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〈午、疼きて駆ける〉



今日は妙に全身が痒みがひどかった。
特にこれといった理由も見当たらない。
君の目は正しいと言った先生の言葉を心の奥で、想い出しながら、全身を巡る細胞の動きに必死に耐えた。

活性化しているのだろうか
それとも褐色化しているのだろうか
分からずとも私はその細胞の記憶をどこかで知っている。古いなにかは傷跡か、それとも幸せだった記憶か、私は分からないままそれを優しく抱くように受け止める工夫をした。'なにがなんでもという言葉は好きじゃない'
でも人にはいつだって踏ん張り時があるのだ。
いつもなら避けて通る道、
いつもなら選べない色
それらを選択して掴んでいくときこそ
私の理由はつけられず進むのみ。

記憶の中の記憶はいつだって曖昧だ。
見た目に反してこの甲高い声も
色素の薄い肌も、誰も知らない。
黒い睫毛の奥に水溜まりがあることを、
拭っても拭ってもまだそこにあり続けては
私を支配している。

美園は身体をグッと起こし
アラームを消した。朝の6:55だった。
先程までは深夜2時だったはずなのに。
寝汗と悪寒を繰り返しては、全身の痒みが一番ひどく
収まるまでじっと耐え続けた。
このままでは自分自身が自分に耐えられない。
緑茶をすすり、枕元の側にあったハンドクリームをとり
全身の乾燥した箇所に塗りつける。

細胞が飢えた。
ひとつ死んだのを感じた。
大事に育てていたのに、それが嘆いて
苦しくて、泣き喚いて私の身体を巡ったのだ。
私はアロマのハンドクリームの香り大きく鼻から啜り
そっと息を吐いた。

リビングに置いた馬の置物が目に入る。
今年の干支に因んで、正孝がお店で選んで買ってきたものだった。いつだって潤んだ瞳のそれは、可愛らしげにリビングのポーチに佇んでは、私たちを見つめていた。

来年は馬年ね、なんて言われて意識したのは
今年の新入社員が午年だったことだ。
教えている、新人の後輩が午年だと聞いた時、自分とはえらく離れていると実感したものだ。
歳を重ねると不思議なもので、あんなにも手当たり次第で覚えた仕事が、考えなくても先に思考が先頭を切っている。反抗心も怠惰心もとうの何処かに置いてきたようだ。私に残った、少しばかりの責任感が、新入社員のどこか口少なく自信なさげな様子に水を差した。


細胞は動く、時に小さくなり時に自身でもコントロール出来ない程大きく。私はそれがとてつもなく怖かった。

緑茶の温かさが喉を通り、ようやく胃のあたりに自分の輪郭が戻ってくるのを感じた。
鏡を見るまでもなく、自分の瞳が少しだけ濁っているのが分かった。

それは「正しい目」を持ち続けることの代償なのかもしれない。新入社員のあの、頼りなげな沈黙、かつての自分も、あんな風に言葉を飲み込んでは体の内側に澱のように溜めていたのだろうか。今の私には、彼らにかける適切な言葉はあっても、彼らと同じように震える術はもう残っていない。
「怖いのは、生きているからね」ふと、美園は自分でも驚くほど小さな声が漏れた。
細胞が騒ぐのは、そこがまだ空洞ではない証拠、古い記憶が傷跡として疼くのも。かつてそこが鮮やかに血の通った幸せな場所だったからだと言い聞かせて。
美園は、ハンドクリームで少しだけ滑らかになった指先で、馬の置物の滑らかな背中をなぞった。うまは駆ける。
私の制御を離れて、細胞も、時間も、この得体の知れない痒みも、どこかへ駆け抜けていく。
その行き先が例え'老い'であれ'再生'であれ、この水溜まりを抱えたまま、今日という一日を、また選ばないはずの色を選びながら進むしかないのだ。

時計を見れば6時58分。あと2分で、日常という名の皮膚が、再び私を包み込む。美園は深く、もう一度だけ、アロマの残香を肺の奥まで吸い込んだ。


おわり.


「怖いのは、生きているから」細胞の疼きと老いの予感。朝の光の中で、自分を抱きしめたくなる物語。 #note


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こちらの作品は、i様主催の#風まかせ文芸部さんへ提出させていただきます♩.•*
お題は「馬」でした.
よろしくお願いいたします。

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風まかせ文芸部|ふわっとことばあそび【馬】






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