金木犀の薪がくべられた鉄の箱に閉じ込められ、業火の中で蒸し焼きにされる少女・華夏は死にゆく最中におのれの人生を追想しながら、いつか出会ったただ一人の男・魁星を想う──村を水害から守るために特別な儀式「星送り」を行う天ノ雨村では、村で生まれた美しい少女を二十歳まで育て上げ、「星成之巫女」として送り出していた。27代目星成之巫女に選ばれた華夏も、日々修行を重ねて来たるべき日のために準備していた。そんなある日、村の外から魁星という男子大学生が訪れる。「星送りについて取材したい」と話す彼を訝しみつつ華夏は自らの足で村を案内するが、だんだんと彼に惹かれ始めてゆき……。【読み切り短編】
猛りくるうほむらの牙に身を喰われながら、『果て箱』に閉じ込められた華夏は叫んでいた。誰か助けて! 誰でもいいから助けて! 身体が熱い! 腕が灼けていく! 頬がただれていく! 自分の灼けた身体から、ひどい臭いがする! 死にたくない! 死にたくない! 死にたくない! ……魁星さん! 魁星さん! 助けて! わたしをここから連れ出して!
しかし、『果て箱』は鈍く地を這う芋虫に空を行く羽を授ける蛹と同等の役割を担う鋼鉄の檻だった。ぶあつい鉄の壁で綴じられた『果て箱』の内側に居る──ほのおが投じられてからやっと、この壁が頑丈足るゆえんを理解させられるなんて酷い仕組みだ!──華夏は芋虫であり、声は蛹の皮に遮断され、外界に聞こえる訳もない。壁を叩こうにも、熱された鉄のおもてはふれた瞬間に華夏の新雪のようなうつくしい肌をべろりと融解して剝がしてしまう。すでに、華夏の両の足裏の皮は温度の高い熱によって『果て箱』の底と同化しめくれていた。自らからながれゆく血さえ、またたく間に熱湯と化し肌を害してくる。
すぐそばからは、星成之巫女の送り出しを祝する柏手の如き破裂音が次々と聞こえており、やはり華夏が中から助けを呼ぶのはどう考えても絶望的だった。どうしようもない窮地に在るいま──華夏の脳裏に、おさないころの思い出がよみがえってくる。星成之巫女として選ばれ、村の誰よりも裕福な暮らしを送り、深い藍の生地に質のよい金糸によって華やかな刺繍が施された絢爛な巫女装束で着飾られ、何一つ不自由なく幸福に生きてきたこれまでの命の歩みを想い返す。嗚呼、これがいわゆる、死の間際に見る記憶のあかりのかがやきというやつなのね、と流した涙が蒸発してゆく熱気にまなじりを細め、華夏は走馬灯の景色を識る。悪くない景色だった。いとおしい軌跡だった。今このほむらに呑まれてしまうまでの華夏の人生はおそらく、かがやいていた。ただしく星のように! いいえ。……ほんとうに?
歴代の星成之巫女も、こうして死んでいったのだろうか。華夏は追想する。過去に意識を移して、星成之巫女らが残していった日記を読んだ記憶から、彼女らが星に至るまでの歴史をたどってゆく。どの日記にも、『嗚呼。夜空が恋しい。星の語りが聞こえてくる。月のささやきが鼓膜を満たしてくれる。〝星送り〟の日が待ち遠しい──』と、そう記されていた。華夏だって、そうだった。そう“在れるよう”努力をした。それなのに、わたしがかつて見た、先代の星成之巫女であった寧々音の〝星送り〟で夜空に上がったひかりの瘢痕はあんなにも素晴らしかったのに、当の巫女が鉄の箱の底で悲鳴を上げていたなんて、“信じていなかった。”思っていなかった。その代わりに永らく、夢を見た。夢を信じた。虚構を杖にして、今日までの道程を歩いていた。まさか、だって、自分自身がこうして燃やされるなんてつゆにも!
──〝星送り〟に選ばれた人間は世界でいちばん特別で、この世の誰よりも名誉なことだと教育され、とても誇らしいことだとさんざ言い聞かされ、夜空の星々を仰いではわたしもいずれあすこに行くのだ、と夢をえがいてきたにもかかわらず、ふたを開けてみればその夢の中身は融けた己が肉体だった。今思えば、いつか星と成った際にまわりのまばゆさに眩まず目が利くようにと誂えられた、壁一面に銀紙の貼られた華夏専用の部屋は魁星の話していた通り洗脳のための牢獄で在り鳥かごだったのだろう。最後まで彼を信じ切れなかった自分に、体中から沸いた蛆が走るようなとてつもない嫌悪感がわく。魁星さん、とまた自身の記憶に遍在するおとこの名を呼んだ。どれだけ恋焦がれて待てども、返事はない。
自らの身長よりもながく、複数人の侍女によって毎日丁寧に椿油が塗りこめられ夜空の映しだと称されたほどに艶めいていた華夏の黒髪は、今や潤いを失くして泥にまみれる獣の毛並みと同じようになっていた。華夏は想像する。これまでの星成之巫女たちは、こんな自身の成れの果てに何を思ったのだろうか。星に成れると信じていたこころが割れた瞬間の絶望に、彼女らは耐えられたのだろうか。自分と同じく、きらきらとまばゆい星でなく黒く醜い焼死体に変わり果てていった、うつくしかったのだろう星成之巫女達を華夏は偲ぶ。夜空は遠く、月は手を差し伸べてくれない。侍女や村民らから聞いていた話とはずいぶん異なる顛末だ。『果箱』から星成之巫女の祈りを聞いたなら、月は乳白色の階段をおろして導き手のうさぎどもとともに修業を積んだ巫女を星として出迎えてくれるはずだった。『果て箱』の蓋に嵌められたまるい硝子から見える世界が、こんなにも遠いだなんて華夏は思わなかった。
鉄の部屋である『果て箱』に入れられるまで蝶よ花よと、否、星よ月よと育てられ、侍女のみなが華夏の声をひとことも聞き逃さずどんな望みだって叶えてくれていたはずなのに、彼女の最後の願いは、祈りは、乞いは、絶叫は、終ぞ業火に掻き消されて誰の耳にも届かなかった。根深い黴が張り付いたように黒く焦げゆく手指をみおろして、肺を焼き尽くされながら華夏は自覚する。天に言い伝えてくれと村のみなから受け取った願いが、華夏の腹の中で濁った呪いに変化してゆく。
魁星さん、と華夏はかのおとこの名をふたたび無意識につぶやいた。魁星さん、と華夏は今失きまぼろしの両手に縋った。顔の皮がずるりと剥がれ落ちてゆく華夏の脳裏に、目の前で頭から血を流して倒れ伏す、ひとりのおとこの姿が過る。あのとき、あの夜、あの手をためらわずに握り返していたなら、うなづけていたなら、いまごろ自分はこんな箱の中で火に焚きつけられながら死ぬことはなかったのだろうか? 彼の話を信じ、自分の気持ちに正直になれたなら、こんな後悔と呪いを抱かずに済んだのだろうか? 彼が素晴らしいと聞かせてくれた、うみという場所にゆくことも、できたのだろうか?
