短編集 その1
あらすじ
一話五分で読める短編集。日常から少し離れて、読書に浸り、また日常に戻ってくる。
ロボットペットを愛してる
「お願い、お母さん、買ってよ!」
ガラスのショーケースの中から、生まれて数か月の子犬が小首をかしげて、まん丸の目で少年を見ていた。少年は地団太を踏み、おねだりをする。もうこの状態になってしばらくの時間が経っていた。
「うちのマンションでは飼えないって何度も言ったでしょ?それに生き物を飼うっていうのは責任を伴うの。毎日ご飯をあげて散歩をして、予防接種やトリミングに行って、もちろんうんちだってするんだからそれもちゃんと片付けなきゃいけないのよ。タカシには難しいんじゃないかしら」
母親は辛抱強く少年に説明した。少年の目には大粒の涙が浮き上がり、ぽろぽろとこぼれた。近くで見ていた定員が駆け寄って来る。
「やだ。犬飼うもん。だって、おうちに帰ってきたとき、犬がいたらもう寂しくない」
「うちは共働きで。帰りがどうしても遅くなるんですよ」
母親は店員に説明するように言った。最近のほとんどの家庭は共働きだ。少年はいわゆる鍵っ子というやつなのだろう。
「ああ、それでしたら」
定員はレジカウンターの下から一枚の広告を取り出して母親に見せた。
「ロボットペットがおすすめですよ」
『ワンワン!』
部屋の中を犬型のロボットが駆け回っている。犬種は黒のダックスフンドだ。最新技術を駆使して作られたそのロボット犬は、毛並みやしぐさもリアルで、本物の犬と並べてもすぐにはロボットだとわからない。
「よし、おまえの名前はペスだ!」
少年はロボット犬を抱き上げて言った。ペスは尻尾を振った。ペスの首輪にはスイッチと充電用のプラグを挿す穴があった。
「大事にするよ。ずーっとずっと大好きだよ」
「タカシ!ペスを散歩に連れて行ったの?最近ずっとゲームばっかりやっててペスに構ってないじゃない」
帰宅した母親は、リビングの大きなモニターでゲームをする少年に言った。ペスは部屋の隅で充電用ケーブルにつながれてピクリとも動かない。
「設定で行ったことにしたから大丈夫」
「ご飯はあげたの?」
「大丈夫だって。今日はゲームがしたいんだ。ペスの世話はオートモードにしてるの」
少年はモニターから目を離さずに言った。
「タカシ。ゲームをやめなさい」
母親は静かに言った。少年はその威圧感にしぶしぶといった様子でコントローラーを置く。
「あのね、あなたが飼っているペスはあなたのペットなの。ペスの飼い主はタカシだけで、ペスにとって自分の世話をしてくれる人はタカシだけ。あなたが犬を飼いたい、その責任を持てると言ったからペスはうちにいるのよ」
「でも、ペスはロボットだもん」
「ロボットだろうと、ペットであることには変わりないの。今からずっとペスの電源はオンにしておきなさい。オートモードは禁止」
少年は不満げな顔をしたが、母親が険しい顔をするので頷いてペスの電源を入れた。
『ワンワン!』
ペスがゲームをしている少年の足元にまとわりついてくる。口にはリードをくわえて、散歩の時間だとアピールしているのだ。
「しょうがないなぁ」
少年はしかたなくゲームを中断して立ち上がった。ペスは少年の周りを駆け回った。リードが絡まる。
「こら、おとなしくしろよ」
少年はペスを抱き上げてその短い足からリードをほどいてやる。ペスの体は冷たく、ぬくもりは感じられない。
少年は玄関のドアを開けた。雨が降っていた。雨降りの日はペスが決まって泥だらけになるので、風呂に入れるところまでがセットになる。母親が帰ってきたときにペスが汚れたままだと怒られてしまう。
「めんどくさいなぁ」
少年はため息をついた。
散歩の最中に雨はだんだん強くなり、少年は途中で引き返した。ペスの体を風呂場で洗い、リビングに戻って来る。ペスは外の嵐に反応しているのか、窓辺で激しく吠え始めた。
「ペス、静かにして。隣の部屋の人に怒られちゃうよ」
少年はなだめようとするが、ペスは雨に向かって吠え続ける。
ピンポーン、とインターフォンが鳴った。少年が背伸びをしてモニターを見ると、隣の部屋の住人のようだった。
「ペス!静かにしてったら!」
またインターフォンが鳴る。少年は焦ってペスを抱き上げる。ペスは冷たい。
少年の心にはふと、ある想像が生まれた。もしかしたらペスはさっきの散歩とシャワーでどこか故障してしまったのではないか。だからこんなに狂ったように吠えるのをやめないんだ。
インターフォンが鳴る。
少年はペスを両手で高く持ち上げた。そして、床に向かってたたきつけた。たたきつけられたペスは静かになる。そうか、ペスが壊れちゃったら、もう世話もしなくていい。少年はもう一度ペスを高く持ち上げる。
「タカシ、何してるの?」
声がして振り向くと、母親が震えながら立っていた。
「ペス、壊れちゃった」
「あなたが壊したんでしょう。……あなたを、そんな子に育てた覚えはありません」
母親は少年に近づいて目線を合わせてしゃがんだ。
「壊れちゃったのね」
母親は少年の首筋にあるスイッチを切った。
二極点
「御覧ください。見えてきましたよ!」
記者が興奮した様子で前方を指さす。テレビクルーはスノーモービルに乗って真っ白な地平線へと突き進んでいた。見渡す限りの雪原と雲一つない青い空。その地平線の間に、何か地上からそそり立つ背の高い塔が見えていた。スノーモービルがその塔へとぐんぐん近づいていくと、徐々にその塔の細部が見え始める。
「あれが今年で50周年を迎える人類の希望の塔、ノースポールです。北極点に数ミリの誤差もなくまっすぐに立った白い塔は、直径15メートル、高さは100メートルです」
記者はカメラに向かって説明した。
スノーモービルは塔の根本あたりでエンジンを止めた。塔の根本にはたくさんの人間が集まって何か作業をしているのが見える。
「今日はここ、北極点で人類のために働く、名誉ある作業員たちのお仕事の実体を取材していきます」
テレビクルーがスノーモービルを下りて塔に向かって歩いていくと、オレンジ色の作業着を着た、責任者らしき人が歩いてきて会釈をした。
「ノースポールの責任者であり、地軸矯正理論の提唱者でもあるスミスさんです。さっそくお話を伺っていきましょう」
記者はマイクを向ける。
「まず、地軸矯正理論について簡単に説明していただけますか」
スミスと呼ばれた初老の男は真面目な顔で頷いた。
「はい。地軸矯正理論とは、数十年前から問題になっている地球温暖化を解決するための根本的、有効的な理論です。地球は23.4度も傾いているわけですが、この傾きのせいで夏は超暑く、冬は超寒いというめんどくさい気候になってしまっています。もしこれが垂直とは言わないまでも、10度くらいの傾きになったなら、地球での一年間は春や秋のようになり、ずっと暮らしやすくなるでしょう」
「で、地軸の傾きを調整しようという活動が行われているわけですね」
「そうです。北極点と南極点にそれぞれノースポールとサウスポールを立てます。そして、そのポールに縄をくくりつけて同時に反対側に引っ張ります。地球は自転をしているので引っ張りやすい方向というのは毎時刻変わります。だから、北極では時計回りに、南極では反時計回りに回りながらポールを引っ張るのです」
カメラはノースポールの根本を映す。ポールには数えきれないほどの多くの縄が巻かれ、筋骨隆々のマッチョたちがそれを引っ張っている。
「ちなみにこの50年で地軸はどれくらい傾いたんですか?」
「……」
スミスは咳払いをした。表情が暗い。
「ありがとうございます。では次に、実際に作業している作業員さんたちにインタビューをしてみましょう」
記者はまあまあイケメンでカメラ映えしそうな、浅黒い肌の細マッチョを捕まえてきてカメラの前に出した。
「ここに働きに来てどれくらいですか?」
「ちょうど一年くらいですね」
細マッチョは真面目そうな顔をしており、背筋を伸ばして姿勢が良い好青年だった。気温はマイナス以下だが、上裸の胸板には汗が光っていた。
「ここではどんな仕事を?」
「そりゃあもう、朝から晩まで一心不乱に縄を引っ張っています。地球の未来のために身を粉にして働くというのは気持ちのいいものです」
「地球のために働くというのは誇りが持てる仕事ですね。ここで働こうと思ったきっかけは?」
「ええと、雑念を消したかったからです。実は僕、去年彼女に振られて。振られた理由が真面目過ぎるから、だったんです。それで、生きる理由がなくなって……、ヒック、でも、うう、こんな真面目しか取り柄の無い僕を必要としてくれる仕事って……これしかなくてぇ」
細マッチョは泣きだす。だいぶ放送事故なのでカメラは適当に青い空を映している。
「あ、ありがとうございました。じゃ、別の人にも聞いてみよう」
記者はインタビューを切り上げた。
「他に良い人が見つかるさ。大丈夫、君はけっこうイケメンだよ」
記者はカメラ外で細マッチョの肩をさすった。
「僕、毎日手紙を書いてたんですよ。一日も欠かさず変わらない愛を伝えていたんです。でもそれが彼女にはめんどくさかったらしくて。僕、彼女のことを理解したつもりになっていたけど、なんにも理解してなかったんだな。真面目すぎるのがいけないと言われたので、真面目じゃなくなるにはどうしたらいいか真面目に考えたんです。でも、わからなくてぇ」
「真面目なんだね」
カメラは今度は縄を一生懸命に引いているシロクマを映す。
「この仕事を誇りに思いますか?」
記者はマイクを向ける。
「ガウガウ」
「誇りに思うそうです」
一通り取材を終えてテレビクルーは赤道近くの本社に戻った。
「さて編集するとするか」
「え、南極には取材に行かないんですか」
記者は驚いて言ったが、編集長は首を振った。
「いや、北極だけで十分だろう。南極に行ったって画は全く変化が無いし、どうせ縄を引っ張ってるだけで仕事内容もおんなじ。違いなんてせいぜい時計回りか反時計回りかの違いだけだろ」
「でも、北極のクマにはインタビューしたのに南極の方はインタビューしないなんて不公平じゃありませんか?」
「南極にはクマいないだろ」
編集長は予算を気にしてかあまり乗り気ではなかった。
「じゃあ僕だけで行きますよ」
記者は決意した。毎年このテレビ局では北極のことだけ取材して報道していたが、北極での仕事の雰囲気と南極での仕事の雰囲気はもしかしたら違うかもしれない。それは取材しなければ決してわかることはない。いちジャーナリストとして、たとえ結果的に無駄だったとしても確かめなくては気が済まなかったのだ。
