元祝日にファン国家について考える
この記事は、Gaudiy Advent Calendar 2025
の23日目の記事です。
今日は12月23日ですね。
ちょっと前まで祝日でしたよね。
前の天皇の誕生日だったからです。
天皇が誕生日だとお休みになるんですね。
天皇って、そもそもどんな存在なんでしたっけ。
ウチの家は神道なんですが、正直あまり考えたことはないです。
ん?神道?と天皇って関係あるっけ?
そうですね。
むかし教科書で習った古事記とかに登場する、アマテラスオオミカミとかそういうやつです。
そこから続く、直系の子孫とされているのが天皇家ですね。
え、日本めちゃめちゃ宗教国家じゃん。
西洋で例えるなら、イエスキリストの子孫とされる人物が現代に生きていて、毎年誕生日になったら国をあげてクリスマスとは別でお祝いする感じですよね。
で、代替わりしたら祝日も都度変わるっていう。
まあ大多数の国民にとっては、ただゆるく祝日という形で恩恵を受けるだけで、何の日かも曖昧だったりする訳なんですが。
余談ですがクリスマスの本場でもあるドイツでは、誕生日おめでとうを当日より前に言うのは厳禁だそうで。日本の感覚だと遅れるくらいなら忘れないうちに言っとくね!の方が感じが良い気もします。
ただ、少なくともお祝いの気持ちぐらいはタイムラグなく持っていても良いのかもしれない。
宗教観の話
逸れましたがとにかく、そんなに生活に密着してるのに、あまり深く考えたことはない。
よく聞く話ですが、日本においては宗教は無宗教、と答える人が大半です。
それは、特定の何かを信じてはいないよ。ってニュアンスですね。
世界的スタンダードでいうと「無宗教」と言ってしまうと結構危険というか、それは結構エクストリームな信条とされていて、atheismと言うんですが、
「この世界に神的なものは一切存在しない」
と明確に否定/主張していることになります。
日本的なやつはどちらかと言うとagnosticismと言って、ゆるっとそういう超常的なものの存在を受け入れる気持ちで、否定も肯定もしないよ。って感じです。
たしかにやおよろずの神々とか、そういう受け入れ力みたいなのが高いですもんね。
けっこうそういう多神教的な感覚が深い根っこのところで国民性というか、人々の性格や行動原理に現れてるなって思うことがあります。
逆に、例えばキリスト教圏とかの人達と一緒にいると、ちょっと自分とは感覚違うなって思うことがあって、それはもう常識とかの次元の話ではないので、なかなか深掘って会話してみる=同じ現象を認知した上で話す、って事自体に辿りつきにくい。
僕自身一時期そのあたりの向き合いを頑張ってコミュニケーションしてた時期がちゃんとある上で思うのですが、
ものごとの責任の分散回路みたいのが備わってるなって感じです。その原因の一端を自分ではない超常的な何かのおかげ/せいにして分け合うような、それが僕からするとそれはちょっと都合良くないかい?と思うぐらいの頻度であるんです。
何かあってもそれは神が決めたことだし、みたいな安心感が深いところにずっとあって、そのスタンスで色んなことと向き合っているわけです。それはもう生きてきて身につけた感覚的なものであって、表層には思考として現れすらしないものだと思います。
それが正しいとか間違ってるとかじゃなく、とにかくもう思考のベースとなる感覚が違うわけです。
そういう前提で生きてる方が、スポーツとかでめちゃめちゃすごい力を発揮したりするんですよね。
サッカーでゴールが決められなくても、神の与えたもうた試練として受け入れるだけで自分のせいだと思う必要は無いわけです。で、決めた時は神に感謝すればいいんです。
信じるもの、拠り所があると人は迷いから解放される。
話を日本に戻すと、とくに最近は自己責任論とかが言われたりしますよね。
なんかそれはある種の美徳でもあったりして、当然の事のような気もすると言えばするけど、
でも人生で起きるすべてを、良いことも悪いこともいちいち自分の身から出た錆、、とか考えてたら前に進めないとも思うんですよね。
比較して言うならばこちらは責任集積回路です。
そこらへんの生真面目さみたいなところが、ブレイクスルーの邪魔をしたりする。
