連続小説『チェシャ猫の巣』第五話「残されたもの」
机の上に、紙が置かれていた。
見覚えはない。
けれど、それを見た瞬間に、わずかな引っかかりだけが残る。
白い紙。
端が、少しだけ折れている。
そこに書かれている文字は、短い。
“あなたが選びました”
チェシャ鏑木は、その紙を指でなぞった。
誰が書いたのかは分からない。
いつからここにあったのかも分からない。
ただ、それがここにあるという事実だけが、妙に確かだった。
「ねえチェっちゃん」
背後から声がする。
振り返るよりも先に、誰かは分かっている。
named_Mが机に身を乗り出し、紙を覗き込んだ。
「それ、なに?」
鏑木は視線を落としたまま答える。
「記録、でしょうね」
「記録?」
Mはその言葉を繰り返し、首を傾げる。
「なにそれ。メモみたいなやつ?」
「似ていますが、少し違います」
鏑木は紙をそっと机に戻した。
触れ方は丁寧で、どこか距離を置くようでもある。
「記憶は、あなたの中にあるものです」
「うん」
Mは軽く頷く。
「でも、記録は外に残る」
「ふーん……」
Mは紙を手に取った。
軽く裏返す。
裏には何も書かれていない。
もう一度、表に戻す。
同じ文字が、そこにある。
「“あなたが選びました”…」
小さく読み上げてから、鏑木を見る。
「あたし?」
鏑木はすぐには答えない。
視線だけが、わずかに動く。
「でも、覚えてないけど」
「そうでしょうね」
あまりにも自然に返された言葉に、Mは少しだけ眉をひそめた。
「なにそれ」
少し笑う。
「選んだのに、覚えてないの?」
「ええ」
鏑木は頷く。
「選んだという事実だけが残ることは、あります」
Mは紙の文字を指でなぞる。
インクの感触はない。
書かれているはずなのに、何も引っかからない。
「変なの」
ぽつりと呟く。
「なんでこんなの残ってるの?」
鏑木は、ほんの少しだけ笑った。
「残っているのではありませんよ」
その言い方はやわらかいのに、どこか引っかかる。
「残されたんです」
「誰に?」
Mはすぐに聞き返す。
鏑木は紙から視線を外し、ほんの一瞬だけ考えるように間を置いた。
それから、軽く首を傾げる。
「さあ」
あっさりとした返答だった。
それ以上は、何も続かない。
「でも」
鏑木は静かに言葉を継ぐ。
「この場所では、消えたものほど、こうして残ることがあります」
Mは眉を寄せる。
意味を探そうとして、やめた。
その代わりに、もう一度紙を見る。
“あなたが選びました”
同じ言葉のはずなのに、さっきよりも少しだけ重く見えた。
「ねえチェっちゃん」
「なんですか」
「これさ」
Mは紙を持ったまま、少し考える。
言葉を探すように。
「あたしが選んだなら——」
そこで止まる。
続きが出てこない。
何かが、うまく繋がらない。
視線が文字に落ちる。
そして、ゆっくりと口にする。
「なんで、“あなた”なの?」
鏑木はゆっくりと顔を上げた。
その問いを待っていたかのように。
「いいところに気づきましたね」
声は穏やかだった。
だが、その奥にわずかな温度差がある。
紙は、変わらずそこにある。
“あなたが選びました”
誰が書いたのかは分からない。
誰に向けたものなのかも分からない。
ただ一つ分かるのは——
それを読んでいる“今の誰か”に向けている、ということだけだった。
(第六話へつづく)