「見えてきたぞ、あれがサウスポールか」
白と青の水平線に高くて白い塔が見え始める。
「すいません、赤道のあたりから来たテレビ局の者ですけど。取材させてもらってもいいですか?」
記者はビーチパラソルを広げ、その下でデッキチェアに寝そべって本を読んでいる男に声をかける。オレンジ色の作業着を着ているので休憩中の作業員だろう。
「いいよ。って言ってもここには雪以外特になんにもないけど。何を取材したいんだい?」
男はでっぷりとした身体をデッキチェアから起こす。
「地軸矯正理論の最先端の現場の仕事について」
「地軸矯正理論!」
男は笑った。
「南極でそんな大層な仕事をしてるやつは見たことないな。みんなたいてい朝の早い時間に踊りながら縄を引っ張って、時々縄跳びなんかしたりして、その後はすっかり自由時間。酒を飲んだり、日光浴をしたり、ホッケーと雪合戦がアツいな」
記者がポールの根本を見るが、縄が雪に埋もれかかっているだけで、それを引っ張っている人は一人もいなかった。記者の足元をペンギンがつーっと滑って行った。地軸がさっぱり傾かないわけだ。
「地球の未来を守る仕事に誇りは感じますか?」
「南極の空気は埃一つなくて綺麗だよ」
「人間のすれちがいについてどう思います?」
「気にしないほうがいい。気楽に生きればそのうち噛み合うさ。地球はいつでも回ってるんだぜ?」
男は陽気に言った。人間の営みとは実はこんなものなのかもしれないと記者は思った。たくさんの人間が力を合わせたり邪魔をしあったりして、知りたいことを知り、知らないことは内緒のままで、やりたいことに力を注ぎ、健気に生きているのだろう。
記者は赤道に戻ると北極の細マッチョに手紙を書いた。
「今度、南極の女を紹介するよ」
返事が来るかどうかはわからないし、どちらでもよいと記者は思った。
鏡よ鏡
「ねーアスミ、私さ、気づいちゃったんだけど聞いてー」
昼休みの教室は談笑の声であふれている。
「何ぃー、モモカ。今ちょっとアイラインやるのに忙しいんだけど。次の時間の勉強でもしたらー」
スマホのインカメラを駆使しながらギャルが返事をした。昨日の夜に予習をしすぎたせいで朝メイクする時間がなかった。近いうちににテストがありそうだ、という予感がしたためちゃんと準備をした、根は真面目なギャルである。
「聞いてってば、割とすごいことだよ。私、世界の秘密に気づいちゃったかも」
真面目なアスミとは真逆のモモカは、次の授業のことなど頭に全くないようで、のんびりと昼休みの雑談に興じている。モモカはアスミの後ろまで歩いて行って肩を小突いた。
「あー!ずれたー!」
アスミは悲痛な声で叫んだ。アイラインは耳まで届くほどはみだした。
「まじふざけんな。もぉー。一瞬でブスじゃんか」
「まさにそのこと。あのさ、写真に写った自分よりもさ、風呂上りに鏡で見る自分の方が可愛くね?」
「写真って、ノーマルカメラの話?」
アスミはメイク落としではみ出したアイラインをこする。
「うん。どう考えても風呂上りのほうがすっぴんだし、眼鏡だし、しゃくれてるのに、なぜかその時のほうが証明写真とか集合写真の何倍も可愛く見えるの」
「風呂上りにしゃくれてるのはあんたくらいだと思うけど、まあたしかにわからんこともないかも。血色がいいからかな?」
「しゃくれと血色って関係あるの?」
「血色悪いよりは血色良い顎のほうが可愛いと思うよ」
アスミは適当にあしらう。
「それでさ、私は、思ったんだけど、鏡の中の自分を見るときってさ、私の顔と私の目に特に遮るものが無いわけでしょ。写真は間にカメラがあるけどそれが無いじゃん。てことはさ、私の目は、私の頭が思う通りに私の顔面を見るってことになる」
モモカは真剣な顔で言った。
「えーっと、モモカは頭の中では、モモカの顔面が現実よりも可愛いと思っているから、鏡の中のモモカの顔面を見たとき、カメラが正直に映す現実より可愛く頭が認識しちゃってるわけだ。脳みそに『私可愛いフィルター』を一枚挟んでると」
モモカはアスミの要約を聞いてこくこくと何度も頷いた。
「それで?いったいその発見が世界の秘密とどう関係あるわけ?」
「それはね、そのフィルターは、鏡の中の私を見るとき以外も発動するんじゃないかってこと。例えばさ、私がアスミを見るとき、アスミのことを最高に可愛い友達だって思ってるから、アスミを脳内フィルターに掛けながら見てるかもしれない」
「発想の飛躍だ。大発見だね」
アスミはインカメラを起動させっぱなしだったスマホを机から取って、カメラを頭上に掲げ、ポーズをとる。ギャルの条件反射に従い、モモカはすばやく前髪を直してその隣でポーズをする。写真を撮る。この間3秒。
「さて、久しぶりにノーマルカメラで自撮りしたわけだけど、カメラに映った私たちは果たしてブスかな?」
二人は写真を見た。
「アスミ、アイラインなんか引かなくても可愛いよ」
「えー、そんなことないよー。モモカもちゃんと可愛い」
二人は顔を見合わせた。そしてお互いの顔と写真の中の相手の顔を見比べる。
「やばい、モモカ。あんたマジやばいことに気づいちゃったかもしれないよ。私から見て、現実のモモカと写真のモモカはちゃんとどっちも可愛い。私はモモカを見るときいつも『モモカ可愛いフィルター』をかけてる。でも私は、写真の私の顔面の方が可愛くない気がしてる」
「でしょ!これがやばい大発見だって。私も現実のアスミも写真のアスミも可愛いと思うけど、写真の私は割とブスに見える。フィルターがあるおかげで世界中の人は他の人と友達でいられるんだよ。そして、自分のことも好きでいられる。多少ブスでも、幸せに生きることができるってわけ。まじ良かったー!世界の秘密だよ!」
モモカはその場でぴょんぴょんと飛び跳ねた。短すぎるスカートの中が見えそうになるが、幸か不幸かここは女子高なので誰も咎めない。アスミは眉間にしわを寄せてうなると、言葉を続けた。
「違うよモモカ。あんたが気付いたのはもっとすごいことだよ。飛躍が足りない。もしかしたら、世界中の誰もが、この世界のことを本当に見ることはできていないのかも。すべての人がすべてのものにフィルターをかけて見ているんだったらさ、同じものを見ても、同じと思う人なんかいない。他の人には見えなくて、自分では見ることができるものがあっても全然おかしくない」
「ん?どういうこと?幽霊はいるかもってこと?」
「ちょっと違うような……。いや、違くない。幽霊はいるかもね。例えば誰かが今あそこの渡り廊下に幽霊がいるのが見えますって言ったとしてさ、世界中の全員が見えませんって言ったとしても、世界中の全員が『幽霊なんかいないフィルター』で渡り廊下を見てるかもしんないでしょ」
「やばい。それってやばいね!すぐ皆を集めようよ!」
モモカは教室を飛び出した。
「さ、授業を始めるぞー。今日は抜き打ちテストだ。席に着け」
数学教師が教室に入ってきた。
「先生!今日は先生の顔がなんだか鬼みたいに見えます」
モモカが手を勢いよく挙げて言った。
「はあ?急になんて失礼なことを言うんだ」
「先生、私は先生の顔が悪魔みたいに見えます」
他のギャルが言った。
「私は金剛力士像の顔が怖い方に見えます」「私は般若みたいに見えます」「青鬼みたいです」「なまはげ」「ひょっとこ」「ジェイソン」「デーモン」「納豆」「ガーゴイル」「メタボ中年男性」
ギャルたちはそれぞれ自分の目に映る先生の姿を描写した。普通に傷ついた先生は一番教卓の手前の席のアスミに説明を求めるように涙目を向けた。
「みんなは見たまんまを正直に言ってるだけですよ。先生、世界中の人間すべては、世界を見るときに、自分の頭の中でフィルターを通さずには認識できないんですよ。そして、すべての人間がフィルターを通して世界を見ることしかできないのなら、誰の認識が現実なのか、正しい世界の姿なのか知り得ることもできません。例え正しく認識できる人がいたとして、それをそのまま他の人に認識させることは不可能なんですよ。誰の見る世界も一致しない、そんな状況の中で、奇跡的にも、このクラスの私たちは世界の認識を等しくしています。それは、抜き打ちテストをやろうとする先生が恐ろしいということです」
「俺は急に罵倒してくるお前らのほうが恐ろしいよ」
「先生の世界の見方がそうなのならば、今日は自習にしたらいいんじゃないですかね。その見方が正しいかはわかりませんが、少なくとも間違っているということはこの世の誰にも言うことはできません」
「何言ってるのかわからないよお」
先生は教室から出て行った。教室内で歓声が上がる。アスミはふぅと息をついて、上手く先生を煙に巻けたことに安堵する。これが詭弁であることは承知であった。
「今日はなんだか空が綺麗に見えるね!」
モモカが可愛らしい満面の笑顔でアスミに笑いかけた。世界の秘密の乱用も案外悪くないかもなと思いながら、アスミはモモカ以外の人のために、昼休みの続きのメイクを始めた。
あんたには才能が無い
『幼い頃は本当に才能が無いなぁとみんなに言われていたんですよ。よく諦めろとも言われました』
今年のベストプレイヤーに輝いた野球選手が、苦笑まじりにインタビュアーに打ち明けている。スタジオには「おお〜」というどよめきが広がる。
『ええ!そうなんですか?でも諦めずに打ち込み続けて、今日ついにその努力が実ったんですね。おめでとうございます』
『ありがとうございます。努力すれば夢は叶う』
『素敵なお言葉を頂きました。ちなみに、才能サポート補助という制度は今もご利用になっているんですか?』
『いいえ。数年前までは利用させてもらってたんですが、今の僕にはもう必要ありませんから』
拍手が起こる。
「才能サポート補助?」
どてらを着て炬燵に入り、蜜柑を剥きながら男が言った。男の頭の上には金色に光る輪が浮いている。男は神であった。
「数年前から政府がやってる補助金制度だよ。数年前から私が人間たちに教えてあげていることを知ってるでしょ。才能が無い分野で活躍しようとする人には金銭的サポートをして、スタート地点を公平にしようという仕組み」
男の向かい側、蜜柑の皮の山の向こうで、ジャージ姿で炬燵に足を突っ込んで仰向けになって寝転び、ゲームをしている女が言った。女には漆黒の尻尾と、頭のてっぺんに二本の角があった。女は悪魔であった。