体が動かない。巫女の断末魔が遠地より届く。星の声がおりてくる。星のせせら嗤いが華夏を包む。華夏さま、と鼓膜を撫でてくれたあのやさしいおとこの音が、華夏の脳髄を絞める。華夏の死体が、だんだんと夜空と似た色になってゆく。
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緑豊かな山間に周囲を囲まれた天ノ雨村では、10年に一度の間隔で藍色の巫女装束を身に纏った星成之巫女と云う20歳の少女に星の身体を与え、『果て箱』という特別な空間を介して天に坐す月へと送り出し、星々に村民の願いを聞き届けてもらうことで災害から村を守る〝星送り〟という伝統的な祭事を冬に行う独自の文化が存在していた。
〝星送り〟の起源について明確に記されている文献はすくないけれども、村民らがそのような祭事を実施するようになった経緯として、天ノ雨村はその名の通り水害の影響を受けやすく、たびたび近くの川が氾濫して村の生活を脅かしたというものがある。1800年代時には家屋の多くが倒壊し村民の大半が流されてしまう水害被害にも遭ったことから、〝星送り〟は村民達の中で極めて重要な祭事として扱われており、行政の手がある程度入ったことで川の氾濫を防ぐ対策が講じられた今でも、彼彼女らは天の川がよく見える夜に生まれた見目麗しい少女を星成之巫女として育てあげ、〝星送り〟を定期的に執り行っていた。
天ノ雨村の村民が、星成之巫女という星にふさわしい見目に少女を仕立て上げることに執着するのには訳がある。それは、緯度と経度の関係からどの国のどの街よりも天ノ雨村が空に近い村だと謂われており、世界で最も星がつぶさに観測できるためだった。村民はみな、無邪気に信じている。星様のおひざ元に暮らす我々であるからこそ、星様に言葉を届けられるのだと。星様の耳元にいちばん近いからこそ、星様は我々の声に耳を傾けてくださると。コンクリートの防波堤でなく星様こそが、水害から我々を救い上げてくださるのだと。
華夏は、天の清流がいっとうかがやかしい夏至の夜に生まれた27代目の星成之巫女だった。
星成之巫女は、天ノ雨村に生まれた赤子のうちとびきり可愛らしい子が選ばれる仕来りになっているけれども、華夏は、赤子の時点で将来の圧倒的な美貌がだれにも予測できるくらいに端正な顔立ちをしていた。産小屋に集まった村民らの満場一致で星成之巫女としての役を課されると、生まれてすぐ母親から引き離され、華夏は壁と床が一面銀色の『銀河廊』で20歳になるまでのあいだ世話役の侍女たちと暮らすこととなった。
星成之巫女に求められるは、ただひたすらに星に成るに相応しい眉目秀麗なおんなであることだった。そのほか、一般的な礼儀作法や教養の類を仕込まれ、満月の夜に巫女装束を纏って村の平和についていのる義務、星に関する知識を有さなければならない……などといった幾つかのきまりはあるけれども、基本的には他を逸する美貌さえ保てていればおおむね問題がないとされる。ただし、彼女らはその肢体に傷をつけることを禁じられて──どんなにちいさく些細なものであれ、傷のついた星のかがやきは周囲のものよりひどく劣り醜くなるからだと星成之巫女は口酸っぱく教育されるため──おり、〝星送り〟の日まで一切怪我をしてはならず、風呂はもとより食事から就寝に至るまで生活の上で必要となる動作をすべて侍女が介助する必要があった。
おかげで、華夏はかんばせを清めるための泡の立て方も知らなければ箸のひとつを持つこともなく人生をゆくことになった。おのれの周囲には常に6人の侍女がおり、華夏がささやかに何かを強請ればその6人のうちの誰かがいつだって走っていった。魚の身をくずして骨を除き、手の届かぬ貝殻ぼねのあたりを掻いてやり、歯を磨いて爪を整えてやっては、まなじりのめやにさえ、侍女が綿のついた棒で時間をかけて拭う。そうして星成之巫女はすこしずつ、時間と村民の手間暇をかけて星に成ってゆく。
青じろい月の視線を十全に浴びられるよう設計された『銀河廊』で確りと年を重ねてゆく華夏は、村民らの見立てどおり閉月羞花の巫女となっていった。なだらかな山の背をきざんだ二重ひだをふるわせまぶたを開けば、たっぷりと垂らした黒いうるしのごとく淑やかな照りを宿したやや吊り目がちのまなこがふたつ現れる。隙間なく生え揃ったまつげはすべてが凛と上向きに伸びており、まぶたのふちを彩って華夏の目元を華やかに魅せる。おとなの手のひら大にたやすく収まってしまうちいさな輪郭に、とおった鼻すじからうす桃色のくちびるにかけての凹凸はどれもが適切であり最上で、頬紅を乗せずとも華夏の頬はすもものように薄っすらとした赤がにじんでいた。いのりのためにと合わせられる両の指さきの爪は艶やかな水滴を浴びているようにみずみずしい。春の野におりたつ鹿の四肢に似た華奢な手足は袖の長い藍の巫女装束からちらと覗き見え、色の濃い布を身にしているからこそいっそまぶしく感ぜられるくらいに華夏の肌のしろさがより際立つ。そしてか細い体を覆い隠してしまうほどに長い天の川の象徴とされる極上の黒髪は、ただしく星成之巫女そのものだった。齢とおつの時点で、華夏は星成之巫女として十分すぎるくらいに完成されていた。
切り分けられた朝餉を食べ、巫女としての修業を積み、身を洗いながして、晩餉を呑みこみ寝台で休む。ほぐされた朝餉を咀嚼し、星を詠んで、身を洗い、晩餉をくちもとに運ばれ寝台につく。明くる日も、また明くる日もそのように『銀河廊』で過ごす。そんな日々を幾度となく繰り返し、のこりの10年もこのように過ごすのだろう、……つまらなく感じる感性すら育ち切っていない頭でそんなふうに自らの命がゆく道なりを思い浮かべながら、おだやかな時の過ぎゆく様を侍女たちと送っていた10歳の華夏のもとに、やがてひとりのおとこが訪ねてきた。おとこの名は、柊魁星といった。
柊魁星は、天ノ雨村から離れた街に建つ大学で天文学を専門にまなぶまじめな学生だった。癖のついた髪にクリア素材のめがねと、三角形の頂点のように左の頬に並んだ3つのほくろが特徴的なおとこだ。
魁星が村にやってきたのは、華夏が10歳になる誕生日を経てから約4カ月ほどが過ぎた冬のはじめのことだった。天ノ雨村の冬は、真珠の光沢をもった白竜のうろこのようなつぶの大きい雪が落ちゆく季節で、彼が村の入り口に車を停めたその日も空からぽとぽとと雪が降っていた。
村人は最初、得体のしれない魁星の来訪をいぶかしみ村長と話をしたいと言う彼を追い返そうとしたらしいけれども、天ノ雨村には研究のためにやってきたと言い、噂で耳にした星送りをぜひ見たいとふるわれた熱弁にとうとう根負けしたのだという。「どうか取材をさせてください! 不躾な真似はしないと誓いますので」本人からそう頭を下げられた村長曰く、どうやら村民のうちのひとりが魁星と同じ大学に通っており、そこで〝星送り〟の話を聞いて興味を持ったとのことだった。
「──まあ、そんな経緯だ。お前から直接、いろいろと話が聞きたいそうだよ。星成之巫女とはどんなものなのか」
「……半人前の、わたしにですか? 寧々音姉様ではなく?」
「〝星送り〟まではもう2週間を切っている。寧々音はいま、巫女として最後の役目を果たそうとしている大切な時期だからな。さすがに余所者とは会わせられない」
余所者と口にしてはいるものの、『銀河廊』にやってきた村長の声から魁星への嫌悪というものは華夏に読み取れなかった。村長は気むつかしいひとではないけれども、村人以外の人間に対し厳しいきらいがあるはずなのに、ずいぶんと対応がやわらかいものだ。柊魁星とやらはどうやら、村長のせまいふところにうまく入り込んでみせたのだと見える。村長が客人として扱うのなら、村民たちもぞんざいには扱えまい。
華夏は、侍女がちいさく切り分けおのれのくちもとに運んでくれる豆大福──魁星が、手土産にと持ってきたものだそうだ──を歯で丁寧に平らにし、舌ですこしずつ押しつぶしながら曖昧にうなづく他なく、村長伝いに受けた魁星からの依頼を承諾した。「彼は明日の朝ここにやってくる。話をしてやりなさい」そう告げて部屋を去ってゆこうとする村長の背を見送る華夏の心臓は、密やかに慌てていた。袖の内側でにぎりしめた両のこぶしの内側は、汗でほんのりと湿っている。
「……華夏さま?」
思いつめた表情でながらく沈黙していることを不審に思ったのだろう、心配そうな声色でそばに仕えていた侍女に名を呼ばれてから、華夏はなんとか顔を上げた。思考の容量が途端に足りなくなったようなひどい焦燥感に、うまく返事もできない。下手なりになんとかわらうのみだ。そんな華夏のようすに、侍女たちが眉根を寄せ始めていた。……ねえ。あのお話、お断りした方がよかったのでは? やっぱり。わたしもそう思っていたの。余所者のおとこでしょう、華夏さまに何をするかわからないのだし。大事な時期だっていうのにね。そもそも、そんな輩を村に泊めるのもどうかと思うわ。どうせ所沢の爺さんの空き家でしょ? 汚らわしい。ああ、今、あたし村長さんを呼び止めてきます。まだ間に合うわ、急いで。「……みんな、よして。いいの。驚いただけだから」華夏の言葉もなく各々動こうとする侍女たちを宥めてすぐ、華夏は彼女らを従える星成之巫女として自らの近くに6人を引き寄せる。彼女らが、柊魁星というおとこを警戒する気持ちもよくわかる。その想いは酌むに値するものだ。──何せ侍女とばかり暮らしている華夏の『銀河廊』に異性がやってくるのは、父と兄と村長以外で、初めてのことだった。
☆
果たして、村長の言葉どおり翌朝に顔を覗かせた魁星は『銀河廊』の奥に在る星成之巫女の部屋に案内されると、巫女装束を着た華夏をひと目見て絶句していた。
華夏を囲む侍女たちは、入り口で言葉を失くして立ち尽くす魁星の態度に対し、きっと華夏のうつくしさに言葉を失っているのだとささやいていたけれども、しかし、けしてそのような理由でないのだろうことを華夏だけは理解できた。めがねの奥に嵌った魁星のひとみに浮かんでいるのは絶望とあらわすに相応しいもので、どうしてか初対面であるのにも関わらず『銀河廊』に佇む華夏を哀れんでいることがありありと察せられた。まるで、熊にでも襲われて毛の毟られた、死に瀕し木の支えを頼りに歩く獣を遠目から眺めているかのようなまなこだ。
ただ、その訳については正体を暴けない。曇り硝子のむこうで揺らぐ影の輪郭を、華夏はどうしてもとらえきれない。──御覧の通り華夏はこんなにも恵まれているのに、幸福で在るのに、どうしてこのようなおとこにいま、哀れまれているのだろう? 星成之巫女はこの世で一番尊い役目を果たす唯一無二の存在だ。200年以上の歴史を持つ、伝統的な祭事の主役に据えられる誇り高き一等星だ。金の糸で夜空の星全てを描いているこの藍の巫女装束の価値は、村の家々をぜんぶ売ったとて敵うものではない。定期的に村を巡回する際には、惜しみなく飾り立てられた華夏を刹那にも拝もうと村民らが永い永い列やおおきな輪を作る。彼彼女らは、みながみな澄んだ憧憬の視線を華夏に注いでくれる。七日七夜の月の微笑みを浴びた華夏の手には星のご利益があるために、泣いて必死に手に縋ってくる。作物が枯れる、母親が病に伏している、折れた骨の回復が少しでも早まるよう、……そういった願いを漏らさず聞き届け、彼彼女らの手に星の恵みを与え、やがて華夏は【星】として空に昇るのだ。そんな華夏に、哀れむ隙などある訳もないのに!
