかっているらしく、迷いなく行使される。市井ではデモが行われているが、その影響は交わることがなく、政治上の交わりが彼に影響をもたらす。市民の反撃も、新たなる力でどうとでもなる醜悪さをここまで見事に、それも悪趣味な色彩の中で再現されていることに圧倒されるものがある。かつて、『地獄の黙示録』で人間の悪を誰ひとり達することのできない領域にまで導いた監督だけのことはある。
2.アベル・ガンスないしハンス=ユルゲン・ジーバーベルクに憧れて
本作は一般的に『来るべき世界』やアイン・ランド原作の『摩天楼』を軸に語られることが多い。確かにこれはフランシス・フォード・コッポラがLetterboxdに作成したリスト"20 Films that Inspired Megalopolis"にも掲載されているので、当然の流れだといえる。
来るべき世界(1936、ウィリアム・キャメロン・メンジース)
カビリア(1914、ジョヴァンニ・パストローネ)
美女と野獣(1946、ジャン・コクトー)
アイズ ワイド シャット(1999、スタンリー・キューブリック)
紅夢(1991、チャン・イーモウ)
市民ケーン(1941、オーソン・ウェルズ)
シーザーとクレオパトラ(1945、ガブリエル・パスカル)
透明人間(1933、 ジェイムズ・ホエール)
摩天楼(1949、キング・ヴィダー)
我等の生涯の最良の年(1946、ウィリアム・ワイラー)
影なき狙撃者(1962、ジョン・フランケンハイマー)
スパルタカス(1960、スタンリー・キューブリック)
赤い靴(1948、エメリック・プレスバーガー&マイケル・パウエル)
仮面/ペルソナ(1966、イングマール・ベルイマン)
ピグマリオン(1938、レスリー・ハワード&アンソニー・アスキス)
ベン・ハー(1959、ウィリアム・ワイラー)
未来は今(1995、ジョエル・コーエン)
片目のジャック(1961、マーロン・ブランド)
恋する惑星(1995、ウォン・カーウァイ)
タイムコード(2000、マイク・フィギス)
だが、映画監督が語る自作に影響の与えた作品リストって信頼できない語り手のような側面がある。このリストには偏りがあるような気がする。史劇スペクタクルが多いのはまだよいとして、『アイズ ワイド シャット』と『仮面/ペルソナ』は同義に等しく、他に入る作品があるように思える。そして、あれだけ露骨な刻印を入れておきながら、このリストでは言及されていない監督がふたり存在する。
ひとり目はアベル・ガンスである。
ケヴィン・ブラウンロウが「サイレント映画の黄金時代」の中でレオナルド・ダ・ヴィンチに匹敵する真のマスターだと語られている。医者の息子として生まれたアベル・ガンス。「絵描きや物書きや役者は道徳的にいかがわしい軽薄才子である」と考えていた父との確執の末に映画監督となった。博識であり、学校でも一番の成績でありながら自ら学校新聞を発刊し連載や物語を次々と盛り込んでいき学内でも人気者であった。弁護士になるよう命令する父親に従い、17歳で弁護士に就くものの、ある日ブリュッセルで俳優募集の記事を目にし、仮病してベルギーへと渡った。貧しい生活の中演劇界、映画界を横断し、当時としては死刑宣告に近かった肺結核を自力で直しやがて映画監督として輝いた。そんな彼の作品は、内容そっちのけで映像は何ができるのかについて探求している監督である。
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