「ああ、下界に生まれていく人間に、君が一つだけその人に向いていないこと、才能が無いことを教えてあげてるやつね」
女はゲームの手を止め、テレビを見て顔をしかめる。
「この策はけっこう人間が不幸になると思ったんだけど、なかなか上手くいかないみたいだね」
悪魔の仕事は人間の不幸を調節することだった。一方神は、人間の幸福を調節する。どちらが多すぎても良くないため、適切なバランスを保つことが必要なのであった。
「人々は天邪鬼なところがあるからねえ。やらない方がいいと言われたことほどやってみたくなるものなのかもしれない。やっぱ可愛いよね」
ケラケラ笑いながら男は言った。
「死後のアンケート統計によると人生満足度の平均が上昇してるみたい。まだやってもみないことの才能の有無をやる前からはっきり決めつけられて、才能が無い分野に怯えて、生きづらくなるかと思ったのに」
「才能が無いと言われると、本当に無いのかどうかやってみたくなって、一度やってみるとそれの面白さにハマってしまう人間が多いんじゃないかな。なんとなくの食わず嫌いだと一生味を知らずにいるけど、君はこの味が嫌いだろうな、と言われると本当かどうか一口は食べてみるだろ。君のお告げは人間に前向きな行動力を与えているんだよ」
女は不服そうに唇を尖らせる。
『野球の才能が無いことが最初からわかっていたので、幼少期から人一倍練習を積んでいこうという心構えができていたんです』
野球選手は画面の向こうで言う。
「才能ナシと言われてなければ、野球なんてスポーツ、知ろうともしなかったくせに」
女が言う。
『どんなに才能が無くたって、僕は野球を愛してますから』
「今はやっと相思相愛になったわけだ」
男は蜜柑をひと房口に放り込む。
「人間は多かれ少なかれ、自分に興味無い人に惹かれる。自分のことが大好きな人と一緒にいるのは自己肯定感のためには効果的かもしれないけれど、本当に振り向かせたいのは自分のことをどうでもいい、もしくは嫌いと思っている人なんだ。その方が達成感を感じるし、受動じゃなくて積極。人生のやりがいは積極性以外では得られない」
「マイナスからのスタートが重要、と」
「そうだね。上手くいけば才能を努力でねじ伏せた英雄としてたたえられるし、もしうまくいかなくても当然だ、と割り切れるセーフティネットがあるのも大きい。才能が無い人が努力することに対して、周りの人間の目はやさしくなり、サポートしようという道徳心さえも成長した」
「人間は前より少しだけ冒険的で、大胆で、夢見がちになってしまった」
女は頭を振りながら身体を起こし、蜜柑を一つ取る。
「私、来年は悪魔やってなかったらごめんね」
「君がクビに?多少バランスは崩れたかもしれないけど、この程度ではありえないよ」
男は楽観的に励ました。
「そうかな?私、そんなに真面目なほうじゃないよ」
女は蜜柑の皮を剥きながら部屋の隅へ顎をしゃくる。男が目をやると、抽選のくじが入っているような形の、蜜柑が入っていた段ボールで作られた手作りの箱が置いてある。
「私、人間に告げるその人の才能が無いことって、くじを引いて出たやつを順番に言ってるだけなんだ」
「じゃあ君は、人間にでたらめを教えてたってことかい」
女は頷いて、苦笑交じりに続けた。
「私にはこれから生まれていく人間すべての才能なんか測れないよ。私には実は、悪魔の才能がなかったんだ」
男はテレビに目を戻す。野球選手はトロフィーを抱きかかえ、笑顔で手を振っている。
「彼には本当は、野球の才能があったかもしれないんだね」
「で、たまたま野球というものを知って、ハマって、努力した。普通の人だよ。人間って案外みんな普通なんだ。見分けをつけるのはすごく難しい。それに、才能が最初からあったのかもしれないけど、それを証明することはもはや絶対にできない」
「じゃあ安心だ」
男は微笑んだ。
「何が」
女は螺旋のように剥いた皮をテーブルの上に放る。
「要はきっかけさ。君には悪魔の才能が無いかもしれないけれど、君はもう悪魔という仕事を知って、ハマって、努力している」
「つまり?」
「来年も頑張ろうってこと」
女も笑う。テレビは次のニュースを映していた。
テロリスト宇宙人
制服のポケットに手を突っ込んで猫背に歩く。耳に突っ込んだイヤホンからは三年前のヒットナンバーが一曲リピート垂れ流し。
通学路のパチ屋には平日朝からオッサンが吸い込まれていき、電車の中では真面目そうなOLが冤罪を騒ぎ立てる。駅のホームにへばりついたガムは三日前からそこにあったし、ホームレスは二か月前から見た目が変わらない。閉じた改札を強引に抜けて速足で逃げていく女。父親に怒鳴られて逃げるようにアパートから出てくる優等生の先輩。お腹が大きかったネコはいつのまにかガリガリになって汚い顔で威嚇してくる。そこまでは概ねいつもと変わらない朝だった。
さびれた電気屋の店先に置いてあるテレビがニュースをやっている。政治家の汚職、教師の生徒へのセクハラ問題、ブラック企業での自殺の他、飲酒反対の活動家が全身タイツで深夜のスーパーを襲い、酒瓶をすべて叩き割った事件を報道していた。いつも通り世界は汚くて、狂っていた。
ふいに、画面が乱れたような気がして俺は立ち止った。ノイズが走る。ぱっと画面が変わって、報道番組でニュースキャスターが映されていた位置には、顔全体を覆うようなシリコンマスクをかぶった人が映し出された。緑色のつるりとしたマスクで、大きな二つの目に小さな口、とがった顎をしていて、宇宙人、と言われて誰もが真っ先に思いつくほど浸透したイメージのマスクだった。画面の奥には三人ほど同じマスクをかぶった人がいる。電波ジャックか。
『我々は、宇宙人だ。この放送は我々が一時、乗っ取らせてもらった』
宇宙人はボイスチェンジャーで改変された声でテレビの前の全国民に語り掛けた。
『地球人かつ日本人の諸君には申し訳ないが、この国は我々宇宙人が征服する。この腐った世界を一度ぶち壊し、新たな世界を築き上げる』
マスクが大きすぎて座りが悪いのか、ずれかけては直す。体つきからみて若者のようだった。
『我々は本気だ。その力もある。交渉は申し訳ないが受け付けない。この国が滅ぶことは決定事項なのだ』
宇宙人はマスクを両手で押さえたまま少し首を傾けるようにする。
『しかし、我々にも情けはある。腐ってはいるものの、この日本に希望を持つ人間もいることだろう。二か月だ。二か月あなたたちに時間を与える。日本最後の日に向けて一日一日を大切に生きるがよい』
画面がまたぱっと切り替わった。再び報道番組のスタジオが映される。ニュースキャスターは口をぽかんと開けていた。
振り返ると、散歩中のチワワを連れたヤンキーが口をぽかんと開けていた。口から吸いかけのタバコがぽろりと落ちた。
『……あ、ただいま、電波の乱れがあったようです。お詫びいたします。次のニュースです』
ニュースキャスターはすぐに顔面を取り繕って背筋を伸ばした。ヤンキーと顔を見合わせた。
「なあ、あの映像、見た?」
「ああ、見た見た。渋谷の交差点で広告の画面がさ、あの宇宙人の顔いっぱいになって」
教室は宇宙人の話題で持ち切りだった。軽い地震があった後の朝みたいに、突然全員にやってきた非日常にそわそわとしていた。
「席に着け。チャイムが鳴ってるのが聞こえんか」
教室の戸が乱暴に開けられて教師が入って来る。生徒たちはいったんは席に着くが、そわそわした雰囲気は収まらずに隣の人同士でまだ話し続けていた。教師はじろりと教室を睨みまわした。
「テレビの電波を不法に乗っ取った犯罪者の話か?すぐに捕まるだろうから気にするな。ああいう愉快犯は注目されたくてやってるんだから相手にしてはいけない。授業を始めるぞ」
一人の男子生徒がふざけた調子で手を挙げる。
「でも先生ー。二か月後世界が滅んじゃうかもしんないすよ。授業なんかやってる場合じゃないんじゃないすか?」
教師は出席簿を教卓に乱暴に打ち付けた。
「あんなの信じるな。お前が信じたいのなら勝手にすればいいが、二か月後も世界は続く。今きちんと勉強しなければ来年の受験で泣くのはお前だぞ」
教師は黒板の方を向いて板書を始めた。発言した男子生徒は舌をちろりと出して肩をすくめた。
家に帰って自室のベッドの上にスクールバッグを放り投げて、冷凍庫からアイスバーを取り出して居間のテレビをつけると、警察が宇宙人の捜査を始めたらしいということがわかった。べとべとした安いアイスバーをかじりながら夕方の報道番組を見る。
「悪質な愉快犯です。許せませんね。近頃の若者が引き起こす凶悪事件は統計的に見て増えています。教育現場の腐敗でしょうかね」
太った評論家はいかにも物知り顔でそう言った。
電波ジャックから一週間が経った。世間の大人たちはそんな事件なかったかのように、すべて忘れた過去のこととでも言うかのように宇宙人のことは口に出さなくなった。マスコミも早くも興味を失って、酔っ払いが花屋の店先に小便をして裁判になったとか、有名人の浮気とか、神社の賽銭泥棒とか、いつものように日常的にありふれたゴミのような事件をおおげさに報道していた。
そんな朝、宇宙人がまたも現れた。電気屋のテレビに映る報道番組の途中で突如ノイズが入り、ぱっと画面が切り替わる。
『あなたたちは狂っている』
宇宙人は言った。
『日本最後の日まで猶予をあげたというのに、誰一人時間を大切に使おうとしない。あなたたちはただ他人に命じられた義務をこなし、朝起き、糞して、夜寝ているだけの肉袋だ。我々は理解に苦しむ』
宇宙人は両手のひらを天井に向ける。
『我々はあなたたちに、やりたいことを精一杯やりなさい、と言っているのではない。やりたいことがある人は残りの時間でやったらいいが、残念ながらこの国にははっきりとやりたいことを言える人間があまりにも少ない。わかりませんか?これはチャンスなのです。あと一か月と三週間なのですよ』
ぱっと画面が切り替わる。耳の奥で宇宙人の声が不気味に残った。
「なにをしようと、どうせ終わるわけだ」
後ろでテレビを見ていた汚いオッサンがつぶやく。いつも朝からパチ屋に入っていくオヤジだ。
宇宙人の言葉の含みがわかってくる。どうせ一か月と三週間後にはすべてが終わるんだから、犯罪も遊びもし放題ではないか、ということだ。宇宙人は、国民を言葉巧みに誘導して洗脳し、大規模で非倫理的な社会実験をしているのではないか――?