しかし、魁星が沈黙したのは数秒のことで、彼は改めて華夏に向き直るとその場で正座をし、ただした背を折って頭を深く下げてきた。如何にもわかりやすい誠意だ。凍てついた冬の湖面のようなひややかな静けさを孕んだ部屋の中で、華夏はまなこを細めて魁星の後頭部に向ける視線を砥ぐ。
「初めまして華夏さま。僕は柊魁星といいます。巫女としての修業がお忙しい中、お時間をいただきありがとうございます。華夏様のご活躍については聞き及んでおりまして、なんとこれまでの星成之巫女の中でも特に、星に近い御方であるとか……。まだ10歳で在るのに本当に素晴らしいと思います。
ああえっと、僕がこの村に明日を運んだ理由については村長さんからお話をお伺いしているかもしれませんが、僕は大学で天文学について学んでいる中で、天ノ雨村の皆さんが行っている〝星送り〟について非常に興味を持っていまして、その、ぜひ、当事者の巫女である華夏様からお話をお伺いしたく……」
「ええ。それで、わたしの生活に密着したうえで26回目の〝星送り〟を拝見したいのでしょう? 構いません。当事者の寧々音姉様には謁見できませんものね」
大まかな話の着地点が予測できたために、華夏は魁星の話をさえぎって彼に微笑みの仮面を垂らしてやった。未だとおつしかうつし世を生きていない少女である華夏の湛える無欠の笑みに、魁星が唾ごと息を呑む音がする。……すくなからず哀れまれていることが、どうにも華夏の癪に障ったのだ。そんなに疑うのなら、と星成之巫女の置かれている立場を華夏は見せつけてやりたかった。こどもの癇癪だと言うのなら、そういった受け取り方をしていただいても構わない。華夏がここまで魁星に反発心を憶えるのは、今まで縁をむすんできた周囲の人間の誰もが華夏のことを祭り上げてきたからだ。──巫女様! わたしたちのお星さま! ああうらやましい。あんなまばゆい星に成れるなんて。みんなから見上げられ、闇をさまよう誰かをみちびくひかりになれる。こんなに貴ばれる御役目もないわ。
華夏は、彼岸花の如く波状に伸びたまつげをまたたかせ、近くの侍女どもに目配せをした。外を歩くための、廻り車の手配が必要になる。それから、長い長い髪を高い位置に結わなくてはならない。
「聞きたいことがあるのならどうか手短に。あとはわたしの生活と村民たちの祭りの準備を見ていただいた方が早いかと思います。直に昼になりますから、村の川辺にゆけば藍に染めた糸で〝星送り〟のための衣装を織る『ほむら子』たちが見られるでしょう」
星成之巫女が息吹く『銀河廊』は村の奥地に建てられており、屋敷の入り口から敷かれている白木蓮の並木道を抜けることで村の中心部へとゆくことができる。天ノ雨村は1000人程度のひとびとが暮らしている中規模の村だけれど、〝星送り〟まで日が近いために、村民はみながみなあわただしそうに動いていた。駆ける足取りはどれも軽く、老婆からおさなごまで希望に満ちあふれている。
〝星送り〟の準備それ自体は祭りの日からかぞえて296日前から行われるものだけれども、その準備がより本格的になるのは夜空に新月が現れる2週間前──ちょうど、臘月に入るこのごろ──からだ。『ほむら子』といわれる村のこどもたちによる衣装の仕立てから晩餐の仕込み、歌唱の練習に村の職人の手による『果て箱』の組み立て、……などといった最終的な調整を、みなで協力して進めている。
廻り車を侍女に押してもらいながら、華夏は魁星のことを座した目線から見上げていた。彼は興味深そうにゆく道の景色や村民たちの暮らし、家々のつくりを見つめてはときおり感心したようにうなづいていて、小型の用紙に汚い字で何かを書きなぐっている。熱心な手つきに、興味を持ってこの村にやってきたことはけして嘘でないのだろうことが華夏にも伺えた。
浮き足だった声の散る賑やかな中心部を跨ぎ、村の西へゆく。川のせせらぎに混じっておさない笑い声が耳に届く道を歩いていると、木造の平屋が1軒とその近くに複数個並べられた機織り機の景色が見えてくる。板を踏んで糸を織っているのは、みな『ほむら子』だ。
ここで止めて、と華夏は侍女に伝える。
「ああ、あれがそうです。『ほむら子』の機織り。見えますか? あの藍の糸は今年の夏にみなで染め上げたものなのですよ。祭り当日にはあの糸を使って織られた服を着ることが、村民には義務付けられています」
「……すごい。みんな幼いのに、ちいさな手で機械を使いこなしている。ずいぶん使い慣れているんですね。手際がいい」
「巫女に選ばれなかった女児や親が職人でない男児は、基本的に箸を持つ前から『ほむら子』として機織り機の練習をさせられることが多いです。漁業以外でのこの村の特産品でもありますから。藍の染め方も代々受け継がれていて、わたしが来ている巫女装束も彼らの手によって作られたものになります。
星成之巫女が腕を通すのは、ああして織られた後に腕のよい村民が1年以上の時間をかけて金糸で刺繡を入れたものです。今の夜空に在る星をひとつのこらず刺繍であらわす、刺繍製の全天星図が入った巫女装束、……それが、今着ているわたしの服ですね。刺繡を入れてからも、新月の夜から満月の夜まで、月と星の艶めきを十全に浴びさせる必要があります。完成までにかかる時間と労力は、到底価値に置き換えられるものではないでしょう」
「なるほど……」
そうらと華夏の持ち上げた袖に、しゃがみこんだ魁星が顔を近づけてくる。首を傾げ、触れはないよう、それでもできるだけ明瞭に観察しようと視界に捉える角度をたびたび変える彼のめがねに、金の糸がはじいた陽光の粒子が無限に煌めいていた。垂れ目ぎみのまなじりには、華夏の細い手首が映っている。うすい傷あとの在る鼻がしらが、華夏のひたいのほんのそばにある。
ややあって、腰を上げた魁星は言った。
「惜しみない技術が注がれている素晴らしい服だ。とてもきれいですね。華夏さまによく似合っています」
「……まあ、わたしは星成之巫女ですから、似合うのは当然です。わたしのために誂えられたものですもの」
「確かに。見当違いなことを言ってしまいました。華夏さまに相応しい服というべきでしたね」
斯くして、華夏に頭を下げる魁星の目に相対した瞬間の哀れみは既に無かった。そして、優しげに弧を描いた彼の笑みを前に、先ほどまで胸中を燻っていた華夏のいら立ちも、すっかり姿を煙にして消えていた。巫女装束の内側で両の膝を擦り合わせたくなる気恥ずかしさを身に感じて、華夏は息を詰める。頬にのみ過剰に感ぜられる陽光の熱さを疎ましくおもい、装束の襟をゆるやかに開く。……このおとこのまなこを気に入らないとさえ感じていたはずなのに、褒められたくらいで赦してしまうなんて情けない。わたしは星成之巫女なんだからしっかりしなければ、と下くちびるを噛む。それでも、急いてしまう心臓だけはうそをつかなかった。本能が警鐘をひびかせる。ぜったいに、この鼓動は悟られてならない。
「──それではもうすこし村のあんないを、しますから。先へゆきましょう。……柊様」
「魁星でいいですよ。というか、華夏さまさえよければそちらで呼んでください。名前のほうが気に入っているので。あと、たいそうな身分の人間でもないですから、様付けはよしてください。くすぐったくなります」
「それでは、……か、魁星さんと」
「はい。華夏さま」
そうして、華夏とまなこを合わせてやや距離感を近づけるような発言をした魁星をきっとにらめつける侍女に命じて、華夏は川辺の横に連なる道をゆく。『ほむら子』たちが機織りの板を踏む音は間隔が一定で、なめらかな木のおもてを想起させる音の感触はしずかに鼓膜になじみ、ここちがよい。頭上を覆う林道の影が髪を梳く、穏やかに老いゆく時間の進みのかたわら、華夏の右隣を歩く魁星の手は骨ばっていて大きかった。
無意識に彼の肌を見つめていたひとみを慌てておのが手元に戻し、華夏はひざ元で揃えていた右手をひろげてみる。子犬のひたいを撫でるにも苦労をする華夏の手くらいなら、魁星の手はたやすく掴んでしまえるだろう。きっと。……掴む? わたしの手を? 巫女として、清らかに保ちなさいと、いのりにのみ捧げよと命じられた手を?
