[短編小説]その光がまだ俺に触れるなら
築五十年の鉄筋コンクリートのマンション。
部屋の壁にはうっすらとヒビが走っていて、それを隠すようなかつて白かったはずの壁紙はところどころ黄ばんで、手垢のような影がついていた。
エアコンの吹き出し口が湿っぽい風をため息のように吐き出していて
古い冷蔵庫のモーターの、頭を抱えうずくまっている小さな呻き声のような音が部屋の静けさを埋めている。
床のフローリングはところどころ剥げて木の地肌を覗かせているし
机の上にはカップ麺の空き容器、乾ききったペン、そして壁際に埃を被ったギター。
窓を叩く雨がそのすべてを包み隠すように降り続けている。
部屋全体が、長い眠りについたような静けさをまとっていた。まるで、心だけが駅に取り残され、他の列車が次々と夢を乗せて走り去っていくようだった。
発車のベルだけが虚しくホームに響く。
東京の街を一望できるこの六畳一間の部屋が俺のすべてだ。窓辺には古いパイプ椅子を置いている。リサイクルショップで買った年季の入った代物。
そこが、俺のいつもの場所。
ガラスを伝う無数の水滴が街並みの輪郭を滲ませていく。涙で視界がぼやけているようだし
心も同様に形を失いそうだった。
六年前、ミュージシャンの夢を追って地方から東京に出た。
この部屋を選んだのは、窓から見える景色に心を奪われたからだ。
新宿の高層ビル群が堂々とそびえ立つ。夜になると街明かりが無数のペンライトのように瞬く。車の音や電車の走行音から成る都会の喧騒が、ライブ会場の声援のように響いていた。あの頃の俺は、その光と音のすべてを自分へのエールだと信じて疑わなかった。
だが六年という時間が、夢の形をじわじわと侵食していった。
オーディションの不合格通知は、いつしか壁紙の模様みたいに当たり前となった。はじめこそ深く落ち込んだ。だが心を守るためなのか、いつからか見慣れてしまった。
路上で歌っても人々は足音だけを残して去っていく。その靴音が「聴く価値のないものだよ」という文字をアスファルトに書き残すようだ。
「素晴らしいものが出来た」と喜び「どうだ!?」と意気揚々と歌う。しかし周りの人たちは素通り、たった一人の人の足ですら止められない。
結果の出ない日々の中で、周りからは「いいねぇ、好きなことやって」「遊んで暮らしてるみたいで羨ましい」と笑われる。
そうだよ、好きなことをやってる。
でも、それは楽しいことばかりじゃない。
好きだからこそ、報われない瞬間に、胸の奥の糸がぷつりと切れる。
音もなく、ゆっくりと崩れていく砂の塔みたいに、何かが少しずつ減っていく。
好きなことを貫くというのは、つまり自分自身を差し出すということだ。
作品が評価されないというのは、才能を否定されることじゃない。
「お前なんていらない」と、自分という存在そのものを突き返されるような感覚だ。
誰かに見てほしくて、聴いてほしくて、必死に差し出した自分が、透明な空気のように通り抜けていく。
その見えない無視の痛みが、心に無数の擦り傷を刻む。
作品を世に放つたび、ボールを投げるような気持ちになる。
けれど、そのボールはいつも闇の中に吸い込まれていく。
音もなく、跳ね返りもしない。
まるで、世界の向こう側に誰もいないみたいに。
「助けてくれ!」
もしそうここで助けを求めても、誰の耳にも届かない気がした。倒れても、誰かの視界の外側で、ただの影として認識されるだけで気にも止められない。世界は水族館の分厚いアクリル水槽のように、静かに俺を切り離していた。
部屋の隅には、くすんだ弦のギター。触れようとすると、「お前の声はもう誰にも届かない」と呟かれているような気がして手が止まる。
かつて夢の光だった東京の夜景は、いまでは無数の人工の瞳がこちらを見下してくるような気がしていた。その視線に晒されるたび、俺の小ささと無力さが浮かび上がる。焦りや不安が心の中を荒れ狂う嵐のように引っ掻き回す。踏み出さなければ。そう思って動こうとしても、そこに地面はなく泥に沈んでいく。声を出しても、吸い込む空気が重くて、むせ返りそうになる。言葉にならないのだ。
雨の粒がガラスを滑り落ちていく。それはまるで、俺の中の希望がこぼれ落ちるようだった。
あの輝きは、いったいどこへ消えてしまったのだろう。
俺は雨に霞む灰色の街並みをただぼーっと見つめていた。
ビルも、道路も、車も、看板も。すべて誰かの手が形にしたものだ。誰かの役に立ち、誰かの時間を動かしている。
それに比べて、俺はなんだ?