教師をはじめ、親や大人たちは皆、宇宙人を頑なに無視し続けた。毎日はとても普通に過ぎていく。普通過ぎて、今ここに拳銃をもったテロリストが飛び込んできても授業は普通に続行するんじゃないかと思えるくらいだった。公共の電波をジャックしてあんなことを発言する人がいても、誰も気にしない。朝が来て、仕事に行って、夜帰ってきて、ぼうっとテレビを見て寝る。国民のほとんどが律儀に習慣を守り続けていた。
そんな中、やつらに感化されて動き出したのは犯罪者たちだった。全国の治安はたちどころに悪くなり、凶悪事件は増加した。凶悪事件が発生していくにつれて、大人たちはそれすらも無視を決め込むことにした。宇宙人とかいう愉快犯の思う壺になるのを拒否するようだった。
最初の電波ジャックから一か月が経って、宇宙人はまた現れた。
宇宙人はニュースキャスターが使う電子黒板に、今月報道されたニュースの画像をすべて並べて映した。
『我々は憤っている』
宇宙人は続ける。
『我々のメッセージがうまく伝わらなかったようなので、今一度皆さんにもわかるように教えよう。今月、事件が増えたことは皆さんでもさすがにお気づきだろう。我々は決して犯罪行為を推奨しているわけではない。ニュースを見ているとなんとまあ狡くて小さい犯罪ばかり溢れている。全員が、自分が他者から勝手に決められた境遇を、その境遇に自分を当てはめられるように自分を変えよう、とするばかりで何の解放性も感じられない。まず変えるべきなのは、その境遇そのものであるとなぜお気づきにならないのか』
宇宙人の発言の意図がすぐにはわからなくてテレビに一歩近づく。
『これは我々が皆さんに与えたチャンスなのです。あと少しでこの国が滅亡する、法やモラルなどは役に立たない。何が正しくて何が間違っているかはリセットだ。すべてを決するのはあなたの価値観、それ以外ではないのですよ。そんな唯一無二の状況をプレゼントしてあげたではないですか。さあ今こそ思い通りに生きるべき時なのではないですか?』
宇宙人はマスクを両手で押さえたままゆっくりとお辞儀して、画面がぱっと切り替わった。
「なあ、これからDVDショップに行くんだけど、お前も来るか?」
同じクラスの友人が放課後話しかけてくる。了承して、大きめの駅の駅ビルにあるチェーンのDVDショップへ足を運ぶ。ぼろく薄暗い店内では、40代のオヤジが一人、小指で耳の穴をほじりながら週刊誌を読んでいた。友人は前々から買うことを決めていたようで、迷わず一つのDVDを棚から取り、会計を済ませた。
「まだ選んでんの?俺、出たとこのゲーセンに行ってるよ」
「ああ、すぐ追いつくよ」
特に観たい映画もなく、適当にSFの中古の棚の、色あせたタイトルを眺める。ふと、一つのタイトルに目が留まる。『宇宙からの侵略』。手に取ってみる。30年以上前のB級映画だ。それを持って堂々と店の外へ向かう。自動ドアが開く。
「おい、それ、持ってく気か」
まだ小指を耳に突っ込んだままのオヤジが言った。
「もらってくよ」
オヤジは少し口を開きかけるが、何も言わずに閉じた。店の外に出る。ゲームセンターに行くと、店先の筐体で友人がチュッパチャップスを口に入れながらひたすらにインベーダーゲームをやっていた。手に持っていた古いDVDにちらりと視線をやる。
「ほんとに観るのか?」
「さあ、観ないかも」
隣に座ってインベーダーゲームを始める。
宇宙人が最初に電波ジャックしてから明日の朝でちょうど二か月になる。
宇宙人がまた現れた。
『人間の皆さん。約束の日は明日に迫った。我々はすべてをぶっ壊す覚悟がある。果たして皆さんにはあるだろうか?明日の朝、この時間、必ず日本全土は爆発する』
画面がぱっと切り替わる。
朝になる。いつも通り電気屋へ向かう。
国会議事堂や皇居など、国の重要な機関に厳重な警備が施されるのかと思いきや、どこも代り映えしない、恐ろしいほど普通な生活を続けていた。
その時間まであと三分。まだテレビはジャックされない。腕時計のデジタル表示を見つめる。あと二分、あと一分。辺りを見回す。空は曇り空。タバコの吸い殻が落ちていて、看板には落書きのある、何ら変わり映えしない風景。あと三十秒。爆発の気配はない。宇宙人、来てくれよ。ここをぶっ壊してくれ。
あと十秒。五、四、三、二、一、……ゼロ。
「ぶっ壊れろ!!」
店の前で絶叫する。道を行く人がぎょっとしてこちらを見る。どうでもよかった。
出勤中のサラリーマンが人の行きかう巨大な交差点の真ん中に立ち尽くし、空を見上げる。
「ぶっ壊れろ」
地下鉄の駅のエスカレーターに立つ女子高生が叫ぶ。
「ぶっ壊れろ!」
朝の職員室の教師が、交番の警察官が、国会議事堂に出勤した国会議員が、ビルの清掃スタッフが、観光バスの添乗員が、綿棒を持ったパン屋の主人が、沖合に出た船の上のアオリイカ漁師が、幼児に囲まれる保育士が、自宅の窓から外を見るジャージのニートが、パチ屋に行く前の住所不定のオッサンが、叫んだ。
「ぶっ壊れろ!!」
日本は結局、滅亡しなかった。爆発も起きず、誰も死ななかった。
宇宙人を名乗ったやつらはそれっきり姿を消し、警察は大掛かりな捜査をしたが、誰かは判明しなかった。
しかし、少しだけ世界は壊れた。日本各地のあらゆるところで、まったく同じ時刻に、まったく同じセリフを叫ぶ国民が多数現れるなど、二度とこんな事件が起こることはないだろう。
金メダルのアンドロイド
「全員集まったな。これより会議を始める」
三上社長は社員全員を会議室に集めた。株式会社ミライは、ロボット開発の小さなベンチャー企業で、社員は社長と事務員を含めて七人。少数精鋭のエンジニアが日々ロボットの開発にいそしんでいる。社長は大学時代の僕の先輩で、僕の技術を買って誘ってくれた。僕は主に、人型アンドロイドの関節の動作について研究していた。
近年、この業界は急激に成長しており、動きのほうも発展しているが、見た目の面でも顔立ちや肌の質感もより人間に近くなり、アンドロイドは不気味の谷を越えつつある。
「これからの時代、より性能の高いロボットが必要とされる。わが社もその時代に乗っかり、いや、乗っかるだけでなく、その時代の先頭として走っていかなければならない。ここにいる全員、時代の先駆者となれるほどの技術を持っていることは俺が保証しよう」
社長は社員たちを見回す。
「そこでわが社は、わが社の技術を広く認知してもらえるような、技術を強烈にアピールできるような取り組みをすべきだ。現在それぞれの社員が個別に客から依頼を受けてロボットを設計、開発して販売するような手法で経営しているが、少しの期間だけ、それを変えようと思う。全員が同じプロジェクトに協力して力を注ぎ、わが社が生み出しうるロボットのなかでも最高のものを造り上げ、世間に発表したい」
「同じプロジェクトですか。どんなロボットの開発ですか?」
僕の隣の女性社員、岩瀬さんが質問する。社長の大学時代の同期だ。明るく、いつもおしゃれな服を着ていて、彼女が来るだけでオフィスが華やかになるような気すらする。
「よくぞ聞いてくれた」
社長は後ろに置いてあったディスプレーに一枚の画像を映し出した。五つの色の違う円が組み合わさった形。オリンピックのマークだ。
「みんなも知っている通り、四年後に東京でオリンピックが開催される。そこで、わが社でオリンピックに出ても誰にも気づかれないくらい人間に近いアンドロイドを造り上げて、そのアンドロイドをオリンピックに出場させよう」
「オリンピックに? さすがにそれは難しいんじゃ……」
社長の隣に立つ男性社員、日高が言ったが、社長は指を振った。
「俺たちエンジニアはまず、できない、からは入らない。何事も、できるはず、から取り組まないとな」
社長の口癖だった。会社のモットーのような言葉だ。
僕も正直日高とほぼ同じ感想を抱いたが、なるほど、オリンピックは全世界のテレビで中継されるわけだし、ただ出場するだけでも、小さなベンチャー企業にとっては、会場の壁に広告を出すよりは注目されやすいだろう。ランクインするほど性能が良ければ、もっとテレビに映されることにもなる。会社のアピールとして申し分ない戦略だ。
「宣伝効果としては最高の戦略だと思いますけど、オリンピック関係者にはどう説明するんですか? 選手がアンドロイドだと知れば出場を認めてくれるとは思えません」
僕の言葉に社長は落ち着き払って手元のリモコンのボタンを押す。ディスプレーの画像が切り替わる。一人のアスリートの写真が映し出された。
「彼は俺の知り合いで、男子陸上100メートルの選手だ。椚太一という。去年までは日本のランキングでも常にベスト16あたりにいた。しかし、半年前、事故で足が以前のように動かなくなってしまった」
顔は見たことがあるような気がする。スポーツのニュースは割とチェックしているほうだが、陸上の上位の選手が足を悪くしたなんてニュースは知らなかった。
「この情報を彼は世間に公表していない。俺は事故からそこまで時間が経たないうちに、彼が事故を公表する前にそのことを上手く使えないかと思って彼と話をしに行ったんだ。技術の発展のためだと言ったら快く協力を了承してくれた。彼は引退することをこの半年間世間に言わずにいてくれた。そしてこれから四年間も黙っていると言ってくれた。彼の替え玉としてアンドロイドを造れば大会に出場できる」
「ロボットとはいえ替え玉なんだから、途中でばれたら何等かの罪に問われたりしませんか? それに、万が一、アンドロイドの椚さんが表彰台に上ってしまうなんてことになったらどうするんですか?」
岩瀬さんが聞く。
社長の自信に満ちた顔は揺らがない。
「俺は君たちのクオリティを信じている。まずばれないし、罪にも問われないよ。このプロジェクトを提案する前に入念に下調べをして、なんなら弁護士にも話を聞いてもらったから、その点は安心してほしい。そして、アンドロイドが表彰台に上ったら、まさにそれがプロジェクトの成功の瞬間だ。そこで彼がアンドロイドだと全世界に公表し、メダルの受け取りを拒否する。……ほかに質問は?」
「いいすね。まあ、最初はあんまり難しく考えずにやってみましょうよ」
金髪に髪を染めた若い男性社員、千葉が軽い調子で言った。こいつは僕の後輩だ。浮ついているように見えて優秀なムードメーカーである彼の発言は、皆の気持ちを一つにしたり、妙にやる気を出させたりする力があった。
次の日から僕らは、オリンピックアスリートのアンドロイドを造ることになった。
「半年前、すべてを失って茫然としている俺のところに急に三上から電話がかかってきてさ。電話口で急にプレゼン始めんだもん。俺はもうこの業界から永遠に離れなければならないと思っていたけど、そうでもないかもって思わされたよ。俺はもう走れないけど、俺の存在が、これからの時代の技術の発展に役立てられんなら、今すぐ引退表明をしないで、あと四年くらい引退を先延ばしにしてもいいと思ったんだ」
僕と千葉は椚さんに話を聞きに彼の自宅までおじゃましていた。
「ご協力ありがとうございます」
「うん。これは俺のためでもあるんだ。できることはすべて協力するよ。ただし、オリンピックの大舞台で俺の姿のロボがかっこ悪いヘマをすることだけは勘弁してくれよ。うんといいロボットを造り上げてくれ」
「もちろんです。約束します」
椚さんはこれからの四年間、不用意に陸上関係者に会って足が悪いことを知られたり、公式大会の出場がないことから不審がられたりしないように常に気を付けて暮らしてもらうことになる。その旨も彼は了承してくれた。いくつかの書類にサインをもらい、椚さんの家を後にする。
「こりゃ、ガチでやんないとっすねぇ」
住宅街を駅に向かって歩きながら千葉は言った。
「うん、最初聞いたときは社長も椚さんもどうかしてると思ったけど、二人ともかなり真剣に考えていたんだね。僕たちも精一杯やらなくちゃ」
「うっす」
アンドロイド制作には大きく分けて二つのハードルがあった。一つ目は、フィジカルな動き。なめらかで自然な関節の動きが必要とされる。それも、ただ普通に生きている人間が必要とする程度の動きではなく、トップアスリートの無駄のない、洗練された筋肉や体の運びを模倣しなくてはならない。これは僕と千葉の専門分野だった。
二つ目は、人間としての自然さ。アスリートとしてのアンドロイドではあるが、走っている時間は十数秒なので、その何倍もの時間をインタビューやウォームアップとして多くの人に見られる。その時にアンドロイドだとばれないような豊かな表情筋を実装したスキンや、自然な受け答えを可能にする会話プログラムも作らなくてはならない。こちらは、岩瀬さん、日高、そしてもう一人の女性エンジニアの澄田さんが専門だ。社長は事務員の関さんといっしょにオリンピック出場に関わるいろいろな雑務や交渉を担当するらしい。
新たなロボットを五人で一から制作するのに、四年という時間はかなりぎりぎりな時間だった。バグやエラーが出てくることを考慮すれば、一刻も無駄にはできなかった。
まず手始めに、僕と千葉は椚さんの体の写真を撮ったりスキャンしたりして、あらゆる手段を使って数値化した。そしてその数値の通りにアンドロイドのボディを造り、数値化できないところを手動で補ったりして実験を重ね、その都度修正を加えていった。