「華夏様? ご気分がすぐれませんか? 『銀河廊』にお戻りになられます?」
顔をうつむけ、そのような己が思考にばかり意識を割いていた華夏に、侍女が後ろから具合を尋ねてくる。華夏は、いいえ、とそれだけを返す。すぐに上げられるような顔を、到底いまの華夏はしていなかった。
その後、道なりをゆくままに星成之巫女を空へと送るための『果て箱』と名付けられた鉄の箱の組み立て場から、村の畑や川から獲れた食べ物を使用した晩餐の準備にいそしむ大叔母の屋敷、祝詞を読み上げる練習をする神主役の村民の集まり、そして、『銀河廊』から出た星成之巫女が最後の修業の場所として過ごす『宙の底』という1畳ほどの空間を孕んだ小屋を案内してやった。
『宙の底』は『銀河廊』とは対角線上にある建物──そう呼ぶには些かつくりが簡素であまりに無骨だが──だった。背の高い木々に囲われており、夜になっても一帯に落ちる月のひかりはまばらだろう。時はもう夕暮れだったけれども、『宙の底』に窓はない。山間にあるからこそ天ノ雨村へ血だまりのように広がる凄絶な夕焼けは、分厚い土壁で固められた『宙の底』に届いてはいないはずだ。小屋を指さして、華夏は語った。
「寧々音姉様が居るのはあちらです。星成之巫女は、〝星送り〟の1カ月前からあの場所に籠って最後の修業を行います。修業の詳細はこの修行を行うに相応しいと認められてから代々星成之巫女にのみ手渡される手記に記載されていると聞いていますので、わたしも知りませんが」
「……あんなにも暗く狭い場所で、1カ月も?」
「そうですね、星に成るためですから。」
宇宙という場所について、華夏は星成之巫女として誰よりも詳細を識っている。空と地のはざまには、星成之巫女を歓迎するための月の階段があること。星どもの手は銀色であること。銀河は星が暮らす村の集まりであること。星座は星が手をつないでできあがっている輪を指すということ。星どもの声は人間の声とことなるので、災禍に苦しむ人間のねがいを聞き入れることはとてもむつかしいこと。星成之巫女が、遠く離れた人間と星の懸け橋になることを、星どもも望んでいること。
星は空で生きるものだ。空というとわの波の上で揺蕩うものだ。巫女として大成するため、自らのひかりの純度を高めるために暗やみにとじこもることは必要である、というのが『宙の底』で勤しむ修業に対する華夏の解釈だった。この考えは間違っていない。……そうであるはずだ。いくら外面上は牢のようにしか見えなくともこの小屋での修行も『銀河廊』で積むべき修業と何ら変わらず尊いものだ。天ノ雨村を1日かけて周り、華夏を目にした村民らの満天の星の如き笑顔や神をあがめるかの如き接し方からも〝星送り〟と星成之巫女がどれだけかけがえのなく、推し量れない歴史と価値があるものなのか魁星は理解してくれたはずだった。
けれど、おもむろに華夏が視線をやった先に在る魁星の目は、華夏と初めて顔を合わせたときのものと、極めて似た温度感と質感のものだった。〝星送り〟を2週間後に控えた寧々音を壁越しにつらぬくのは、底知れぬ哀れみだ。心臓にこおり水を注がれたような痛みに、華夏はつまさきを丸める。
「……わかりました。教えてくださってありがとうございます。華夏さま、もう十分です」
礼を告げる魁星の目はおそろしく凪いでいた。どうしてだろう、と疑問に思う。そして、魁星の心はおのれの把握する範疇よりもずっとずっと遠いところにあるのではないか、という直感が華夏を刺す。けして言葉の通じぬ獣と人間といった関係でなく、お互いに声のひびきを認め合える人間同士であるはずなのに、村の外からやってきた魁星とは、如何様にもならない断絶で隔てられているという実感だけが、華夏には在った。
村の案内を終えたあとに用意された部屋へ戻ろうとする魁星を少々無理やりに晩餉に誘ったのは、華夏の方だった。やはりどうしても、彼と話がしたかったのだ。説得、と称しもよかったかもしれない。深度の測り得ない溝を、本能的に埋めたかったのかもしれない。ただひたすらに、華夏は魁星に自分のことや星成之巫女のことを十全にわかってもらえないことが切なく、さみしくて仕方がなかった。
口を開けて待ち、侍女がちいさくした南瓜の煮つけが舌に乗ったのを確認してから華夏はならんだ小粒の歯を上下に動かす。『銀河廊』に在る華夏の部屋には、村長に頼み込んだおかげで魁星の分も含めてふたりぶんの晩餉が配膳されていた。白米と南瓜の煮つけ、川魚の塩焼きに根菜の胡麻和えなどといった侍女の寄越す食事を胃に落としながら、華夏は言葉を紡ぐ。
「南瓜は、この村では貴重な食べ物なんです。ただ、栄養が豊富なので星成之巫女の食事にはよく出てきます。甘くて濃厚で、おいしくて好きなんです。魁星さんはどうですか?」
「……ええ。僕も、よく食べます。祖母が料理のうまい人で、僕はいま一人暮らしをしているんですが、煮つけのレシピなどをよくもらいましたね。その通りに作っても、祖母のものと同じ味にはならないんですが」
「あの。その、……れしぴ、とはなんですか?」
「ああ、ええと……作り方の手順のようなものです。砂糖をどのくらい入れて、醬油の量がこのくらいで、どの程度煮込むのかとか。そういうものを書いて、教えてくれるんですよ。間違えないように」
「へえ……」
首を傾ける華夏が、織りなす会話の中であらわれる聞きなれない単語や知らぬことを都度尋ねるたびに、魁星は詳しく、それでいてわかりやすく──でんしゃという箱型の移動車のこと、ぱんという餅に似た食感であるのに香ばしい食べ物のことなど──すべてを教えてくれた。華夏は生まれてこの方天ノ雨村の『銀河廊』で暮らしており、月に数冊与えられる本や星成之巫女の日記、そして、侍女たちの世間話からこぼれるもの以外で外界の知識を得られない。魁星が話してくれる村の外の話はどれもが面白く、時間が足りないほどだった。その中でも特に惹かれたのは、うみという場所だ。ひとみを丸くした魁星が、箸を置いて華夏に問う。
「海を……ご存じないんですか? ほんとうに?」
「本でなら、何度か見たことがあります。実際に行ったことは一度もありません。何かの本に書かれていたのですが、うみとはとても塩辛いみずのかたまりなのですよね? それなのに、そんなによいものなんですか?」
華夏の言葉に、魁星がおおきくうなづいた。先ほどまでとことなり、食い気味になって彼は言う。
「よいものも何も! 僕、実はダイビングのライセンスを持っているんです。ダイビングっていうのは海に深く潜ることを言うんですけど、ダイビングで見る海の景色は本当に圧巻で。それこそ夜空にも劣らないくらい。珊瑚だとか魚だとか、その……何て言うんだろうな。僕たちが地上で暮らしているように海の中にもれっきとした文化圏と生活圏があって、魚もそれぞれいろんな服を着ていて、きっと彼らにとっての娯楽も海の中にはあって、朝と昼と晩を過ごしていて……、それを目の当たりにすると感動するんです。太陽の光が差し込む海も、月の光が届かない海も、相応にいいもので。
……空の景色しか識らない華夏様にも、ぜひ見てもらいたいですね」
自らの虹彩に焼き付けた海の横顔を思い出しているのだろう、まぶたを伏せた魁星が懐かしむような声色でそう言葉をこぼすので、食事を終えた華夏はくちもとを拭ってくれる侍女の手をやわく払いのけた。心が走り出して、駆られた衝動に思考回路がからめとられる。喉のふもとに芽生えた意思を一秒だってはやく伝えなければ、華夏の気が済まなかった。
「っみ、見てみたいです! ……わたしも、そのうみの中の景色とやらを。魁星さんがそんなによいものだと言うのなら、ぜひ。だってわたし、さんご? というものだって、あまりしらないんですもの」
「──そうですね。写真を持ってこなかったのが惜しいな。ほんとうに、見せて差し上げたい。あの景色を知らないなんて、……勿体ないですから」
華夏が、今晩の食事役の侍女に胡麻のひとつぶも残さぬようくちもとに運んでほしいと言っておいたのは、魁星を招いた晩餉の時をすこしでも長く過ごしたかったからだ。それでも、いつか皿の中は空になる。侍女が食物の無くなった食器類を華夏の想いも知らずにすぐさま下げてゆく。別の侍女が、この後に巫女としての修業が待っていると伝えてくる。