私はそういう意味で昨今よく聞く、自責/他責って言い方は「それってあなたの感想ですよね」みたいなただの便利な流行り言葉のようで嫌いなんですが、
でも自分自身も違う文化圏の人々に対して近しいことを思っていた訳なんだなあ。
みなさんも、日々の暮らしで「あ、今自分便利ワードに頼ろうとしたな」とか、流れるように「それって他責じゃないですか?」と口走った時に、ん。本当にそれが自分の言いたい事だっけ?もう少し噛み砕いて自分の言葉で話してみてもいいかも?と一呼吸置く意識、を吸収して頂ければとてもこの記事を書いた甲斐があります。
やっとファン国家の話
そんな世の中で、オタ活的なものだったり、「スキ」を軸にして集まることや行動が、この社会において宗教の代わりになる存在として機能し始めているように見えます。
日本ではもちろん、海外でさえも。
そこに、Gaudiyがやろうとしてるファン国家の意義があると思っています。
あるコミュニティが閉鎖的だとか、あのコンテンツはマス過ぎるとか、そういう世界との繋がり方すらも自分で選ぶのが、ファン国家の基盤となるファン活動です。
それは言わば自由な宗教みたいなもので、コンテンツによりルールみたいなものはあったりもするんだろうけど、基本的には誰からも干渉されない何も言われない自分の領域。
だから当然自分以外の誰かから否定されるものでもない。
なんなら途中で辞めたり、信じるものを変えたり出来ちゃう
この記事内ではあえて記号的に「宗教」という言葉を多用していますが、そのせいでズレを産んでしまう懸念もありまして。
要するに窮屈なんですよね、宗教って言葉にして言ってしまうと。
もっと中間の存在がこれからの時代求められていると思っていて。
その点、「日本的ゆる宗教観」にひとつのヒントがあるというか。
日本人はキリスト教でもないのにクリスマスを祝って、ケンタッキーフライドチキンを食べるんだってよ。と不思議がられたりするが、そのくらいのノリでいいんじゃないかと。
とにかく、窮屈なものはもう流行らないですよ。どこの国でも社会でも。
その点、神道のような曖昧さを許容し、普通のこととして生きてきた、宗教を宗教とも思わない日本人はマインドセットの部分で一日の長があると言えますかね。
いやしかしその一方で、協調強要社会のような側面も同時にもっている訳で、それは許容とは真逆の性格のものだよな?こちらは宗教的な背景というよりかは結果論としての人種的同質性からくるものかも知れません。
個人レベルで相手のありのままを受け入れることの素養に関しては、西洋社会の方が1歩も2歩も先にいるなと思います。ほんとにそれが「当たり前」なんだな、っていう。
どんな社会で育っても、それぞれの社会の固有の窮屈さがあって。
色んなバックグラウンドがあるなかで、無い物ねだり的に流れていく先の共通の受け皿として、ファン国家があるような気がします。
そもそも上にあげたような地域やナショナリティによる違いは誤差で、発達の順番の違いでしかないです。
ある赤ん坊が人より早く歩いたとか、別の子は早く喋ったとか、その子達が大人になる頃にはそんな差は平均化されて意味の無いものになっている訳です。
赤ん坊段階であるこの世界は、数百数千年単位のスケールで今はまだ発育途上というだけで、ゆっくりと近い方向へ向かっているんだと思います。その長い変遷の中での2025年現在の世界さんの気分は、不文律的に存在している制約からの解放欲求、要するに外野からとやかく言われたくないって感じじゃないかなと。
この気分ってのはあくまでゆっくーり変わっていくものだと思うので、朝起きたら世界が予兆もなく変わってるなんて事は無いです。暫くはありのままを認めて許容するのがカッコいいよね、という気分でやっていくことになる訳です。
そんなこんなでGaudiyの提唱するファン国家は時流を捉えた「素材」としてのビジョンですから、「正しく」料理して、この先の世界にポジティブなインパクトを残していきたいですね!
ところでファン国家では、推しの誕生日は祝日になるのでしょうか?
それでは2日早いですが、メリークリスマス。
Gaudiy Advent Calendar 2025、
明日の担当は 城戸大輔 Kido Daisukeさんです。