試作品1号が完成したのは二年が経ったころだった。椚さんにそのアンドロイドを見せると彼はそれをしげしげと眺めまわした。
「なかなかすごい。遠くから見れば完全に俺だ」
実際にトラックを走らせてみた。タイムは、日本代表はおろか、高校生の大会でも下位のほうに値する記録だった。
「フォームがまだまだだな。素人臭いってわけじゃなくて、どことなく人間じゃない感じを受ける。ロボットだから筋肉はないってことは承知なんだけど、やっぱり筋肉の躍動みたいなのが感じられないと人間っぽく見えないんじゃないかなあ」
「なるほど、ありがとうございます。修正します!」
僕らは社長が買い取った田舎の市民運動場にオフィスやコンピュータ類を丸ごと移動させた。その日から僕らのオフィスは体育館となった。朝からアンドロイドとともに外のトラックに出て、一日中そのタイムや走り方をああでもないこうでもないと思案し、日が沈んだあとは、コンピュータやサーバーの並べてあるものものしい雰囲気の体育館に戻ってきてメンテナンスをし、プログラムを変えたり、様々な数値を調節したりした。様々な角度から撮った動画を何度も分析し、椚さんの現役時代の動画と見比べて、同じ動きが再現されているか、調整を繰り返した。僕らはアンドロイドにクヌギ2号、クヌギ3号、という風に名前を付けていった。
スキンや会話の方はなんとか形になってきたので、岩瀬さんたちのチームも僕と千葉の開発作業を手伝ってくれた。
夏の夜の体育館は虫の声が響いていた。千葉がパソコンの前で突っ伏して眠りこけているのを発見し、その体にタオルケットをかけてやる。
僕らエンジニアの社員五人は市民運動場がある町のアパートに引っ越して暮らすようになった。アパートはすぐ近くだが、千葉は面倒くさがって朝まで体育館にいることもあった。「風呂に入りなさいよ」と岩瀬さんに怒られていた。
やがて季節は廻り、体育館での深夜の作業は寒さが身にこたえるようになってきた。石油ストーブは常に全力で稼働させているが、体育館が広いのであまり暖かくない。僕らはアンドロイドとともに走るようになった。体を動かしているほうが寒さは和らぐし、一緒に体を動かしていると、ただの社員仲間だった人たちともっと仲良くなれるような気がした。部活でもやっているかのような一体感が僕らの中に漂うようになった。アンドロイドはクヌギ11号にまでなっていた。
椚さんや社長は数日に一度、僕らの様子を見に来た。ベンチコートに身を包んで、トラックを走るアンドロイドと僕らを眺める二人は、部活動で言うなら、監督とコーチのようだった。
そしてまた夏が来た。オリンピックまであと一年だ。ここからはオリンピックに出場する切符を得るための大会に出場していかなくてはならない。予選でも、一度でも人間ではないと見抜かれてしまったらそこでこのプロジェクトはおしまいなので、気を抜くわけにはいかない。アンドロイドはクヌギ20号にまでなっていた。
「明日がとうとう20号の初試合だな」
千葉はアンドロイドの肩に腕を回した。
「20号と呼ぶのはやめてください。俺のことは椚と呼ぶようにしてください」
アンドロイドは本人そっくりに顔をしかめて言った。
予選大会当日。社長と僕は椚さんのコーチとマネージャーという設定で揃いのジャージを着て会場に向かった。受付を済ませ、周りを見渡すと、本物のアスリートたちがたくさんいて、ぴりりとした緊張感が会場には漂っていた。中にはテレビで見たこともある人も混じっていて、僕は緊張してくる。この大会はネットで中継され、本物の椚さんは自宅で自分のアンドロイドの雄姿を見守るそうだ。僕の胸に差してあるボールペンには小型のカメラがついていて、僕らの様子も椚さんや、オフィスで待機している社員にリアルタイムで見られている。
「大丈夫。今日までの練習の成果をただ見せるだけです」
クヌギ20号は僕の肩に手を置いた。アンドロイドなので当然、心を乱したりはしない。その落ち着いた言葉に少し緊張が和らぐ。
「そうだね。精一杯やってきてくれ」
僕はクヌギ20号の背中をぽんと叩く。
おそらく周りから見れば僕らはエンジニアとアンドロイドではなく、マネージャーと陸上選手の何気ないやりとりに見えたことだろう。クヌギ20号はとてもなめらかに自然な会話ができるようになっていた。僕らはクヌギ20号をトラックへと送り出す。なんだか、自分の息子の試合を見に来た時のような、心配と期待と、成長の実感がこみあげてくる。ちゃんと走れるだろうか。どうか頑張ってほしい。クヌギ20号は堂々とした足取りで位置に着く。
やがて号砲が鳴って選手たちはいっせいに走り出す。
「が、頑張れ!」
思わず声が出る。クヌギ20号は好タイムで予選を通過した。
「よかった!ほんとにナチュラルだったよ。全然アンドロイドには見えなかったね」
予選大会を終えて、僕と社長とクヌギ20号が現オフィスである市民運動場に戻ってくると、社員たちが宴会の準備をして待っていた。
「とにかく!無事にプロジェクトの第一歩が踏み出せたことに、カンパーイ!」
社長が缶ビールを突き上げる。みんなも笑顔で叫んだ。クヌギ20号は充電器につながれて目を閉じていた。なんだかそれが、大きな大会を終えて疲れと満足感でぐっすりと眠っているようにも見えた。
それからクヌギ20号はいくつかの大会に出場し、無難な成績でパスし、無事にオリンピックの切符を手に入れた。誰もクヌギ20号がアンドロイドだとは気づかなかった。何回かインタビューを受けたが、そこでもばれなかった。スポーツ誌には期待の星として取り上げられ、大会に応援に来てくれるファンも増えた。
オフィスの壁際にはトロフィーやメダル、賞状が飾られていった。僕はそれがなんだかとても誇らしいように感じた。
「いつの間にか、すごい数もらっていたんだね」
僕がトロフィーの埃を掃除していると、椚さんが後ろから声をかけた。
「そうですね。だんだん溜まっていくのを見ると嬉しくなってしまいますね」
僕の言葉に椚さんは少し困ったような顔をした。
「そうかな。俺はちょっと、申し訳ないような気がするよ」
僕は掃除の手を止めた。
「申し訳ない、というのは?」
「これから言うことは別にロボットに対して嫉妬しているとか、そういうのではないんだけど、僕が持っているトロフィーって、せいぜい三つで、メダルは三つもない。金色なんて持ってないんだ。トロフィーを得るのってとても難しくて、だからトロフィーはすごく貴重で重要なんだ。これが欲しくて僕ら選手は日々練習をしてる。このトロフィーが死ぬほど欲しいと思う人はたくさんいるんだ。本来その人たちがもらうはずだったトロフィーが、俺のせいでここにある」
「プロジェクトが終わったら全てのトロフィーは返還し、本来もらうはずだった人の手に渡ります。それに、クヌギ20号はほかならぬ椚さんの体のデータからできているんです。あなたが事故に遭わなければ、あなたが手にしていたトロフィーと言えるんじゃないですか?」
「そうかな」
椚さんは目を伏せた。
「俺はいつもベストを出せるわけじゃないよ」
椚さんはオフィスから出て言った。
目の前のトロフィーの輝きが急に鈍くなったかのように感じた。今まではずっと、ばれないように、とそれだけを考えてきた。僕の頭の中に、急にばれた後に起こりうる様々な想像が生まれた。
オリンピックの本番が近づいた。クヌギ20号と社員全員は選手村に入った。
「とうとうここまできたな。明日は最高の走りを期待しよう」
社長は食堂で夕食を食べながら僕に言った。僕ら二人以外はクヌギ20号の調整をしていた。たまたま手が空いたのが僕らだったので先に夕食を食べてくることにしたのだ。社長、いや、三上さんとサシで食事をするのは久しぶりだ。
「そうですね」
僕は社長の言葉に頷いたが、僕の心の中では少しもやもやとしたものが渦巻いていた。
「社長」
「ん? なんだ?」
「20号がメダルを取ったら、本当のことを明かすんですよね」
「そうだ。それがわが社を世界にアピールすることだからな」
「……そうしても大丈夫なんでしょうか。その発表は誰かを傷つけたりしないでしょうか」
僕のただならぬ雰囲気を感じ取って社長は食べる手を止めて割り箸を置いた。
「順位なら、20号が関わったすべての大会で繰り上げを行ってもらう。トロフィーやメダルも残らず返還するし、大丈夫だよ」
「そう、でしょうか」
社長は僕の肩を優しくたたいた。社長の大丈夫という言葉が、的確でクリアないつもの社長の発言に対して、ぼやけた曖昧さをはらんで僕に届いた。
社長は大学卒業してすぐにベンチャー企業を一人で立ち上げ、見事なマネジメント力と確かな技術でここまで会社をやってきた。その過程ではたくさんの切り捨てたものもあっただろう。社長の計画通りに行けば、会社は成功するかもしれない。でも、もし誰かを傷つけるんだったら? 社長は人に嫌われても悪口を言われても動じず、自分の信じた道を突き進むタイプだった。社長は賢い人だから、批判やリスクについても、ロボットいじりしか能がない僕の何倍もよく考えていたはずだ。社長はリスクとメリットを比べ、メリットのほうが多いと判断したのだ。
「大丈夫だ」
社長はまた繰り返した。
朝が来た。クヌギ20号の電源を入れ、ユニフォームに着替えさせる。最終メンテナンスをし、気温や湿度によって変わるパラメータを少し調節した。
「では行ってきます」
クヌギ20号はトラックに軽快に駆け出して行った。アンドロイドにウォーミングアップは必要ないが、あたかも真剣にルーティンをこなすかのように、クヌギ20号はプログラムされた動作をきっちりと行った。彼の横には外国人の背の高い選手がずらりと並んでいる。しかし、クヌギ20号はまったく意に介さないように飄々とした表情で余裕を見せていた。各国から訪れたたくさんのテレビカメラが選手たちを映している。
やがて会場は静寂に包まれ、号砲が鳴った。選手たちは一斉に走り出す。コンマ数秒の差でクヌギ20号はその集団の中でトップを取った。すぐに電光掲示板にはただいまの記録とランキングが表示される。一位だ。
テレビでは実況が大興奮して叫んでいる。優勝の有力候補だった外国の選手はもう走り終えており、クヌギ20号に続いて二位だった。その選手は泣いていたが、クヌギ20号を見ると、握手を求め、ハグをした。
表彰式で、クヌギ20号は表彰台に上った。盛大な拍手の中、とうとう金メダルが首にかけられる。しかし、クヌギ20号は頭を下げず、その場で声を張り上げた。
「メダルはいりません。私は、アンドロイドです!」
しばらく拍手が鳴りやまなかったが、テレビの翻訳により、全世界の人がその言葉の意味を理解すると、会場は静まり返った。
「私は、アンドロイドなんです。だから、金メダルは受け取れません」
全世界の人間が困惑していた。そりゃあそうだ。今まで本当に人間だと疑わずに接してきた人が急に自分はアンドロイドだ、などと言い出したらまず気がふれたかと心配するだろう。
社長が表彰台の前まで進み出てきた。テレビカメラはすべて一斉に彼を映す。係のスタッフが慌ててマイクを手渡した。
「あー、エヘン。はじめまして。私は株式会社ミライの社長、三上と申します。当社は、先駆的なロボットの設計、開発、販売を手掛けるベンチャー企業でございます。我々は、このオリンピックという場をお借りして、最新型のアンドロイドのお披露目をさせていただきました。今表彰台に立っているのは、椚太一選手ではありません。椚太一選手をモデルとしたアンドロイド、クヌギ20号なのです」
二位と三位の表彰台に立っている外国人選手たちは、三上の言っていることや、今の状況が呑み込めずにきょろきょろしている。クヌギ20号はユニフォームを脱いだ。体の隠れていた部分はわざと透明なカバーを使っていて、中の機械が良く見えるようになっていた。その様子を見て、二位と三位の表彰台に立つ選手はぎょっとする。会場は、世界はざわつき始める。
表彰台を少し離れたところで見守る僕の横で、オリンピック関係者であろうスタッフの女性が口に手を当てている。ショックを受けた顔だ。やはりこの発表は多くの誰かを傷つけてしまったんだろうか? その口から言葉が漏れる。
「あんなに応援してたのに……」
……応援してたのに? 応援してたのに、なんだ? 急に僕の中で不安だった気持ちがはじけ飛んで、新たな感情がむくむくと沸き上がった。
「応援してたのに、なんですか? 見ていたのが人間じゃなかったら応援は無駄だったと思うんですか?」
アンドロイドだって最初からあんなに早く走れたわけじゃない。やってみて、考えて、改善して、またやってみる。その繰り返しで到達した結果だ。エンジニアがやっただけで、アスリートがやっていることと変わらないじゃないか。もちろんここは、体育の祭典だから、人間の能力の限界を試す場所であり、機械という別のものが入り込んで場をかき乱してしまったのは良くないことだとはわかっている。でも、応援した事実を、応援しなきゃよかったなんて言われるのは違う。20号のその動きを見てファンになったんだろ。応援したんだろ。人間がその動きをするのと、アンドロイドがそれとそっくり同じ動きをするのは何が違う? 動き自体は椚さんと何も変わらないじゃないか。何の見た目の違いはない。その動きが好きだったんだろ?