いざなわれるがままいのりの間へ通される前に、華夏は結われた髪を惹かれる思いで魁星の方を振り向く。こんなにも、差し迫る修業の時間を鬱陶しく感じてしまったのは華夏にとって初めてのことだった。
「あの。もう一度こうしてお話しできますか? 明日はまだ居ますか? もう帰られてしまいますか?」
「いいえ。僕は〝星送り〟も見学させてもらう予定です。それまで暫く滞在しますよ」
「じゃあまた、あしたに。あしたも会えたら」
そう言って小ゆびを差し出す華夏の声は存外必死だった。しかし、そのことに自らで気づけないくらい、華夏は約束を取り付けることに夢中だった。華夏の態度にややおどろいてからわらってうなづいた魁星は、華夏のものよりふとい骨で形成された指をためらいがちにからめて、「それではまた明日に」と答えた。
魁星が、案内役を担う侍女とともに『銀河廊』から出てゆく。わずかに感じ取れた体温のほんのすこしの差が、華夏の肌に焼き印の如く明確に遺される。一瞬の重なりであったのに、華夏は確信する。この体温を、わたしは一生涯──星に、成っても──忘れることはない。
華夏はいのりの間に行かねばならない。村のみなのために、華夏が夜空でいっとう華やかな星に成るために、10年後の〝星送り〟を成功させるために、今宵も月と星が地に降らせる宝石のようなかがやきを玉体に沁みこませなければいけない。……でもそれって、魁星さんの話を聞くよりも大切なこと? 華夏は即座に首を振る。天秤にかけるまでもない自問自答だ。わかっている。この10年、何を学び、星成之巫女として生を歩んできたのか。くだらない迷いはよさなければ。今日、26代目の星成之巫女である寧々音を送り出すために協力し合う村民らをこの双眸で見たばかりだというのに。
しかしながら月がこちらを見おろす角度に合わせられた造りのいのりの間にあっても、手を組んでいのりを唱えていても、華夏は魁星のことばかりを考えていた。振り払わねばならない雑念だと意識すればするほどに、彼の顔が浮かんでくる。おざなりに手入れされたまゆ、片方の耳をいろどっていたこがねの装飾、深爪ぎみな指さき、爽やかなにおい、それから、身長差のある華夏の背に合わせた位置におりてくるまなこの黒が、脳幹に甘く焦げついてゆく。集中なんて、とてもじゃないけれどできなかった。自身の未熟さに、寒気さえした。
結局、その晩は久方ぶりに村を巡った疲れが骨身に纏っているからと言って修業を早々に切り上げた。眠りにつくさなかに、華夏は魁星の手を幻視する。あの手にぎゅっと握られる感触を、誰にも知られぬようひたいの奥で両手に包み、好きに夢想する。
☆
華夏はそれからほとんど毎日、魁星と顔を合わせることとなった。理由は明白で、ほかでもない華夏自身が修業の合間の度、魁星に会いたいと乞うて侍女を遣わせたからである。
魁星は〝星送り〟の準備に徹する村民らの手伝いをしつつ、空いた時間は土地を持て余した村民の空き家で天ノ雨村にやってきた目的である研究活動も同時に進めているようだった。そのため、魁星がどこに居るかは前日の彼の発言から日々推測し村中を探し回らなければならず、命に応じた華夏の侍女はほとほと疲れ果てたようすであった。それでも、華夏は侍女を走らせた。
案内役の侍女と共に『銀河廊』に上がると、魁星はその日その日に村で得た知見を華夏に話してくれるようになり、華夏は華夏で、村や〝星送り〟に関する魁星の疑問を星成之巫女らしくひも解いてやったあとにうみの話を存分に聞かせてほしいと頻りに強請った。ふたりの会話は基本的に問いかけと回答の応酬であったけれども、しかし、ときおりお互いの生まれや自身の嗜好についてこぼすこともあった。
二日、三日、五日、……やがて一週間と、一日一日が確かに過ぎゆくさなか、魁星との言葉のまじわりで華夏が手に入れた彼の情報は始めこそ家族の人数程度のものであったものの、日々を重ねるにつれ指折りかぞえるにも両手じゃ足りなくなるようになっていった。魁星は4つ年齢の離れた妹がいる。母は既に亡くなっており、祖母が母代わりだった。魁星の祖母はちいさな町でちいさな料理店を営んでいる。魁星の父はぷらねたりうむという施設の管理人で、大学で天文学を学ぼうと志したのは父の影響が大きい。魁星の部屋には5歳のころと13歳のころに祖父に買ってもらった望遠鏡と、20歳の時に自分でお小遣いをためて手に入れた望遠鏡の3つがある。好きな食べ物はお寿司で、辛い物があまり得意でない。それから、
「──恋人、ですか? うーん。お恥ずかしながら、いませんよ。生憎、空ばかりを見つめていたものですから。言い方を変えるなら、それこそ星に恋していたみたいなものですね。あたためた牛乳と天体図鑑を準備したら、布団をかぶって望遠鏡と一緒に窓際に座り込むんです。そうしてずっと星を見つめて夜を越えたことがいままで何回あったか、……」
華夏が自慢の琴で『星鳴り』の唄を弾いている際に、照れくさそうな笑みと共にうなじを掻きながら魁星がそうつぶやく。その顔が、可愛らしかった。えくぼをかたちづくる頬のゆるみに触れたかった。前髪の奥にうかがえるひたいの生えぎわをなぞりたかった。華夏は半分に割った木苺のような舌で、つい聞いてしまいそうになる。──なら、いずれ星に成るわたしは?
そんな戯言を口にできるはずもなかった。華夏のそばには侍女が居り、華夏の腹が蓄えている──魁星がやって来てから日々ふくらんでゆく──薄桃の感情の正体など知る由もない。華夏本人でさえ、魁星の手首に生まれる骨身の影や、首すじの凹みに目をうばわれる訳を知り得なかった。──華夏は、恋愛というものから絶対的に断絶された環境で過ごしていたからだ。
魁星と談笑する1日は、時間を惜しむ華夏の静止を振り切って素早く夜のとばりを空に被せていってしまう。化粧を終えた月が、だんだんと表情をあらわにしてゆく。あの方と共に居る時だけ、時間のあゆみが早くなってしまうのはなにゆえだろう? とうとうやってきた〝星送り〟の前夜、華夏は眠りにつく手前に星成之巫女としての目標を新たにひとつ、心にさだめた。
──わたしが星に成れた暁には、魁星さんと過ごす1日をすこしでも長くするために一生懸命、太陽よりもひかってみせる。そしてひと晩じゅう、うみの話を聞かせてもらうの。すなはまというところに無限に落ちているらしい、かいがらをいくつもいくつも、飽きず拾うみたいに。……
☆
〝星送り〟は陽が身を照らすほむらを消し月がまるまった背ぼねを徐々にただし始めてゆくさなかに行われる。まず最初に藍の衣服に腕を通した複数人の村民らが『宙の底』での修行を終えた星成之巫女を祭場にまで送り届け、巫女が祭壇に上がったことを確認した村長が祭の開始を合図するのだ。独自の和音で奏でられる笛の鳴りが村にゆきわたれば、星々は天ノ雨村からのその呼び声に気づき、星成之巫女を受け容れる階段を拵えてゆく。
階段を上がって村民の前に姿を見せた26代目の星成之巫女である寧々音の美貌は、やや離れた場所で廻り車に座って‶星送り〟を見守る華夏の目にもはっきりと影を残すくらいに鮮烈であった。数カ月前に『銀河廊』で顔を合わせた時よりも遥かに華やかで洗練されている横顔に思わず、息を呑む。うつくしいおんなは、自らの立ち振る舞いやかんばせのわずかな角度の変化、たったそれだけで他を圧倒し、声すら失くさせるのだ。
こつこつと並んだ骨の位置が想起させられるくらいに天へまっすぐ伸びた背に伴い、長く淑やかな首を彩る宝飾のそれぞれが寧々音を煌びやかに魅せていた。まなじりに引かれた発色のよい瑠璃と紅による化粧は寧々音の容貌を際立たせ、頭のいただきから侍女の手によって束ねられ、編まれた黒い髪と裾の長い巫女装束はずいぶん重たそうであるのに、瘦せた身体を震わせることもない。淡く儚い雰囲気を揺蕩わせる芍薬のような上品さと否応ない完璧さで以て、寧々音という星成之巫女は君臨していた。
「……あの御方が……」
「はい。26代目星成之巫女、寧々音姉様です。ああ、ほんとうに。……星のようにお美しいですよね」
「……ええ」
