呟き/うけいれる・うけとめる・あきらめる
うけいれる / うけとめる
「受け入れる」と「受け止める」は似て非なるものだと思う。
昔チャットで話した人は、「ボトムの全ての行為を受け入れる」と言っていた。
その人は多頭の方で、従者さんが当時4人いた。
(ちなみに「多頭」とは、SM・主従界隈でいうところの一夫多妻制のようなもので、トップ側が複数人のボトムを管理している状態のこと。)
多頭はこの界隈では賛否両論(主にボトム側は否が多い)があり、
またそれについても元多頭?出身、現在No多頭の私的見解を話したいと思うが、
一旦その話題は置いておこう。
さて、そんな、4人も従者を管理している多頭飼いの男性から出た「受け入れる」という言葉。
ほう、なんと素晴らしいと思い、
お話を伺ってみる事にした。
(うちのマスターは、私一人、食べ切るのにご苦労されてるのに、そんなハイパー人間がいるのかしら?と。)
その方は、
「全てを認めている。怒りたければ怒ればいいし、泣きたきゃ泣けばいい。認めていない相手を、俺は認めている」
と言った。
私は彼に対し、
「例え相手が私自身の全てを認めていても、自分自身がその相手の認めている事、を受け入れられるかどうかは別ではないですか?
例えば私は私のことが嫌いで、マスターは私の全てを愛してくれていますが、私自身は私の事を認めていません。
だからこそ、私自身が私を認められる様に、マスターは私の色んな部分を調整し継ぎ足したりしながら、ケアをしてくれてます。
そういった、チューニングをどうやって合わせてますか?」
と聞いた。
だって、ボトム自身の心の闇に触れ、それを解放してあげないと、
「そのままのあなたでいいよ」
なんて馬鹿馬鹿しい言葉でしかないから。
そう質問すると彼は、
「チューニングして合わせなくたっていい。全てを凌駕しているのが主だから」と。
私は彼から、私が知りたい答えは手に入らないと悟った。
ただ一つ分かったのは、
その方の「受入れる・認める」は、私の言うところの「受け止める」だったという事。
誰かをそのままでいいよと容認する時、
そこにはバックボーンが必要だ。
それは長い時をかけて
その人自身の様々な側面を見てきたり、
はたまたボトムの考えをとにかく聞き、言葉を尽くし、
コンプレックスを優しく包む必要がある。
ただ、言葉で「ありのままでいい」と伝えるだけで切り替えれる人なんて、
どのぐらいいるのだろう。
だってそんな人は自己啓発の本を読んだり、
今まで生きてきた人生で、
そんな言葉がなくたって自分でそう思えてるから。
自分を自分のまま受け入れられない
私の様な人間たちは、
他人から言われても結局は沁み込まない。
自分自身が
「これが私だ」
「このままでいいんだ」
と思えないと始まらないから。
「受け止め」て、「受入れる」。
そうして初めて、少しずつ自分の中で
「このままでもいいの?」
が消化されていく。
この人は裏切らないかもしれない、
この人なら大丈夫かもしれない。
そういう日々の積み重ねこそが、
生きる糧になるのではないか?と思うのだ。
うけとめる / あきらめる
そして、この論点にはもう一つ関係性の高い言葉がある。
「諦める」だ。
私は、大変にその言葉が嫌いである。
なぜならそれは義務感・責任感と絡み合うもので、純粋な「愛」そのものではない、と認識していたから。
私と長年SMをしてきたパートナーや、
同じく長年私を見守ってきた人たちは、
私と長年共にいるために
多くのものを私に「諦め」ていた。
私は0か100かの思考をしがちな人間なので、
あなたは私を諦めている=あなたは私の事を好きではない=私はあなたにとって不必要
要するに私がいて欲しいからいるだけで、あなたにとって私なんて必要がない。
それならば私はここにいる意味がない。
と、非常に行き過ぎにもみえる思考回路に突入しがちである。
何故なら自分に自信がないから。
相手の自分への価値に依存しているから。
でも、最近、「諦める」という行為は、
「受け止める」と同等なのかもしれないと思う様になった。
むしろ、ここで書いた「受け止める」よりも、
もう一つ深いステージなのかもしれないと感じるようになってきたのだ。
もしかして相手を理解する段階は、
「受け止める」→「諦める」→「受け入れる」
なのではないだろうか?
「諦める」というのは、自分とは相容れない物であると感じながらも、その人自身や自分の中に生まれた歪な感情を消化し、共に生きる事である。
言うなれば食べたくもない消化しにくい食べ物を常に食べさせられているような気分。
歳を重ねるとジャンクフードが食べられなくなってくるように、こういった行為は大変にしんどい。
勿論時には、胃もたれだってするだろう。
それでもただ食べ続ける。それでもただ側にいる。
そこにはやはり「愛」があるのではないだろうか。
好きという感情だけではないかもしれない。
責任感なのかもしれない、義務感かもしれない。
ただそこに愛はあるのだろう。
例えそれがどんなに歪な形であろうと、
私と共に生きてきた彼らが行ってきたその行為を、
それを行わせてきた私は、
「それも愛なのだ」
と、受け入れる責任があるのだと感じた。
諦めながら共に生きてくれた今までの人たちみんなを思い浮かべ
私は1人じゃないのだ、
と思うのである。
(尚、反省はしない。負けたような気がするし、私を丸ごと愛してくれなかったみんなも悪いんだから。)
(以前エックスに投稿したものを一部加筆修正し、こちらにアップしております)
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