スタッフの女性はいきなり喧嘩腰で話しかけてきた僕に驚きながらも言葉を続けた。
「だって、……だってあまりにも、空しいじゃない」
僕の体から力が抜ける。
これを明かさなかったら、彼女はずっとクヌギ20号のファンだったのだ。テレビの画面越しに彼を見つけては、応援し、血の通った彼が日本のどこかにいて、朝からコーチともにトラックに出て、一日中そのタイムや走り方をああでもないこうでもないと思案し、日が沈んだあとは、身体のメンテナンスをして寝る、そんな生活をしていると信じ続けていたはずだ。
むき出しの上半身をさらしたままのクヌギ20号はただカメラを見つめて立ち尽くしていた。
「裏切られた、が率直な感想なのかもね」
岩瀬さんはすっかり片付いたオフィスで言った。オフィス、といえども、もともと体育館だった場所なので、機材を撤収してしまうと、ただの寒々とした運動施設だった。掃除が終わり、最後に残った僕と岩瀬さんはがらんどうの体育館を見ていた。岩瀬さんはステージに腰掛けて足をぶらぶらさせている。
あの後、会社にはたくさんの批判が届いて、大炎上した。批判のメッセージを送ってきたのは主に椚選手のファンで、オリンピック関係者、スポーツ業界からは軽い注意のみ、ロボット産業の業界からはちょっとやりすぎだったけど、技術は認めるよ、という旨のメッセージが国を問わずに世界中から寄せられた。社長は新たなビジネスの相談の対応に追われて、撤収作業には来なかった。
岩瀬さんはスマートフォンに届いた、おそらく社長からのメッセージをちらりと見て「今日も働いてる。社長はやっぱすごいなー」と小さくつぶやくと、またポケットに戻した。「あとで返信しようっと」
岩瀬さんは自分の横のステージを軽くたたいた。座って話そう、ということだろうか。僕は岩瀬さんの横に腰掛ける。
「私たちがファンに対してやったことはたぶん、有名俳優のプライベートを明かすことに似ている」
「……社長のやり方が正しかったかどうかという話ですか?」
岩瀬さんは笑って首を振った。
「正しいかとかはわかんないよ。私は正しいかはともかく、社長についていくと決めたからね。意見は言うけど決定には従うよ。あの人の能力は認めてるから。ただ、私たちがどういうことをしたのかという確認がしたいんだよ」
僕は頷いた。岩瀬さんは少し満足気に笑って、言いかけたことの続きを話し始めた。
「テレビの前の多くの一般の人は、ドラマに出てくるキャラクターを好きになる。やがてその顔も口調も、俳優ごと好きになる。俳優は存在するけど、一般の人にはほとんど会うことはないよね。俳優はどこかわからないけど世界のどこかにはいて、ドラマの中のキャラクターみたいに笑ったり怒ったりして暮らしてるんだって想像する。それが急に、俳優のプライベートを無理やり知らされて、実は性格がクズで、ドラマの映像は良くできた演技と知る」
「キャラクターを消費していたかっただけだったのに、ということですか」
「そう。そんなクズだったなら知らないでいさせて欲しかった、と思うわけ。俳優そのものと、俳優が演じる画面の向こうのキャラクターは別のものなのに、いつのまにか同一視していたから、どちらかの裏側を知ってしまうと、切り離して考えられなくなる」
「この件に当てはめると、実際に走っているクヌギ20号と、テレビに映っているキャラクター椚選手を勝手に同一視していたということですね」
岩瀬さんは軽く頷く。
「まあ、勝手に、というのも適切ではないかもね。私たちはわざと同一視させるように仕向けたから。スキンも動きも、本当にそっくりに造ったよ。それがエンジニアとして技術の粋を見せるということだからね。ある意味だましてたんだよ。これとこれは同じものですって。裏切られたと感じるのは仕方ないね」
「一般の人みんなが、椚選手のことをテレビ越しに存在する、会うことのない存在として好きになっていたんですね」
「そうだね。最近ってさ、実体のない概念を愛せる時代になってきたんじゃないかな。ユーチューバーはいつでも会える身近な存在に思えるけど、実際は会えない。SNSに絵を投稿する好きな絵師にも、メタバースでよく会う友人にも、ゲーム友達にも、会えない。もしそれが実は全部偽物で、あ、偽物っていうのはここでは、人間じゃないってことね。偽物だったとしても、気付けないし、気付く必要もないんだよ。俳優のプライベートみたいに、裏は見なくていいの。そういう世界だったらさ、嘘はつきとおすのがやさしさっていうか、義務になるんじゃないのかな。だましとおすことが必要なんじゃないのかな」
僕は少し考える。
「僕らのやったことは、間違っていたんでしょうか」
「さっきも言ったでしょ。この行動の正否はわからない。ただ、そういう時代になったなあって、私たち以外の世界の誰かが気付けたのなら、それは私たちが時代の先駆者になれたってことじゃないのかな。放っておいてもそのうちこれに気付いた誰かが似たような方法で世界に訴えていたかも」
「確かにそうですね」
二年ぶりに遮光カーテンを開けた窓からは夕日が差し込んで、フローリングに窓の形に切り取られた光を落としていた。
「さて、明日から忙しくなるよ。まずは批判メールをさばくとこから業務スタートだ」
岩瀬さんはひょいと勢いをつけるようにしてステージから飛び降りた。僕を見上げて少し微笑む。
「本社に帰ろうか」
果汁0%
「一緒にいいかい」
昼休み開始を告げるチャイムも鳴りやまぬうちに、青田は俺の席にやってきた。
「どうぞ」
俺の一つ前の席の女子が友達と連れ立って教室を出ていくのを見届けると、青田にその席を勧めた。青田は椅子の向きを回して座り、コンビニのビニール袋を俺の机に置いてガサゴソやり始める。青田はクラスが違うのだが、いつも一緒に昼食を食べに俺のところまでやって来る。この高校に入学して二か月以上経つが、未だに俺はこいつ以外と昼食を食べた記憶がない。文学研究部という同じ部に入ったので気に入られたのかもしれない。
「今日も部活来るよね?」
焼きそばパンの包装ラップをはがしながら青田が聞く。
「行くよ」
俺は言って、水筒を出し、弁当箱の蓋を取る。俺の弁当は母が姉と父と俺の分を作る。昨日の夕食のおかずと冷凍食品をバランスよく組み合わせてある。俺は手を合わせ、食べ始める。俺と青田の所属する文学研究部は、文学と名にあるものの、純粋な文学部とは別に存在している。純粋な文学部では、文化祭の販売に向けて冊子を作ったり、せっせと自分の小説を書いてお互いに読みあうなどしているそうだ。では、俺たちの文学研究部は何をしているのか?