念願の〝星送り〟への参加が叶った魁星は、華夏の隣で──今夜、侍女どもは華夏のそばにいない。信頼できる方であることはこの2週間でわかったでしょう、〝星送り〟のあいだだけ魁星さんと二人になりたいの。そう華夏が事前に伝えておいたからだ。──村民らと同じく藍の衣装を着用して寧々音を視界の中心に据えていた。半開きになったくちもとに、薪を焦がすほのおの明るさが濃い橙をさす。祭壇で滞りなく進められる‶星送り〟の景色を虹彩にきざみ、嚙みしめるようにうなづく魁星のまなこの向きに、華夏はすこしだけ嫉妬をしていた。華夏は寧々音の立つ舞台にまだ至れない。じゅうねん、と両の指を伸ばす。まだ、折り返しにしか至っていない未熟さが、足踏みをしたくなるもどかしさとなって華夏を苦しめる。
役目を担うものどものがそれぞれ禊を終えると、『屑祓い』といわれる修祓によって巫女のけがれが落とされる。続いて今晩天ノ雨村におりてくる星々に喰らわせるための神饌を捧げ、村長の口から祝詞が奏上されれば、星成之巫女がとうとうその役目を果たす瞬間がおとずれる。──おとこの村民らが4人がかりで祭壇上に運んできたのは、『果て箱』だ。
おとなのおとこの腰ほどある高さの鋼鉄を6枚合わせて出来上がった灰褐色の箱に、砂金が塗りこまれた星の絵──夜空を模した細かな模様である──が彫刻刀でえがかれている。『果て箱』は星成之巫女が普段着に使用している巫女装束と同等の価値を持つともいわれ、星成之巫女を納めるにふさわしい箱がひとびとのまなざしに訴えてくる神々しさすら感じられる荘厳っぷりに、誰もがひと呼吸を忘れていた。
ただひとり、己が目の前に置かれた『果て箱』に臆することなくみだれのない所作で立ち上がった寧々音は、しゃらんと輪唱する鈴の音が聞こえるかのような麗しい目配せと長い睫毛のまたたきのみで、周囲の侍女に蓋を開けと要求している。
寧々音の視線に気づいて素早く動いた複数人の侍女の手によって、掛けられた錠を外された『果て箱』は口輪から解放された大口で夜空をほお張ろうとしていた。そうしてそこに、寧々音のほっそりとしたつまさきからふくらはぎまでがゆっくりと呑みこまれてゆく。月のひかりを多く吸ったがゆえに銀の粒子を放つようにも思える真っ白い肌が、みるみると鉄の内側に仕舞われてゆく。藍の衣装と鴉の濡れ羽のような長髪が寧々音を覆い、彼女が膝を抱えて座った姿勢になったところで、ようやく寧々音は『果て箱』の中に綴じられた。蓋に封がなされ、寧々音の姿はもう誰も拝むことが叶わない。とうとう彼女は星に成るのだ。
『果て箱』は、運ばれて来た時と同じくして4人の村民に担がれて、村の展望台と同等の位置にある祭壇のいただきにまで移動させられる。星成之巫女はそこで、月からの階段を待たねばならない。而して寧々音を孕んだ箱は、村の塀に植わられた金木犀の薪やかべんを乾かしたものの上に寝かせられた。
村民が『果て箱』から離れゆき、刹那の静寂ののち、……途端、祝砲の轟音が天ノ雨村を揺らす。鼓と笛と、それから──天で爆ぜる星の大輪だ。おおきく咲き散ったひかりの残滓を皮切りに、次から次へと空で破裂した星たちがきゃらきゃらと喚いて地に落ちてくる。降りて来た星たちは、巣のように『果て箱』を囲う金木犀の薪にくちづけをしてゆく。さすれば金木犀が両手を上げ、ほむらが成長する。その様は圧巻であった。濃紺の闇を埋め尽くす、幾万もの星の訪れ!
村民はみな、寧々音にどうか自分たちの声を空へと届けてもらうためにと頭を垂れて祈りをささげていた。星成之巫女である華夏だって、まなこを瞑り天ノ雨村の平和と穏やかな毎日のとこしえを願っていた。星が満ち、巫女が『果て箱』の中から昇りゆく。いまは、〝星送り〟で最も重要な時間であった。
しかし唯一人、魁星だけは顔を上げていた。作法は事前に村民から教示されていただろうに、手を合わせることもせず天ノ雨村の光景を唯一人、凝視していた。
華夏の隣に立つ魁星の足元に、びちゃびちゃと吐瀉物の飛散する音がした。驚いてまぶたの窓からその様を覗き込んでしまったのは華夏の失態だ。魁星は、血の池で蹲る亡者が屯する醜い地獄の底でも目の当たりにしたかの如き表情をさせていた。ひくついた口の端、くぼんだ目元、痙攣する指からあふれ出ているのは拭いきれぬ深い絶望だ。あまりに華夏や、村民らのものとは温度感の異なるその姿に華夏の方が引いてしまう。
「イカれてる……」
果たして華夏にしか聞き取ることのできないような、ろうそくの灯しびをかすませることさえもむつかしく思えるほどの小声でこぼした魁星は、隣に居る華夏の手を取ると勢いよく華夏を抱えて後方へと走り出した。
風が頬をすべる。葉が髪にからむ。土を削る足音が連れてゆかれる際の反動で廻り車がおおきな音を立てて横転するものの、魁星にそちらを構うようすもない。華夏たちの失踪には気づいているだろうけれども、村民の誰も華夏たちを追ってこようとはしない。当然だ。いまは星成之巫女を空に送り出す大事な祝詞の最中なのだ。戻らなくてはいけない。「かっ、魁星さん、降ろして! わたしをおろしてください!」それなのに、魁星はどんどん、林を駆けていってしまう。生まれて初めて叫ぶ華夏の声は虚しく闇に還り、墨で塗りつぶした木々に吸い取られて行ってしまうばかりだった。
それから止まらず、5分程度走り続けただろうか──目印も何もない林の果て、川のほとりにたどり着くと魁星は姫抱きしていた華夏をおろして、彼女の両の肩を掴んだ。短い間隔で上下する肩で息をしながら、彼は言う。
「……おかしいと思ってたんだずっと。なんでこんなことが許されてるのか、なぜ誰も疑問に思わないのかって」
「魁星さん。今すぐに戻りましょう。まだ間に合います。〝星送り〟をちゃんと見届けなければ。あれは、みなが祈らねばならないのです。星は我々を見ています。不届き物が居ると知れたなら、……」
「──星に成る巫女だなんて体のいい理由付けじゃないか。要は古臭い因習で選ばれるただの生贄だ! わからないのか!?」
今までのやわらかい物腰でなく荒い口調で、魁星は問いただすように、無自覚である罪人の罪をただしてやらんと言わんばかりに、華夏の身体を激しくゆすった。肉のうすい華夏の肩に食い込むその魁星の手は痛かった。初めてこの村を案内してやった際に、誰にも内緒で夢想した感触とは全く違う。華夏のやわらかくしろい脳みそで思いえがいていたものよりもずっと魁星の手は硬くて、大きくて、それから、とても乱暴であった。
「そもそも、生まれてすぐ親から引きはがしてあんな銀一面の目がおかしくなる屋敷に軟禁して20年間も他者とかかわりを持てない生活を強いていること自体、あり得ないことなんだよ! この村の外じゃ! 傷を作っちゃいけないからって常に侍女が何もかもを介助して巫女本人は、走ったこともない。箸を持ったことさえも! 近くにいつも誰かが控えていて、巫女についての日記をつける。その日の行動、与える食べ物から書物の類まですべて管理されているなんて洗脳して管理しているのと同じだ! 家畜みたいなものじゃないか!
それに、さっきまで生きていた人間をあんな鉄の箱の中で蒸し焼きにするだなんて人間の所業じゃない! 嫌な予感はしていたんだ、20回以上も行っている祭りなのに、記録には一人も老いた星成之巫女がいない。星に成るなんて、どう考えたって現実的じゃない。それなのにみんな、希望や夢を語るみたいに、奇跡は起こるんだとか尊い祭りだとかばかり言って‶星送り〟を楽しみにしている。どうするのかと思ったら、……」
「っち、違う。ちがうのです魁星さん。寧々音姉様は焼かれてなどいません。あのほのおは星の輝きであって、本物の火ではないのです。特別なひかりで、星成之巫女を導いてくれるんです」
「炎に特別も何もない! あれはただの花火だ! あんな距離で打ち上げたら、火花の多くが箱の近くに落ちることなんて明白なんだ。箱の周りに脂を多く含んでいて植物の中でも燃えやすい金木犀をわざわざ薪にして選んでいるのが、何よりも事実なんだよ! 故意で行っている。信仰心だとか伝統だとかじゃない。蒸し焼きだ! あの鉄の箱に閉じ込めてひとりの、……ひとりの人間を殺しているんだ! あの村の全員で! 根拠もない信仰と、勝手な理由で!
