ジハード第2話「はじまり」
3ヶ月前
機体のドアが開いた瞬間、モワッとした空気が頬に触れた。
思っていたよりも重たい。インドネシアの乾いた熱とは違う、まとわりつくような湿った熱だ。
僕は生まれて初めての日本の空気を味わいたくてめいいっぱい吸い込んだ。
肺が暖かな空気で満たされるのを感じながら人の流れに乗って通路を進む。誰も騒がない。靴音とキャリーケースの音、そして照明だけが、規則正しく続いている。
「Welcome to Japan」「ようこそ、日本へ」
英語のアナウンスのあとに、日本語が重なる。
速い。
日本に憧れ、いつか日本に行くことを夢見てひたすらに勉強してきた。分かるはずの言葉が、少しだけ理解の先をゆく。
入国審査の列に並ぶ。前の人との間隔、進む速度、すべてが揃っている。
整っている。無駄がない。
その、どこか懐かしい感覚が胸の奥をそっと照らした。
子どもの頃、父の工場で聞いた音を思い出す。
プレス機が落ちる音。ベルトコンベアの唸り。
決して静かではないのに、リズミカルで不思議と心が静まる感覚だった。
だけど、いつもそうだったわけではない。
ある日、ラインが止まったことがあった。
甲高い金属音が響いたかと思うと、すべての動きが途切れた。
何が起きたのか分からず、作業員たちは周囲を見回し、現場にざわめきが広がる。
父は何も言わず、機械の前にしゃがみ込んだ。
油で黒くなった手で、ボルトを一本ずつ確かめていく。
汗が額から落ちる。誰かが直さなければ、工場は止まったままだ。
やがて、小さく息を吐いた。
緩んでいたのは、ほんのわずか一本のボルトだった。
それだけで、ラインは止まる。
それだけで、人の手が止まる。
再び機械が動き出したとき、父は何事もなかったように立ち上がると、真っ黒な手で汗を拭うとゆっくりとしゃがみ僕と目線を合わせて
「いいかファジャール。大きくなったら人の役に立つことをしなさい」
といった。
指に沿うように顔には黒い筋が残っていて、それが戦いの跡だとでもいいたそうな誇らしさを醸し出していた。
もし、最初から分かっていれば。
もし、止まる前に気づけていれば。
誰かの負担は、減らせたはずだ。
そのときからだった。
目に見えないところで流れている「情報」を掴めたら、と考えるようになったのは。
知ることは、力になる。
入国審査の列に並ぶ。前の人との間隔、進む速度、ここでもすべてが揃っている。
「Purpose of visit?」
「Work」
「……滞在目的は?」
日本語に切り替わる。話すスピードは、教室で聞くよりも少し速い。
「仕事です」
審査官が顔を上げた。
「どんな仕事ですか?」
一瞬だけ言葉を選ぶ。
「工場の機械が壊れる前に、気づけるようにする仕事です」
審査官の眉がわずかに動く。
「壊れる前に?」
「はい。機械の動きや温度の変化を見て、異常になる手前の情報を拾います。そういうシステムを作る仕事です」
審査官は僕を見たまま、何も言わない。
やがて、小さく頷いた。
スタンプが押される。ドンとどっしりとした、しかし乾いた音。
「日本へようこそ」
短いやり取りではあるが、その乾いた音が、始まりを告げる鐘のように胸の奥で響いていた。
ゲートを抜けると、無機質な銀の通路がどこまでも続いていた。
案内表示は明確で、矢印は迷いなく次の行き先を示している。
エントランスへ向かう自動販売機の前に、スマートフォンをかざしたまま立ち止まっている人がいた。
細い指が、同じ場所に何度も画面をかざしている。
周囲を見回したり、画面を見つめたり。国は違ってもその仕草から焦っているのが分かる。
周りの人は流れていく。誰も立ち止まることはせず、まるで流れを乱すことが悪とでもいうかのようにスムーズに過ぎ去っていく。
僕は歩きながら視線を向ける。
距離が遠い。角度がずれている。画面が暗い。
読み取り部の位置とも合っていない。
QRコード決済が反応しない原因ははっきりしている。
周りの人と同じように流れていくことがこの国の正解なのだろうか。
言葉が通じなかったら。
余計なお節介だったら。
思いつく限りそんな色々な言葉を自分自身に言い聞かせてみても一歩が踏み出せず、その女性同様動けなくなってしまった。
父の背中が、ふと浮かぶ。
誰も手を出せない中で、一人で機械に向き合っていた姿。あの日しゃがんで声をかけてくれた優しい目。
――人の役に立つことをしなさい。
小さく息を吸う。
「すみません」
声をかけると、女性は少し目を見開いて顔を上げた。
困ったまま固まっていた表情が、わずかに緩む。
声をかけて正解だったと、急いでいた僕の心臓がいつも通りのゆったりとした鼓動を刻む。
「もう少し近づけて、スマートフォンの角度をそのパネルに合わせてみてください。あと、画面を明るくすると読み取りやすいです」
戸惑いながらも、女性は細い指を言われた通りに動かす。
ピッ。
短い音が響いた。
「あ……できた」
ホッと小さく息を吐くと
「ありがとうございます」
と、軽く頭を下げられた。
僕は微笑み小さく頷いて、その場を離れた。
人の役に立てた、という感覚は少しの暖かさを伴って胸の奥にじんわりと残った。
小さなことだ。
けれど、それでいいだろう。
この力は、きっとここでも使える。
この国で、自分にできることがある。
僕は真っ直ぐ前を見つめた。視線の先には空港のコンコースへと続くガラスの自動ドアが、賑やかな空間の光を受けて光っている。
その 光の溢れる出口へと、迷いなく歩き出した。