何を作り、誰のために息をしている?
叫んでも、声は雨に溶け、音にもならない。世界は俺を、必要としていない。心の奥で、痛みが静かに脈打つ。焦りと不安が爪を立て、見えない傷を刻んでいく。そのたびに、胸の奥で赤い光が滲み、いつもの場所に座るたび心は静かに血を流し続けている。
そんな思考が、濁った洗濯機の水ように頭の中をぐるぐると巡っていた。やがて体の芯まで冷え、動くことすらできなくなった。這うように床に寝転び、天井のシミを睨む。時計の針が、わずかに現実と繋ぎ止めるかのようにカチ、カチと響いている。
「くそったれ」
そう呟いた瞬間、枕元のスマートフォンが小さく震えた。床に投げ出した端末を探るべくだるい腕をゆっくりと持ち上げる。
鉛のように重く、わずかな動きさえ億劫だった。指先が冷たい感触をとらえた。
画面が、薄暗い部屋の中でぽつりと光った。半分閉じかけたまぶたの奥で、その光がぼやけて滲む。
YouTubeの通知だ。よく見れば六年前にアップした、一番最初の曲。この街の光に胸を焦がし、「夢に向かって生きていく」と綴った、あの日の声。
そこにひとつのコメントがついた。
アイコンには繊細な線で女性が描かれている。表情は凛としていてどこか寂しそうだが、柔らかな色遣いはこの色を失った東京生活にそっと光を差し込んでくれるようなそんな気持ちになった。
「たまたま目に止まって何気なく流してみたら、すごく刺さりました。なんだか背中を押された気持ちになりました。お礼を言わせてください」
淡くにじむ夕焼けに
描いた未来の続き重ねて
途切れそうな希望でさえ
迷いや痛み抱いたまま
夢の翼広げて
手を伸ばせばほら
スマホから流れる音。小さなスピーカーが震え、あの頃の熱を帯びた俺の声が部屋に響く。音程は少し外れ、リズムもまだ頼りない。
それでも、その青さの中にしかない真っ直ぐさがあった。その人のコメントの言葉が心の底を撫でた瞬間、濁った水が一気に流れ出していくようだった。
胸の中に澄んだ感情が入り込むのを感じた。
届いていた。あの日、この部屋で孤独に書いた言葉とメロディが、誰かの心を確かに動かした。
視界が、ふっと明るくなった気がした。
いや、気のせいじゃない。灰色に沈んでいた壁に、淡いオレンジの光がゆっくりと滲みはじめる。
窓の外では、雲の切れ間から差し込む夕陽が、濡れた街並みを金色に染め上げていた。カーテンが光を受けて、まるで薄い炎のように揺れる。ガラスに反射したオレンジの輝きが、部屋の中の灰色をひとつずつ溶かしていく。
俺はゆっくりと立ち上がり、いつもの場所に腰を下ろした。くたびれたパイプ椅子からのギィっと軋む音が部屋の中に響いた。まるで、錆びついた車輪が少しだけ軋みながら動き出したようだった。
窓の向こうには、新宿の高層ビル群。
都庁、パークタワーそして東京オペラシティ。そのガラスの側面が、沈みゆく夕陽を受けて一斉に光を放つ。灰色だった街が、オレンジと金の境界に染まっていく。
光がビルの稜線をなぞり、反射した輝きが街を揺らす。灰色で無機質な東京が息を吹き返したようだった。
眩しいほどに幻想的だった。無数の建物がまるで過去の涙を焼き尽くすようにきらめいている。その光が、部屋の壁を伝って俺の頬にも触れた。輝く世界が目の前にあって、その門が開かれたようだ。涙で濡れた頬をやさしく拭う手のひらのような優しい光に包み込まれた俺は、そんな感情を無駄にしたくなくて静かに息をめいいっぱい吸い込んだ。
いつもの場所に座っているのに、そこから見える東京は、もう「いつもの」ではなかった。同じ窓辺、同じ街、同じ空の下。
なのに、光の粒が心の奥にまで届いてくる気がした。あの日夢見た景色がほんの少し、今の俺に微笑みかけた気がした。