祭りは川の氾濫、水害を防ぐためだって言うけれど、行政が工事をしたおかげでそんなものも起こらなくなったそうじゃないか。記録だってある。過去の村長が判を押した県からの合意書だって。……なら、星成之巫女であるきみたちは何のために生贄にされているんだ? ……」
ちがう。ちがう。そんなはずはない。華夏はただただ必死に首を振った。それなのに、首飾りに連なる宝飾品たちのそれぞれがこすれる金属音に、焦燥感を煽られる。視界が、小石を投げ入れられた水面のようにゆらゆらとゆがむ。脳裏に燃ゆるほむらの影が、怪物となって寧々音を喰らうまぼろしを見る。──よしなさい、そんな妄想は。華夏は自らの呼吸を整えようと、ありもしない悪意を想像させる、頭蓋に張りつく黴をつめさきで剥がそうと必死に尽力した。いまこの瞬間、寧々音は村民らの目に移ることはない、巫女だけが観測できる階段をあるいて夜空に向かっているのだ。そうに違いない。そう在らなければ。そうでなければ、わたしたちは、
「僕がこの村に来たのは、生き別れになった妹を探しに来たからなんだ」
「……妹さまを……?」
「そうだ。君にも話した、4歳年下の妹だ。実際に会えたことはない。生まれてすぐ、母親ともども行方不明になったからね。顔を見たのは、……はは。さっきが初めてだよ。でも、一瞬でも顔を見てすぐに分かった。父からもらった母の写真と、そっくりだった。瓜二つだ」
自嘲ぎみに笑んだ魁星が空を仰ぐ。空には離れた場所からのぼる黒い煙と、散り散りになったのだろう星の四肢がちらと見えた。〝星送り〟はいまこの時もとどこおりなく行われている証拠だった。
唐突に告げられた新たな事実を、脳が適切に処理できるはずもない。4つ歳の離れた妹が居るという話は数日前に彼から伺ったばかりで、華夏の記憶にも新鮮に在る。母が亡くなり、祖母に育てられたという話も耳にした。けれど、それらがまさかおのれの足元すらひび割れさせる伏線──『宙の底』を見つめる魁星の目に在った哀れみの説明もできてしまう──だったとは思うまい。無意味に泡を食む魚のように口をぱくぱくとさせ、唖然として何も言えなくなってしまった華夏に、魁星は続ける。
「村長の家に上がらせてもらったときに、保管されている記録を見た。星成之巫女の出生記録だ。何冊かあるうちのひとつ、そこに寧々音の出生記録ももちろん書かれていた。でっち上げの記録だったよ。……20年前の天ノ雨村は、どうやら子どもにあまり恵まれなかったそうだね。大事な1年であったことは村民のだれもがわかっていたけど、生まれたのは男児ばかりで女児はわずか数人。その上、厄介な仕来りがゆえにただのおんなの子じゃあいけない。とびきりうつくしい子でなければだめだったからこそ、特に困ったと。
だから、街に降りた村民が狙って村の関係者でも何でもない母子を攫ったんだ。どうやって警察の目から逃れたのかわからないけど、僕の母は殺され、母に似て美人だった妹は知らない土地に攫われ挙句の果てに都合のよい供物に仕立て上げられた。母が居なくなった理由は父から長らく教えてもらえなかったけれど、それでも確かな足取りと証拠を何年もかけて集めて、そして僕はようやくこの村にやってくることができた。はたちになるまで書き綴られた寧々音の日記も村長の目を盗んで忍び込んだ書庫で目を通したよ。寧々音……いや、本来なら別の名であるはずだけど、僕はどうにか、名も顔も知らない妹を救ってやりたかったのに」
顔をうつむかせながら、しぼんだ肺の根から迫りあがる嗚咽をなんとか呑みこむようにして、魁星が深く息を吸い込む。華夏の肩に置かれた両の手は、乾いたくちびるから漏れ出てくる湿った吐息は、寒空の下に取り残された迷い子のように悔しさで震え、そして眼前で焼かれた妹の惨状にわなないていた。魁星の抱く激情の質量を、華夏は計り知ることが叶わない。華夏は声らしい声も何も発することはできなかった。周りに立つ山の静寂は、獣の腹の中のようだった。
おそろしい、とただひたすらに本能が怯えている。星成之巫女の在り方を疑っているわけでない。修行を果たした麗しい寧々音が星に成ったことを、華夏はいまだに信じている。生まれて間もなく植え付けられた常識を塗り替えることはむつかしい。巫女はみな、豊かなひかりの群れに迎え入れられたのだろうと思っている。華夏はまだ、自らの役目と責の重みを自覚している。修行だってやっと半分を終えられただけなのだ。これからも華夏は『銀画廊』で生きてゆく。侍女たちとともに──うみを、きっと見にゆけないまま村で生きてゆく。
いくらか沈黙を共有していると、魁星がそろりとおもむらに顔を上げた。その顔に、絶望や怒りは見えない。彼はめがね越しにまっすぐと、華夏のひとみを射抜く。その虹彩の奥に、華夏は星の如き強いひかりを宿した意思を見る。
「僕と来ませんか、華夏さま」
魁星の手が、華夏の肩からおりてそっと、か細い花の茎を抱きとめるように両手を包んでくる。なまあたたかい体温と明らかな慈愛が察せられるその力加減に、華夏の肩がひくりとはねた。唐突な肌の接触に急いた心臓が大声を上げている。つめの白い部分に至るまでが、骨ごと焦げそうになるくらいの熱さに襲われている。たすけて、と思わず言ってしまいそうになった。だって、こんな、待って。そう伝えたいのに、このまま魁星にふれられていたならどれだけ幸せだろうと視線をさまよわせる。
「僕の車は停めてあります。ここからすぐのところです。回収できなかった荷物は置いて行ってしまいますが、失くして困るものは既に車の中へ入れています。今すぐにでも」
「待って。待ってください。そんな、だって、わた、わたしには役目があります。星に成らなければいけないんです。巫女として、みなのいのりと村の平和を願わねば」
「10年後のあなたにあんな、……僕の妹と同じ目に遭ってほしくありません。いや、言い方が悪かったな。ええと……」
魁星の手に力がこもる。
「──僕と今から、海を見に行きませんか。
今晩車を走らせたなら、朝には日の出とともにかがやくきれいな海を見ることができます。海、見てみたいって華夏さまも仰ってたいでしょう。気に入った貝殻を拾ってアクセサリーにしてもいい。それくらいの工作は、僕にだってできます」
ふいに、華夏は魁星から与えられた魅力的な誘いにうなづきたくなる。うみを見たい。すなはまを踏んでみたい。貝を磨いて集めたい。動いている蟹を捕まえてみたい。でも、巫女の修業がある。ううん、それでも魁星さんとこうして居られたら。いいえ、わたしは〝星送り〟に戻らなくては。……そうして悩む華夏と、華夏の返事を待つ魁星のふたりを抱いた空間に波を立てる刹那は、まさしくとこしえのようだった。とわに在れたなら、どれだけ!
しかし、刹那は続かずまばたきにも満たない。夜は永く空を抱きしめはしない。
ごっ。と言った。言葉では形容しがたく、しかし、けして気持ちのよいものではないことが直感で悟れるそんな鈍い音が華夏の正面奥から聞こえたのは、魁星の垂らしたいとおしい誘惑の実を手に取ろうとして直後のことだった。
華夏の手から熱が消える。てのひらが離れ、魁星が不自然に揺らめいて倒れる。ひかりのない視界で、黒の液体が散って華夏の巫女装束に付着する。
華夏の前には、剣の如く一本の角材を握り締めた侍女と、おとこの村民が数人立っていた。掲げられた角材のてっぺんは、墨汁に浸らせたみたいに汚れている。華夏のそばに、脳天を撃たれた鹿のように地面にうつ伏せている魁星がいる。安易な足し算だ。わかりやすい悲劇だ。魁星の後頭部から、黒液が時間をかけて広がってゆく。疑いようのない死臭が立ち込める中で呆然と立ち尽くす華夏の目元を、誰かが布で蔽う。醜いものを映さぬよう、臭いものには重い蓋を被せてしまうように。
「華夏様、ご無事で何よりです! ああ、……いくらご命令とはいえやっぱりこんな男に華夏様を任せるんじゃなかった!」
「きっとひどいことをされたんだわ。華夏様、お顔が真っ青ですもの」
「間に合ったようでよかった。華夏様の美しさに我を忘れた馬鹿者に攫われていたかもしれん」
「いやあ。怪しい奴だとは思っていたんだ。しかし、礼儀はよかったもんですっかり騙されちまった。まさかここまで無礼な奴だとは思わなんだが」
「華夏様、お怪我はありませんか? 寧々音様の〝星送り〟は先ほど無事終わりました。我々の願いは星様に届けられましたよ。ご安心くださいね」
「巫女様、『銀画廊』へお戻りくだせえ。こいつの処分はおれらでやりますんで。お体も冷えたでしょうし」
「さあ、華夏様。廻り車に腰を下ろして。」
華夏の体をささえ、くずれる重心を担うようにひとつとふたつ、みっつとよっつの手が肩や腰に添えられて、華夏はなじみ深い感触をさせた椅子に座らされた。華夏には何も見えない。華夏には何もわからない。華夏には何もできることがない。村民に救われた──ほんとうに?──華夏は、己が四肢に重く錆びついた鉄枷が嵌められる様を幻視した。「洗脳して管理しているのと同じだ!」「家畜みたいなものじゃないか!」魁星の訴えがこだまし、華夏の心臓に雪崩れ込む。声は鼓動になり、華夏の手足をつよくおののかせる。
……わたしたちの離脱を知っていたの? どうしてみんな、暗やみで気配を消していたの? なぜ足音を潜めたの? わざわざ、待っていたというの? 声をかけてくれればよかった、そんな角材で殴らなくたっていいでしょう! ところで、魁星さんは生きている? これ以上の暴力はよして。早く処置をして頂戴。おねがいよ。だって魁星さんに悪意はなかった。ほんとよ。信じて。わたしを案じてくれただけなの、たとえ真実でない魁星さんの妄想のなれの果てだったとしても……。ねえ、それから、寧々音姉様はどうなった? まさか、まさかね。焼かれて死体になるだなんて、そんなわけはないよね。ねえ、あなたたち?