「今日は何する?」
青田が聞いた。文学研究部は、かっちりとした文学部よりも、毎日移り行く柔軟な活動をしている。
「昨日みたく本を読めばいいんじゃないか」
俺は言った。
「そうだね」
青田は頷いた。白状しよう。文学研究部には、俺と青田の二人しか部員が存在せず、活動内容も全く具体的ではない。お互い自由に好きな本を読んだり、駄弁ったり、スマホでオンラインゲームに興じたりしている。数年前に廃部した、非公式の部活だ。当然こんな緩い活動に出る部費は無いし、あてがう教室もないので、俺たちはよく屋上か、屋上に続く階段で自称部活動をしていた。
青田は焼きそばパンをペロリと平らげると、ビニール袋から缶のメロンソーダを取り出した。今時缶のメロンソーダは珍しいような気もするし、その缶には昔からなのか、言ってしまえば古いデザインとロゴが残っているのだが、青田はいつもこのメロンソーダを飲む。いつもどこで買っているのかと聞いたことがあるが、青田は首を傾げ、そこらじゅうで売ってるよ、と答えた。実際、そのメロンソーダはどこにでもあった。コンビニにもあったし、校内の自動販売機にもあった。意識して目を凝らすと、信じられないほどメロンソーダは日常に入り込んでいた。見ているのに見えていないものに気付かされるようで、コンビニのクーラーケースの前で手品を見たような気分になった。これがカラーバス効果とかいうやつか、と妙に感慨深くなった。
カシュッと小気味よい音を立ててプルタブが開けられる。人工的なメロンの匂いが鼻腔をくすぐる。青田はうまそうにそれをごくごく飲んだ。
「二日にいっぺんでもそれを果物ジュースに置き換えたらずっと健康になるだろうに」
ぷはぁ、と息をついて青田は缶を机に置く。飲み口に残る人工的で鮮やかな緑の液体を見ながら俺は言った。
「榊はわかってないね。これこそが俺の元気の源なの。果汁がないからいいんじゃないか。果物ジュースには決して補えないさ」
なぜか胸を張って青田は言う。いつも水筒の茶を飲む俺にはわかるまい、ということなのだろうか。
ふと、窓の外が騒がしいことに気付いて俺は窓の方を見やる。今、俺たちは校門前のロータリーを見下ろす三階の教室の窓際にいた。ロータリーにはメガホンを持った女子生徒が何やら訴えており、周囲にはやや人込みができていた。
「募金かな」
青田もロータリーを見下ろした。校舎の窓からは俺たちと同じようにロータリーを見下ろす生徒が顔を出していた。
『ひと昔前の同調圧力や少数派の迫害!そんなのはもう古いんです!私たちは今、立ち上がるべきです!すべての個々の生徒同士が力を合わせ、多様性を守っていく時なのです!』
大きく身振りをしながら熱弁する女子生徒の顔が見えて俺は頭を押さえた。長くつやのある黒髪を流し、制服は一切着崩さずにセーラー服のリボンは几帳面に結んである。陶器のように透き通った白い肌と、やや目じりの吊り上がった勝気な目。
「榊、あの子と知り合い?」
「ああ、中学が同じだった」
真宮は、いつもまっすぐだった。曲がったことが我慢できず、正しい方向へと正そうとし、その労力を厭わない。学生運動やデモなんかの極端な思想を掲げる団体に率先して参加していくタイプで、当然、面倒なことは極力避け、毎日緩く暮らしていきたい俺にとって得意なタイプとは言えず、また、彼女にとって俺は得意ではなさそうだったので、中学時代も少し距離を置いていた。
『私はこの高校のすべての生徒の皆さんに胸を張って明るい生活を送ってほしい!今、部活動の現状はどうでしょうか。ポピュラーで理解が広く得られている活動しかまともに評価されず、その他のことに興味をもっている人は、それがマイナーなことだからという、それだけの理由で部費ももらえず、部室すらないのです。人の活動したい熱意は、皆同等に評価されるべきです!サッカーや吹奏楽がしたい人はその願いがかなえられ、十分に応援までされているのに、宇宙や文学に興味のある人は、活動の部屋すらもらえないんです!多様性の危機です!』
青田はクスクス笑った。
「別に僕らはそんなに部室欲しいわけじゃないけどね」
「まったくだ」
俺も同意した。部活それぞれに割かれるスペースや予算は、伝統というものも関係していないと言えば嘘になるが、おおむね合理的に配分されている気がする。宇宙研究部や文学研究部はサッカー部や吹奏楽部と違って遠征も合宿もしないし、シューズやラッパなど、特殊な道具もいらない。なんなら指導者もいらない。極論、家でもできる。そんな部活がサッカー部と同じ部費をせしめたところでなんになろう。
『私は革命部をここに設立します!みんなでこの現状を変えませんか?入部待ってます!』
真宮はそう言うと勢いよく礼をした。校舎とロータリーからはぱちぱちと生暖かい拍手が起こった。
「あ、彼女、まだやってるね」
青田は屋上のフェンスに頭を押し付けるようにして眼下のロータリーを見下ろした。放課後となり、俺と青田は屋上に来ていた。見ると、昇降口から三々五々下校していく生徒たちに向かって真宮はまだ昼休みに開始した勧誘を続けていた。
「早く目が覚めるといいな」
「榊は冷たいな。俺はエネルギッシュでいいと思うけど」
「冷静なんだよ。エネルギッシュはいいが、エネルギーの矛先が違うってことに気付いてほしいんだよ。あの活動の成功で喜ぶ人がどれくらいいるのか。あの活動を迷惑に感じる人がどれくらいいるか。少し考えれば敵が増え、恨まれて傷つきそうなことはわかるだろうに」
「ま、たしかに喜ぶ人の人数は、敵に回す人数に対して割が合わなそうだ」
俺は椅子に座り直し、小説をまた開く。屋上は特になんの変哲もない白いコンクリートで、四方が二メートルほどのグリーンのフェンスで囲われ、下の階に降りるための階段に通じる小さな塔屋が唐突に建っていて、そのわきに雨ざらしの教室用机と教室用椅子が二組ずつ置いてある。普段から屋上は解放されていて、この机と椅子も、昼休みに日常的に誰かに利用されているのか、雨ざらしで古い割にはきれいな状態だった。それで、俺たちがここを部活の舞台と定めたわけだ。当然、屋上なので屋根はなく、雨の日は防御の術もない。そういう時、俺たちは塔屋に入り、普段と同じことをする。塔屋の中、屋上につながる階段は、階段の横半分が良くわからない古い段ボールや、足の折れた椅子、使われていない机などが積んである。梅雨の時期などはだいたいここで活動した。
この高校は高台に位置しているため、盆地を見下ろすフェンス越しの視界は広く、天気のいい日はビルや民家の屋根がキラキラ光る。俺たちの育った、たいして大きくもない大都市郊外のベッドタウンだが、俺はこの眺めが気に入っている。いや、ただ単に高いところが好きなのかもしれない。反対側、盆地を見降ろさない方にはグラウンドがあり、運動部の応援や掛け声が聞こえる。いわゆる華々しい青春、とは少し違うかもしれないが、ここで時々景色でも見ながらぼんやり本を読んでいたい、これが俺の願望なのだった。
真宮はそれから毎日勧誘を続けた。朝早く登校して声掛けし、昼休み、放課後もロータリーに立ち続けた。最初は驚き、興味を持っていた生徒たちも三日が過ぎるころにはほとんどが興味をなくし、真宮の勧誘に愛想笑いを浮かべて会釈をすることもなくなった。最初のころは廊下で立ち話をする先生の会話の中にも登場したが、今は先生たちも特に彼女になにか言うでもなく、放任しているようだった。真宮にはどこか容姿や行動に神聖とでもいうべき話しかけづらさがあったので、幸いにも生徒たちはただ遠ざけ、無関心を決め込むだけで、いじめや陰口には発展していなさそうだった。
「今日、雨降りそうだけど、どうする」
昼食を向かい合って食べながら青田が聞いた。今朝の天気予報では、午後から天気が崩れるようだった。
「うーん、モールでも行くか?」
モールというのは、この高校から徒歩でも行ける大型複合型施設、つまりはショッピングモールのことだ。ゲームセンターや漫画の取り揃えの充実したブックストア、財布に優しいサイゼリアと、地元の中高生の庭と言っていい場所だ。
「いいね」
青田はすぐ頷いた。またメロンソーダを飲んでいた。
予報通り、午後の授業をしている間に雨は降り始めた。雨は降り始めから強さを変えず、放課後も降り続いていた。
昇降口に行くと、青田がすでにいて、スマホをいじりながら待っていた。俺に気が付くとひょいと手を挙げる。両手のどちらにも傘を持っていなかったので身構えるが、青田はすぐにカバンから赤い折り畳み傘を出して開いた。俺は透明のビニ傘を開く。
「これ、姉さんのなんだ。朝、雨降るから持って行けって」
青田は聞かれもしないのにそう言った。
雨の日は自然と足元に目が行きがちになる。俺は昔から傘をさすのが苦手だから靴はもちろん、だいたいいつも膝くらいまではズボンが濡れる。ロータリーを横切った時だった。ふと、目の端に赤いものが入る。青田の傘ではない。顔を上げると、一人の女子生徒が赤い傘をさしてロータリーの端っこに立っていた。真宮だ。プラカードを持っている。革命部、と書いてある。
「今日もやってるんだね」
青田も俺の視線に気づいてつぶやいた。
「相当強い意志があるんだろうな」
青田はそう続けた。俺は黙って頷いた。真宮は昔からそういうやつだった。きっちりと校則どおりに白無地の20センチの靴下を履いた足は、雨の中やけに寒そうだった。早くやめてしまえばいいのに。
真宮が最初の演説をぶった日から二週間が経った。真宮は唐突にロータリーに立つのをやめた。季節は急激に夏へと変わり、空は青さを増していた。
「今日はいないんだね」
昼食を食べながら青田は言った。今日プール開きがあり、さっきまで泳いでいたのか、青田の髪は少し湿っていた。
「ああ、朝も立ってなかったな」
「心が折れちゃったかなぁ。協力はしたくないけど、ちょっと応援してたのに」
俺は曖昧に頷いたが、内心なぜかほっとしていた。とうとう諦めたのか。
「心配ないさ。革命なんかしなくたって、高校生活には見出すべき面白味がたくさんあるんだから」
「そうだね」
青田は相槌を打ったが、まだ少し残念そうだった。
放課後、屋上に出ると、太陽が焼いたコンクリートの熱気でむわっとした。
「これから夏は大変だね」
俺たちは無理をせず、早々に屋上に見切りをつけて塔屋に戻った。塔屋も決して涼しくはないが、初夏の午後の日差しは遮ってくれる。四時の夕日といえども、直射日光はもうはっきりと暴力的な暑さを感じる。
「さて、何か冷たい飲み物でも飲みたくないかい?」
青田は言った。
「ああ、飲みたいね」
俺たちは正々堂々ジャンケンをして、負けた俺が一階の自販機まで買いに行くことになった。
「青田はいつものだよな」
「うん、よろしくー」
俺が自販機で冷えたペットボトルのスポーツドリンクと例のメロンソーダを買って戻ると、青田は団扇で顔を扇ぎながら階段に座り込み、スマホをいじっていた。
「なんだその団扇」
青田は階段に積まれる段ボールの一つを指さした。
「数年前の生徒会のやつみたい。文化祭で配ったのかもね」
よく見ると素人臭いイラストとノリだけで書いた寄せ書きのような文字がある。
「メロンソーダありがとー」
青田は階段を上ってきて体中じんわりと汗をにじませる俺に団扇で風を送った。若干の埃臭さを感じる。
「すみません、ちょっといい?」
急に後ろから声がかかって俺は振り向く。青田は反射的に団扇を背中に隠した。まるで陶器のように白い肌に、勝気な吊り目。真宮だった。
「何か?」
尋ねる俺の前に真宮は一枚の紙を突き付けた。
「榊君と青田君よね。署名に協力してほしいの。あなたたちが文芸研究部に属しているのは知っているわ。そして、今のあなたたちの活動の状況というのも調べさせてもらった。私はこの部が非公式だからという理由で活動の幅を制限されているという状況を変える手伝いをしたいの」
