第二巻-2・第14話:数式に宿る魂、鋼鉄の咆哮 ―バッハ先生とクセナキス―
三号館の廊下まで響き渡る、地鳴りのような音。
アンサンブル室では、何十もの弦楽器がそれぞれ違う音程を滑るように上下させる、異様な音の塊が渦巻いていました。ヤニス・クセナキスの『メタスタシス』です。
コウタは、スピーカーの前で立ちすくみ、額に汗を浮かべていました。
「……先生。これ、本当に音楽なんですか? 旋律(メロディ)も和音も何もない。ただ、巨大なコンクリートの壁が、圧倒的な質量を持って僕を押し潰そうと迫ってくるみたいで……。怖いのに、一歩も動けなくなります」
バッハ先生は、その荒れ狂う音響の海の中で、一歩も動かずに立っていました。
「コウタ、逃げるなじゃ。この『音の建築』を真っ向から受け止めろ。……ヤニス、おめぇの計算、今日も狂いねぇなぁ!」
バッハ先生がそう叫ぶと、鋭い知性を宿した瞳―しかし右眼だけ―の奥に、不屈の意志を湛えた男が立っていました。建築家であり、数学者であり、そしてパルチザンの戦士として顔に深い傷を負った作曲家、ヤニス・クセナキスです。
「バッハさん。僕はね、人間のちっぽけな『お気持ち』を旋律にするのには興味がなかったんだ。僕が信じたのは、宇宙を支配する数式と、確率論(ストカスティック)。この音の塊は、すべて計算によって導き出された『必然』なんだよ」
カオリが、戸惑いながらバッハ先生に問いかけました。
「先生……。先生はいつも、『理屈で音楽を作るな』『頭の中だけで辻褄を合わせようとするな』って言っていましたよね。でも、この曲はすべて数学で作られている。それって、先生の教えと矛盾していませんか?」
バッハ先生は、ピアノの蓋を力強く叩き、カオリを真っ直ぐに見つめました。
「カオリ、いいが。俺が言ったのはな、『感情の真似事(ニセモノ)』をするために、ちっぽけな理屈をこねくり回すのがいけねぇってことだ。……だばってな、ヤニスを見ろ。この男は、数学者で建築家だ。数式こそが、この男の『血』であり、世界を理解するための『肉体』そのものなんだじゃ」
クセナキスが、静かに、しかし重みのある声で付け加えました。
「そう。僕は音楽家である前に、生き残った人間だ。戦争で顔を潰され、仲間を失った。僕にとって、伝統的な『美しさ』なんて何の意味も持たなかったんだよ。数式はね、僕がカオスの中から真実を掴み取るための、唯一の武器だった。この計算の一音一音には、僕のアイデンティティのすべてが刻まれているんだ」
バッハ先生が、コウタとカオリの肩をガシッと掴みました。
「いいが。おめぇたちがこの音の塊に圧倒されたのは、そこにヤニスの『命』が全霊で注ぎ込まれてるからだじゃ。人間はな、ニセモノの理屈には反応しねぇ。だばって、自分そのものを、アイデンティティのすべてをぶつけた表現には、どんなに形が変わっていても立ちすくんでしまうもんなんだじゃ」
バッハ先生の言葉に熱がこもります。。
「メロディがねぇ? 綺麗じゃねぇ? ……そんなことはどうでもいい。大切なのは、おめぇの『生き様』がその音から聞こえてくるかどうかだじゃ! ヤニスのように、自分の信じる武器で世界を彫り出せ。理屈を超えた先にある、おめぇらだけの『咆哮』ば見せてみろじゃ!」
クセナキスは、満足そうに一礼すると、設計図を広げるように消えていきました。
スピーカーから流れる最後の静寂の中に、コウタとカオリは、自分たちの中にある「まだ言葉にならない情熱」が、確かな重力を持って動き出すのを感じていました。
【後記】
この物語に登場する「津軽弁のバッハ先生」は、著者・碧乃オトの音楽に対する情熱と思索が結実した分身(アバター)です。巨匠たちの言葉を通じ、サブスク時代の海図なき航海に、ひとつの「羅針盤」を提示したい。それがこの連載の願いです。