華夏はひたいの手前にまで埋まる問いかけのどれもを投げかけようとして、しかし、おそらく待ち受けている真実や不用意に踏み込んでは自らの立場さえ失われるうす暗い雰囲気に耐えられる気がせず口をつぐむことを幾度か繰り返した。催す吐き気が喉を突く。ほんの数分前に鼓膜から沈んできた彼の声音がもたらした言葉のそれぞれが、華夏の神経を窮屈に絞める。息は今でもままならない。そしてとうとう、川の呼吸音が遠くになるころようやく、喉元を超えてきたひとつだけを華夏はつたない言の葉にし、むすんだ。
「寧々音姉様は、お役目を果たして星に成られたの?」
廻り車を押す侍女は、それが至極当然の事実であるとでも言いたげにさして間を置かず答える。
「ええ。勿論。──いっとううつくしい星に」
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ゆるりとまぶたを開けた際、小ぶりの鼻がしらを澄ませて香るにおいは夜が明ける空のものとよく似通っている箇所が多々ある。華夏はそう思っている。鼻腔をゆく静謐な空気の足音がするのだ。五感のどれもが鮮明になり、水滴の弾きから花畑に集う蝶の羽音まで、何もかもを細胞単位で感ぜられる錯覚に囚われる。星に成るとはこういうことなのかもしれない。人の持つべき感覚から、はなれてゆく。
最後の修行を終えて『宙の底』を出た華夏の脳裏に灯るのは、10年も前のいにしえの記憶だった。どうしていまさら、ずいぶんと長い間忘れていたあの日のことを思い出すのだろう、と祭壇までの道を廻り車に乗せられながら思考する。かいせい、という名前の輪郭を舌さきで転がして飲み込む。懐かしい名だ。懐かしいひびきだ。
華夏は、とうとう27代続いた星成之巫女の中でもいちばんの巫女だと誰からも称賛されるほどの巫女へと成長した。容姿の端麗さも然る事乍ら、言葉遣いから指さきの動かし方のひとつ、視線の誘いに豊かな色香を漂わせているのにけして下品でなく、我こそが真に星で在ると言わんばかりの佇まいで地に在った。誰もが、華夏こそ星に相応しいと言った。誰もが、華夏こそ一等星の巫女だと認めた。華夏も、それらの声を受け止めながらも評価に甘んじることはなく己惚れることもせず、しかし大っぴらに見せびらかすわけでなく淡々と、着実に修行をこなし続けた。『銀画廊』での暮らしはけして不自由なものでなかったし、星成之巫女のための道具や生活に必要なものは十全に揃えられており、華夏が望めば南瓜を使った煮つけだって二日おきに出された。そんなすこしの贅沢だけを頼りに、華夏は星と孤独に向き合い、目出度く今日を迎えたのだ。
10年前に28代目の星成之巫女である莉々李が生まれた日のことを憶えている。あれは寧々音の〝星送り〟を終えて2か月が経った雨の日のことだった。『銀画廊』に運ばれてきた莉々李は母にも父にもまったく似ていないが至極可愛らしい顔のつくりをしていて、きっとどこかで華夏の血を引いたのだろうと侍女の誰かが言った。返事こそしなかったけれど、加護をおまえにと赤子のまぶたを撫でてやる華夏も内心同意したものだ。なにせ、めずらしいものでなくあり得る話だった。天ノ雨村に生まれたおんなたちは、基本的に村のおとこと番う。過去の巫女の血が混じった村民がいないことは考えづらい。
ほんのりと華夏のおもかげを宿した莉々李は、10歳の華夏と同じくして廻り車に乗り、この〝星送り〟を見届けに来ていることだろう。10年後、自分もたどるはずの運命の果てをおさなきまなこに焼き付けようとしている。
夜風にさらした銀のうつわの如くつめたい空気をものともせず、祭壇の手前に至り、廻り車から優雅に足をおろして、歓声を耳にしながら華夏は階段を一段一段、薄氷のおもてをゆくようにして慎重に、それでいて、堂々とした立ち振る舞いで天へとのぼってゆく。一歩、また一歩と踏み進めるにつれて華夏が救わねばならない村民らの顔が見える。これから迎えられる先の空の星が見える。月が近い。憧れ、見上げてばかりいた夜空は、いまでは親しみのある寝台のようだった。
祭の開始が合図され、笛の鳴りが村にゆきわたる。『屑祓い』によってうつしよで華夏が纏った穢れは剥がし落とされ、村で獲れた野菜や魚で作られた食べ物が神饌として星どもに捧げられる。村長の口から祝詞が奏上されると、『果て箱』が運ばれてきた。華夏が身を納める箱だ。この中で華夏は、見事星に成ってみせなければいけない。
そうしてあけ放たれた箱のふうちにつまさきをかけたところで、華夏はひとつの迷いを回顧する。
──嗚呼。そういえば魁星さんと、うみを見にいくことはできなかったな。
華夏は『果て箱』で膝を抱える。華夏は今晩星に成る。みなのいのりが聞こえる。
☆
「速報です。
──年──月──日、強い勢力を持った台風──号が──県天ノ雨村に上陸しました。台風の接近と通過により村は記録的な大雨に襲われ、大規模な河川氾濫や土砂災害に見舞われています。それらの影響で、天ノ雨村では少なくとも死者数百名に及ぶ人的被害が発生しています。原因は河川の堤防が決壊したことによるものと報じられていますが、今現在詳しい被害状況についてはわかっていません。──」
★
「天国ではみんな、海の話をするんです。だから、海を知らない華夏さまは仲間外れにされてしまうんじゃないかと思って」
朝焼けに照らされたこがねの砂浜に立つ魁星は、華夏の訪れに気づくと跳ねた毛の目立つ後頭部を搔きながらはにかんだ。華夏は呼吸を忘れる。嗅いだことのないにおいを運んだ風が頬に吹きつけていた。そばでは大量の水が、地を抱いている。
「……わざわざ、ここで待っていてくださったんですか? 10年も?」
「後悔していたものですから」
果たしてその言葉が暗に指し示している対象が、妹だった寧々音のことか華夏であるのかはわからない。けれどもそう言って鼻筋にとどまるめがねを押し上げた魁星は、華夏へと歩み寄った。靴を履いた彼の足跡が、浜に刻印される。魁星の見目は、10年前となんら変わっていなかった。華夏の背だけが伸びていて、華夏の容姿だけがおとなになった。目線が近づいたことで、魁星の左目のあたりに丸い跡がうすく付いていることを識る。……それが、望遠鏡を頻繁に覗いていたことで癖づいたものであろうことは、安易に察せられた。
「あなたの忠告を聞いていたのに、わたしはあの屋敷で、……牢で自らの運命に抗えませんでした。あなたが明かしてくれた事実を、そんなことはないと見ないふりをして拒みました。あなたとの出会いそのものを忘れてしまおうと、修行に没頭しました。その果てにわたしは、……結局わたしは、いっとうみにくい呪いを抱えて死んでしまいました。みなの祈りも空しくあの村には天災が降りかかることでしょう。天国には行けません。海の話を誰とすることも……」
「でも、僕と海を見たいと思ってくれたからここに来てくださったんでしょう?」
華夏を贄に据える伝統を重んじた村の人間たちに悪意があったのか否か確認するすべはない。死の際で爆ぜさせた泥の如き悔恨は、死して尚華夏を蝕むつるぎだった。村ごと呪いに埋めようとしたおんなが天国にゆける筈もない。それだというのに、魁星はためらいもせずにだらんと垂れていただけの幽霊じみた華夏の手にふれてくれる。それは自力で飯を食うこともかなわず、いつだって他者のために、いのりと願いに使役されすぎた手だった。
肌の重なりから伝う魁星の手のひらは焦げた華夏の体を癒すようにあたたかかった。海を見てみたい。あなたと一緒に。華夏の心に残ったものはもはや、たったのそれだけだった。
「あちらに綺麗な白い貝殻が沢山落ちているんです。浅瀬ですが、すこし泳げば珊瑚も見られます。穏やかにふたりで歩いて、あなたの話を聞かせてください。それから、僕が謝りたいことも、謝らなくちゃいけないこともたくさんある。僕の懺悔を聞いてくださいませんか。
ね、華夏さま。砂浜は足がとられてしまいますから」
浅くうなづきなましろいにくを握り返す華夏の反応にひとみを和らげて、魁星が華夏の手を引く。10年前に華夏と約束を結ってくれたときと相違ないここちのよい体温と感触に、梅雨入りの窓のようにまなじりがしとどに濡れてゆく。10年前から好きでした、と心臓の深部に隠していた感情を華夏が吐露すると、魁星は目を丸くしてから、めがねの取っ手が掛かる耳の輪を赤くした。
華夏は右に視線をやった。海は凪いでいる。波が砂を攫ってゆく。星がたどり着くさきは空でなく、この海なのだ。このことを日記に記して後代の子たちに伝えてあげなければ──そう考えてすぐ、もう星成之巫女はいないのだと気づいた華夏はとがった貝がらの破片を踏むことも厭わずに、おおきな一歩で浜をあゆんだ。