真宮が突き付けてきた紙には名前を書く枠と、その下に細かな文字が並んでいた。要約すると、現在非公式の部活を公式として認めること、どの部活も平等に最低限同じ額の部費を得ること、どの部活も学校内で最低教室一つ分の活動場所を得ること、の三点を生徒会に訴えるというものだった。
「革命部は諦めたわけじゃなかったんだね」
青田は言った。真宮は唇をきっと結んだまま頷く。
「いいよ、署名くらい。俺、書くよ」
青田は軽く言って、紙を受け取って壁に押さえると、真宮が差しだしたボールペンでさらさらと署名した。真宮は青田から受け取ったボールペンを今度は俺の方に差しだした。青田が本気でこの申し立てが生徒会に通ると思って署名したわけではないことくらいわかる。優しさだろう。もしくは、面倒を避けるために手っ取り早い方法を選んだだけかもしれない。物分かりがよいというのは、面倒を避ける上でとても便利だ。
「いや、俺は断る」
俺は差し出されたボールペンを突っ返した。俺は手っ取り早い方法をとることにしたのだ。結果、多少面倒なことになっても真宮の目を覚まさせるのに一番手っ取り早い方法。真宮が革命部を正しく諦めないかぎり、俺の中の面倒は解消されない。真宮はボールペンと俺の顔を交互に見た。
「どうして?あなたたちにとって何も不利益になるようなことはないはずよ」
「目先はな。長い目で見れば必ず不利益だ。今、生徒会の部活予算をせしめている公式の部活と俺たち非公式の部活の活動の間には相当な差がある。全部の部に同額の部費を割り当てることは、平等かもしれないが公平じゃないだろう。すぐに今の公式の部の部員たちの不満は募り、矛先は俺たちに向く」
俺は至極まっとうなことを丁寧で分かりやすい語彙を尽くして説明したつもりだったが、真宮は形のよい唇をややゆがめただけだった。
「そういう状況にはならないわ。今非公式の部に入る人たちはチャンスがないだけなの。適切な部費と活動場所があれば、今の公式部と同等な熱量で同等、またはそれ以上の活動の成果を出せる。不満があるなら転部すればいいのよ。不満があるっていうのはそっちの活動が魅力的に見えたってことでしょう」
暴論だ。俺は頭を押さえる。
「部活をやる全員が全員、同じ熱量をもってなにかに打ち込もうとしてるわけじゃないんだ。そして、打ち込めるならなんでもいいと思っている人は少ない、というかきっといない。野球がやりたいから野球部に、サッカーがしたいからサッカー部に入ってるんだろ。今の非公式部への部費を増やすってことは、今の公式部への部費を削るってことだ。今よりも予算が減った公式部の人たちは怒る」
「怒ったからってなんだっていうの?今までの状況がおかしかったことに気付くいいきっかけだわ。文芸とサッカーが同じように評価されるべきものと見直すはずよ。決してサッカーをやる人がえらいわけじゃないわ。みんながお互いに価値を尊重しないと多様性が失われるのよ」
「なぜそんなに多様性にこだわる?多様性が欲しいなら、今の状態がすでに多様じゃないか。それぞれの部が、それぞれの活動に見合った多様な金と場所で活動してる。君がやってることは逆に多様なものを一つの型に押し込めようとしているように俺は感じるね」
「それは違う。あなたたちは今ある状況に押し込められて、これでいいんだと思わされているだけだわ。今の型を抜け出しさえすればもっと自由に本来やりたいことをするはずよ」
「まあまあ、二人とも。ちょっと落ち着こうよ」
白熱してきた言い合いに青田が割り込んだ。俺は息をつく。はっきりと実感する。やはり、真宮のことは苦手だ。真宮は拳を握りしめ、俺をまっすぐに見ていた。
「そこ、ちょっと通してもらってもいい?」
出し抜けに階段の下から声がかかって、俺たち三人は見下ろす。見ると、三人の女子生徒がそれぞれの手に金色のトランペットやらタオルやらを持って立っていた。リボンの色から上級生ということがわかる。三年生一人と二年生二人か。
「あ、すみません」
青田は俺と真宮を階段の端に寄るように促した。しかし、真宮は階段の通り道、つまり段ボールなどが積まれていないところ、の真ん中に仁王立ちしたまま動かなかった。
「どうして屋上を使うんですか」
真宮は上級生たちに向かって聞いた。通せんぼされるとは思っていなかったらしい上級生たちは少し驚く。真ん中の三年生と思しき一人が口を開いた。
「ええと、夏休みにコンクールがあるから、パート練を増やすことになったんだ。もしかして、今屋上使ってた?」
「いや、今は」
と言いかける俺と青田を遮って真宮は言った。
「はい。文芸研究部と革命部が先に来て使っていました」
上級生たちは少し顔を見合わせた。そして今度は真宮ではなく、俺たちのほうを向いて言った。
「使わせてもらってもいいかな?」
「どうぞ」
青田が言い、俺は頷く。しかし、真宮はそれにかぶせるように言い放った。
「いいえ、だめです」
「おい、いいかげんにしろよ」
俺は手を伸ばすが、真宮は振り払った。
「文芸研究部が使っていた場所を、後から来た吹奏楽部が奪っていい理由を説明してください」
「理由って……、それは、さっき使うのを了承してもらったし、私たちはコンクールが迫っているし」
「コンクールに出るとえらいんですか。文芸研究部の活動はコンクールに比べて価値がないから、先に来ていても譲れというんですか」
上級生たちはますます困った顔をした。
「ええと、革命部?の真宮さんだっけ。あのね、うちの学校では公式の部になるにはいくつか条件をクリアしないといけないの。毎年申請をして部承認が生徒会から下りるんだよ。どっちの活動のほうがえらいとかじゃなくて、こっちは部活をやっていて、君たちは自主活動をしているわけ。ここは学校だから、承認の通ってる部が活動できないとおかしくない?」
完全にこの上級生の言うことはもっともだ。真宮含め、俺たちのこれは自主活動だ。
「生徒会に認められたら何でもやっていいんですか」
「学校においてはね」
「でも、それじゃ、多様性が……」
「ああもう!」
我慢の限界とばかりに声を上げたのは後ろで話を聞いていた女子だった。二年生のようだ。真宮はびくりと体を震わせる。
「駄々をこねるのもいい加減にしなよ!正直だれもあんたの活動に賛同してないよ。何かを革命したいんならよそでやってよ。学校じゃ、迷惑だから!」
声を上げた二年生は、ずんずんと階段を上ってきて、真宮を押しのけるようにして屋上のドアを開けた。黙っていた方の二年生もそのまま後について上っていく。真宮はうつむいたまま振り向かなかった。
「麻野!ちょっと言いすぎなんじゃ、」
「先輩は優しすぎるんですよ。私たちはコンクールで優勝しなきゃなんですから、こんなのに構ってられないんです」
三年生は俺たちと後輩を交互に見た。そして、
「ごめん、練習はやらせてもらうよ」
と言うと、真宮の脇を通って階段を上って行った。ドアは閉められた。
目だけ動かして真宮の方を見るが、長い髪に隠れて表情は見えなかった。真宮はぱっと走り出した。走って廊下を抜け、角を曲がって見えなくなった。俺たちはその間、突っ立ったまま動かなかった。トランペットの音出しが始まった。俺はゆっくりと体を動かした。思ったより体が強張っていて、それを動かすたびにミシミシ、バキバキという音が聞こえてくるかと思えた。俺は床からペットボトルと落ちている紙を拾い上げた。
「さて、今日はもう帰るか」
青田は頷く。
「ここで彼女を追いかけて行って慰められれば、俺たちももう少し男として胸を張れたのにね」
「さっきのは完全に真宮のせいだろ。今俺たちにすべきことはない」
「榊は冷たいね」
「冷静なんだよ」
全校集会が開かれたのはその三日後だった。蒸し暑い体育館の中に生徒たちは並んで座らされる。
この高校では七月の中盤に文化祭が執り行われる。開催まで一か月を切ったことについて、生徒会の中の、やけにテンションの高い部門である文化祭実行委員から告知と説明があった。そのまま集会は終わるかと思われたが、最後に生徒会長がマイクを取った。生徒会長は、学校内のルールがいくつか決定的に変わったということを発表した。
「で、どうして榊は署名を提出したんだい?」
青田はメロンソーダを傾けながら尋ねる。そう、俺はあの日拾った紙に署名をして、直接生徒会に提出した。もちろん、あの条件のまま提出したわけではない。俺が紙を持って生徒会室に入ると生徒会長の男子生徒は驚いたが、俺の提案する話を丁寧に聞き、理解してくれた。
「自主活動だよ。きわめて個人的で革命的な」
弁当を包んでいたランチョンマットが風ではためいて弁当に接触しそうだったので、水筒をランチョンマットの角に置いて重石替わりにする。屋上に初めて昼食を食べに来たが風と日差しは強い。
「ふうん、革命的」
集会で発表されたルールというのは一言でまとめれば、放課後の屋上の利用権を予約制にするというものだった。
「とすると、君はあの日の真宮さんの主張にどこかしら動かされたってこと?」
「同情したって線は考えないんだな」
「榊は同情だけでこんなに行動しないでしょ」
「よくわかってるね」
俺は肩をすくめる。
「これ以上面倒を避けるためだよ。放課後、屋上が誰もが予約さえすれば使えるからもめごとが減るだろ。多少手数がいるけど、予約さえすれば俺たちも堂々と使えるし、吹奏楽部も今後ほぼ今までと同様に屋上を使える。革命部は初めての革命っぽい効果が見られて、活動としては満足できて、これからは吹奏楽部と衝突しなくて済むようになる。みんな丸く収まった」
青田は少し笑った。
「饒舌だ。榊は真宮さんのことになるとよくしゃべる」
「そんなことはない」
俺は抑揚をつけずに言う。青田は人差し指を立てた。
「俺はこう思うんだ。君は冷たいように見えて実はやさしさがある。だからこれ以上真宮さんが他の人からヘイトを買うのを見ていたくなかったんじゃないかい?こうすれば全校生徒は真宮さんを、極端な主張をしていたように見えていたけど意外と落としどころをわかってるんだな、と見直し、しかるべき手法で生徒会に提案をし、それを通す力もある、そう思わせることもできた」
「どう思おうと勝手だけど、俺は俺の平穏を守ろうとしただけだよ」
「革命的な手段でね」
青田はメロンソーダをあおり、空になった缶を屋上の白いコンクリートに置く。俺は何か言おうと口を開きかけるが、やはり面倒な気がして閉じた。だいたいその通りだ。フェンス越しに街へ目をやる。これからの放課後、ここは誰のものでもないのだ。今までだってもちろんそうだったのだが、公式に、より厳密に誰のものでもない。みんなの場所であって、俺たちの場所じゃない。ルールの施行は、予約のシステムが完備されてからなので発表されて次の日から、というわけではなかったが、すぐだろう。文芸研究部は、俺たちはどうなっていくんだろう、と俺はぼんやりと考える。気軽に来れた場所が、簡単な手順を踏めばいいだけなのに、ずいぶん来るのが億劫な場所に変わってしまったみたいだ。俺が変えてしまったのだ。吹奏楽部のコンクールが終わったらまた同じようなことをするのは可能だ。可能だけれど、何か違う気がする。
スマホのバイブ音がして、青田はスマホを手に取る。
「あ、ニュースだ」
ニュースアプリの通知らしかった。風が吹いて空になった缶が倒れてフェンスまで転がった。
「うそ、メロンソーダが果汁入りになるんだって」
青田はうろたえた声で言った。あまりにその声が動揺していたので俺は笑ってしまう。
「笑いごとじゃないよ。ええ、今までずっと無果汁だったのに1%にするの?今まで1%だったのが2%になるのとはわけが違う。ゼロといちは全然違うよ」
青田はうろたえながらも立ち上がって転がっていった缶のところまで歩いて行って拾い上げる。
「あーあ、果汁0%だから好きだったのに」
青田は惜しむように缶のラベルを見る。ほぼ同じはずなのに全然違う。
「果汁なしが売ってるのはいつまで?」
俺は尋ねる。青田はスマホを少しいじる。
「来月までだってさ」
「そうか」
今日の帰り道、メロンソーダを買って帰ろう。俺はぼんやりとそんなことを思った。果汁0%の、メロンソーダを。
