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公任さんの和歌ジャッジ(長能と道済)

 公任さんといえば、もちろん和歌。
 公の歌会で意見を求められることも多々あったでしょうが、プライベートでも和歌に関する相談を持ってこられることが度々あったようです。和歌に関しては入門書も書いているくらい矜恃のある公任さん。もともと教えるのが好きなところもあるのかもしれませんが、ちゃんと相談に乗ってあげているところは優しいなと思います。

 さて、今回の話は、藤原長能(ふじわらのながとう)と源道済(みなもとのみちなり)が、二人で公任さんの屋敷を訪れたところから始まります。なんとなくカラー多め。3コマめは流して読んでもらって大丈夫です。

(追記※道済が紫を着ていますが、当時紫は禁色と言って特別に許された人しか着られないので、フィクションと思ってください🙏🏻うっかりしておりました)

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 長能は公任さんより17歳年上、道済は生年不詳なのでわかりません。

 この話、いくつかパターンがありまして、今回の漫画は『俊頼髄脳』の本文をベースにしてあります。

 各本大きな流れはほぼ漫画の通りなのですが、『俊頼髄脳』では、二人に迫られた公任さんが、

「まことに申したらむに、おのおの腹立たれじや」→「本当のことを申し上げて、あなたがたお腹立ちになりませんか?」

と、キレられないか心配している様子があるのが可愛いです。多分、過去にキレてきた人がいたんじゃないですかね……。これに対して二人は、

「さらに。ともかくも仰せられむに、腹立ち申すべからず。その料に参りたれば、すみやかに、承りて、まかり出でなむ。」
→「決してそんなことは! なんとおっしゃられても腹が立ったなどは申すはずがあるません。その目的(公任さんに判定してもらうこと)のために参りましたので、承ったら早く退出いたします」

 と、答えます。実際公任さんの答えを聞いたらさっさと帰っています。
 帰る際、道済は「舞ひかなでて出でにけり」とあり、これはつまり踊りながら出て行ったということです。現代だと「小躍りしながら」という訳が近いように思いますが、多分小躍りよりはもうちょっと踊ってたくらいのニュアンスなんじゃないかなと思います。浮かれきっとる。『俊頼髄脳』には、実は長能の反応はありません。最後のコマは『古本説話集』の記事を参考にしています。

 『古本説話集』の方だと、公任さんはしぶる様子はなくすぐに判じ始めるのですが、その際、

ともによきにとりて」→「両方良い歌だと思ったけど」

と、両方の歌をいったん褒めてから始めているところがポイントです。公任さんが気を使っている……!

 そして、退出時の道済はやっぱり踊っているのですが、長能についても書いてあります。

「物思ひ姿にて、出でにけり。さきざき、何事も長能は上手を打ちけるに、この度は本意なかりけりとぞ」
→(長能は)思い悩むような姿で出て行った。前々から何事も長能は(道済より)上手だったので、今回は不本意だったとのことだ。

と、不満げな感じだったらしい。怒りはしなかったけど納得はしていない様子。それに対する公任さんの反応は書いていないですが、内心「ほら〜」って思ってそう。

 公任さんの判詞は漫画の方ではちょっと端折って入れたので、もう少し詳しく解説します。ベースは『俊頼髄脳』の文で、訳は『新編古典文学全集』のものを参考にしています。

「『交野のみのの』といへる歌は、ふるまへる姿も文字遣ひなども、はるかにまさりて聞こゆ。しかはあれども、もろもろの僻事のあるなり。鷹狩りは、雨の降らむばかりにぞ、えせでとどまるべき。霰(あられ)の降らむによりて、宿かりてとまらむは、あやしきことなり。霰などは、さまで狩衣などの濡れ通りて、惜しきほどにはあらじ。なほ、『狩りゆかむ』と詠まれたるは、鷹狩りの本意もあり、まことにも、おもしろかりけむとおぼゆ。歌柄も優にてをかし。撰集などにも、これや入らむ」

霰降る交野のみののかりごろも濡れぬ宿貸す人しなければ

交野のみのの……つまり長能の歌は、「ふるまへる姿も文字遣ひなども、はるかにまさりて聞こゆ」。端的にいえば「技巧をよく凝らしてあって言葉の使い方や続け方も優れているように聞こえる」ということ。実際、長能の歌は掛け言葉や縁語などが多用されているんですね。

「みの」は、「交野の御野」と、レインコート的に着る「」の掛詞。
「狩衣」は、狩をする時の着る「狩衣」と、服を借りる「借り衣」の掛詞。

「狩衣濡れぬ」は「狩衣が濡れてしまった」と、「ぬ」を完了で訳して読みますが、
「濡れぬ宿」は「濡れない宿」と、「ぬ」を打消で訳して読む仕掛けになっています。文法的に二重の意味が活かされているのです。
 完了と打消の見分けとか古文でやったやつ〜ですね。まさかの両方。生徒泣かせである。

 かなり工夫してある歌だけれども、公任さんは、「間違いが多くてちょっと」と続けています。
 長能の歌は、「鷹狩をしてたら霰が降ってきたから、雨宿りさせて欲しかったけど雨宿りさせてくれるような人もいないから濡れちゃった」みたいな内容で、それはつまり「霰だ。一回休憩しよっか」という状況が前提になっています。
 公任さんは、

「雨でも鷹狩を中断することなんてないのに、霰程度じゃ中止にしないでしょ。しかも霰だから雨ほど濡れないだろうし。まず歌の前提にリアリティがないわあ

と指摘しています。霰は雹(ひょう)よりも小さい氷の粒であって、たしかに霰だけならそんなに濡れない気もしますね。

 つまり、「いくら技巧を凝らしてもリアリティがないと歌のもつ魅力が欠ける」、という感じでしょう。その点で道済の和歌は、「なを狩り行かむ」という勇ましさが、リアルな鷹狩り体験としての熱量が感じられるという点で評価されたらしいです。もちろん和歌の格調もあっていいよ〜とも言っていますが、要するに「テーマである『鷹狩り』というものが実感を伴って伝わる良い和歌だね!」という感じかなと。
 これは現代の感覚で読んでも、なるほど! と思いません?
まことにも、おもしろかりけむとおぼゆ」というのも、「本当に楽しかったんだろうなあと思える」というニュアンスで、個人的には公任さんのこの感想かわいいなと思いました。

 公任さん、添削の説明が上手だと思います。現代に生きていたらぜひプレバトに出て欲しい。

 さて、ここで辛口批評されてしまった長能。もう一つ公任さんとの逸話があります。次回は「またしても長能! 公任さんの失言」です。
 月一更新になりつつありますが、また読んでいただけると嬉しいです。

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