ジハード第27話「操り糸」
「半田山さん!」
僕の声も届ぬまま、半田山はパンプスでアスファルトを鳴らしながら車へと走る。
ビジネススカートと髪が揺れ、バッグを必死に掴んでいた。逃げるようにとはこのことか、と思える絵に描いたような逃走だ。
対照的に僕たちはゆっくりと距離を詰めた。
昨日話した作戦が上手くいくかどうかは分からない。今はただ上手くいってくれと願うしかなかった。
車にたどり着いた半田山はドアノブに手を掛け、引いた。
しかし、反応はない。
一瞬何かの間違いかと顔をしかめ、もう一度ドアノブに触れる。
しかしドアは固く閉ざされたまま微動だにしない。半田山は両手でガチャガチャとドアノブを激しく引く。しかし無情にも車は無反応だ。
「なんで!?開いて!!」
動揺して思わず声が大きくなっていた半田山を嘲笑し、拒絶するかのように車は沈黙を貫いている。荒くなった息遣いが聞こえる。
「半田山さん」
僕の声に半田山の華奢な身体がビクリと飛び上がった。
だが振り返ることはせず必死にドアを引き続ける。その背中に向かって啓介がゆっくりと言った。
「もうやめようぜ…。逃げ場はないんだよ」
鋭くも優しい響きだった。
まるで凍てついた心を溶かすような優しさだ。
「違うの、私…そんなつもりじゃ…」
半田山はかすれた声で答えたが、言い訳にもなっていないことはきっと分かっていたのだろう。
ドアノブに掛けた手は震えていた。
「教えてください。どうしてですか?」
僕が真っ直ぐに言うと、半田山は振り向いた。その美しい顔は泣き出しそうな歪みと、何かから逃げ切りたいと願う願望が同居している。
僕の問いかけに沈黙が辺りを包む。
冬の冷たい風が僕たちの間をすり抜けていく。
言葉を発しない時間は重く感じられる。
半田山はわずかに俯いて口を閉じたまま一点を見つめている。その整った顔立ちからは葛藤が感じられた。
正義と不義。
理性と本能。
心に同居したそれぞれの対となる感情を宥めるべきか出すべきか、決めかねているのかもしれない。
と、その時僕は視界の隅で、工場の敷地外にキラリと光るなにかを捉えた。
次の瞬間、啓介もそれに気付き地面を蹴って駆け出した。
「誰だ!?」
叫びながらその男の元へ一直線に駆けていく。
鋭く夜の冷たい空気を切り裂いてまるで獲物を追う猟犬のように距離を詰めていく。
黒い影は駐車してあった車両に滑り込み、急発進する。
エンジンが唸り、車体は荷重で後ろに沈み込むほどの勢いで発進した。
啓介はギリギリまで追いかけたが、嘲笑うかのように車は排気ガスの匂いだけを残し闇夜に行方をくらませた。
戻ってきた啓介は息を弾ませながらいう。
「今のは誰だ!?」
舞子は分からないと何度も首を振る。顔は完全にこわばっている。
パニックになっているようだった。
今の不審者は仲間などではないのか?
「…命令されたの」
言ったら後戻りできなくなるかもしれない。
しかしながら彼女の中の良心を絞り、わずかにこぼれ落ちた雫のような小さな声だった。
「誰に?」
静かに啓介が切り込む。その声は音もなく紙を切断する新品のカッターの刃のような切れ味で半田山に素早く切り込んだ。さらに続ける。
「もしかしたらそいつは舞子ちゃんを泳がせてるだけかもしれないぞ」
半田山は左手でスカートの生地をぎゅっと掴んでいた。
薄いグレーの生地がくしゃっと波打って歪んでいる。まるで半田山自身の揺れ動く感情や緊張や恐れといった様々なものが入り混じりそこに現れているようだ。
「染地さんに…」
声は震えていた。
震えた小さな声が人気のない冷え切った夜の駐車場に消えていく。
ずっと内に抱えていたものが堰を切って溢れ出す瞬間を見た。半田山の目にはうっすらと涙が浮かび、何かを押し殺すように下唇を噛んでいた。
「私…借りがあって…断れなかった。ごめんなさい」
半田山はその場にしゃがみ込んで顔を両手で覆った。肩がかすかに揺れている。
泣き声は聞こえなかった。
ただ冬の冷たい風が吹き抜ける中、もろく崩れてしまいそうな頼りなさだけがあった。
すべてを投げ出すような乱れた泣き方ではない。
誰にも悟られないように、息を潜め、声を押し殺し、それでも涙が溢れてくる。そんな泣き方だ。
指の隙間からこぼれ落ちそうな涙の雫が半田山の最後の抵抗のように思えた。
地面に落ちて黒く広がって、やがて吸い込まれていった。そんな半田山の姿は、割れてしまった陶磁器の破片のようで、もろく繊細で寂し気だった。
僕はその姿をただ見つめていた。心の奥の方に灯った感情が「俺はここにいる」と静かに内側から声を上げているのに気がついた。
同情や驚き?
いや違う。心の奥底からジリジリと燃え上がるような熱だ。
この人をここまで追い込んだのは誰だ?
ここまでの罪悪感を負わせ、押し付け、操っていたのは誰だ?
染地昇。あの男の冷たい微笑が脳裏に浮かび、拳を握りしめた。
怒鳴りたくなる怒りでも、パプア人達のように暴れ回るような怒りでもない。もっと深く、冷たく、青く静かに燃える衝動だ。
啓介は半田山にゆっくりと視線を落とした。言葉を選ぶように慎重に問いかけた。
「よく話してくれたな。何かあって、それを言う人もタイミングも見つけられなかったんだろ?」
半田山は顔をあげず、身体を震わせていた。啓介は少し声のトーンを変えた。柔らかく、いつものように。
「泣くのは構わない。でも、ここで泣くのはオススメしない。冷えると心も体もしんどいぜ。暖かいところに行こう」
「腹減ってないか?なにか甘いものでも食べれば気持ちも落ち着くかもしれない。俺たちは怒ったりしないよ。ちゃんと話聞くからさ」
ようやく半田山が顔を少し上げる。
頬を濡らした涙の一筋が駐車場の照明に照らされて光った。目にはほんの少しだけ「助け」を求める色が滲んでいる気がする。
その時静かに建物の窓を開け、ニヤニヤと笑いながら拳をこちらに向ける平口と目が合った。僕もこの静かで神聖な空気を乱さぬよう静かに拳を平口に向けた。投げキスならぬ投げグータッチだ。
