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極上の粗食 ”まずいものは食べたくない”食い意地が「私」を救った物語


美味しいものを知らない人が作る菜食料理は、信用できなかった。

ここから始まるのは、そんな私が菜食に目覚めた物語です。




第1章 菜食は本当に美味しくないのか


10年近くひきこもりをしていました。
その間、ひどくなったうつを治すため、あるヨガ道場で療養させてもらうことになりました。

最後まで私が抵抗したのは、そこの食事で自分が保つかという心配でした。

道場はインド式で、菜食。
お肉・お魚禁止、乳製品だけはブッダに倣ってオッケーとの事。

それまで私が外で食べたことのある菜食料理は、あまり美味しいとは感じられませんでした。いくら体に良くても、気の進まないものを食べて長生きするくらいなら、好きなものを食べて短命で終わりたい。そんな考えの持ち主でした。

しかし、どんどんうつはひどくなり、当時付き合っていた彼氏から
「いいから、あなたはそこへ行きなさい」
と、追い出されるように、そのヨガ道場へ移り住むことになりました。



道場に着いた翌日。

「何の仕事をしますか?」と、
道場長から聞かれました。

ゆっくり療養させてもらうつもりだったので「?」です。

「ここでは、何か、仕事をしてもらわないといけないんだよね。
どうする?
掃除とか食事作りとかあるけど」

掃除は小学生の頃から好きではなく、料理なら嫌いではなかったので、かろうじてやってもいいかなくらいの小声で答えると、
「じゃあ道場の食事係ね」
と、任命されてしまいました。

翌日から、食事作りがスタート。

しかし、台所へ行っても、お肉やお魚を使わないとなると、どんなものを作ればいいのか見当がつきません。

とりあえず、ひき肉の替わりに大豆を使って”肉なしカレー”を作ってみました。

しかし。
まずくはないのですが、美味しくない。
仕方がないので、その日の夕食は、ふりかけでごはんをたくさん食べて、空腹を満たしました。

次の日。
今度は和食で行こうと、大きな干し椎茸があったので、それをお肉の替わりに”肉なし肉じゃが”を作ってみました。
お昆布だしにお醤油とみりんでしっかり味をつけているので、煮物としては美味しく出来ましたが、積極的に美味しいというわけではありません。
満足感がないのです。

不全感が残るというか、おいしさが中途半端。
何かを我慢しているという感じ。
こんな食事を毎日食べるのは辛い、と思いました。

その時ふと、頭の中はいつも憂鬱で一杯のうつ状態なのに、脳が働きました。

世界は広い。
自分が知らないだけでこの世の中には、お肉もお魚も使わなくても美味しいお料理がきっと、あるはず。

次の瞬間、閃きました。

「精進料理だ!」

その週末、早速、みかん畑に囲まれた山の中腹の人里離れた道場から30分以上歩いて駅へ向かい、電車に乗って街へ行き、大きな本屋さんで、精進料理の本を一冊、買って帰りました。
満足のいかないごはんを毎日食べるのが、苦痛でした。



最初に作ったのは”蓮根団子”。
蓮根をすりおろして、ザルで水気を切り、細かく刻んで塩揉みして水分を絞った小松菜を混ぜ、塩で味付けして片栗粉をつなぎに丸めて焼いたものです。

蓮根団子、食べたことありますか?
食べたことのない人はきっと、驚くと思います。

お肉ともお魚とも全然違う、だけどそれに負けないくらい強い味がして、ものすごく美味しかったのです。

この時、何か、ハッとするものがありました。

菜食のお料理は、作り方がお肉やお魚料理とはおそらく全然違う。
何かの替わりという、代替の発想では美味しく作れない。

だったら美味しい菜食料理は、どうやって作ることが出来るんだろう?

自家製うす揚げ
がんもどき
すりおろした山芋を使ったかるかんまんじゅう
蕎麦粉のクレープ
‥‥etc

料理本に載っている精進料理を、一つずつ作っていきました。
こんなものも家で作れるんだ、と豆腐を薄くスライスして油で揚げた自家製うす揚げを作った日は、感動でした。
外で買うより、断然美味しい。
すりおろした生姜を添えて、ちょっとお醤油を垂らすと、地味だけどご馳走感があって、うれしい。

精進料理に触れた事で、お肉でもお魚でもない野菜独特の美味しさがあること、そして菜食でも満足のいく美味しいお料理が作れる事を知りました。



次に手にしたのがマクロビオティックのお料理本です。

ここで”小豆かぼちゃ”というお料理に出会います。
これが画期的な出来事でした。

”小豆かぼちゃ”とは文字通り、小豆とかぼちゃを煮たものです。

道場に入る前の自分だったら、小豆とかぼちゃを煮るのなら、お砂糖は入れていたはずでした。
生クリームも加えていたかもしれません。
そうすれば、間違いなく美味しく仕上がります。

ですが、マクロビオティックは基本的にお砂糖は御法度。
道場は山の中にあって、近くにコンビニもない。
素直に、塩だけで小豆とかぼちゃを煮てみました。

一口食べて、衝撃でした。

塩だけで煮た小豆は、野生味があって、香りがよく、かぼちゃと合わさることで独特の濃厚さがそこにあったのです。
乳製品が醸す濃厚さとは別物で、地味だけど存在感のある味がする。

これは一体、何なんだろう?

自分の知らない美味しいものが存在することに、驚きを覚えました。

というのも、私は道場に来るまで、世の中で美味しいと言われるものを、食べ続けていたのです。

当時、おつきあいをしていた彼氏がグルメさんで、私はそのお供として、都内で美味しいと言われるお店を400軒近く食べ歩いていました。
我々が狙っていたのはもっぱらコスパのいいフレンチのランチ。
あとは、イタリアン、中華、和食、たまにお鮨、天丼、パン、ケーキ、カフェ、ラーメン屋さん、お蕎麦屋さんなどを巡っていました。

なので、いわゆるグルメと呼ばれる世界の入り口の端っこにはいる気でいました。
世の中の美味しいと言われるものの味は多分、わかった、という風な。

だから、小豆かぼちゃはショッキングでした。

そして、思いました。

もしかしたら、この世界の向こう側には、自分が知らないだけで、まだ見ぬ美味しい世界の領域が広がっているかもしれない・・・
だとしたら、菜食料理の美味しさの全てが知りたい。

この時の心境は、コロンブスがアメリカ大陸を発見した時の興奮に近かったかもしれません・笑

小豆は一般的には甘くするのが、当たり前です。
その当たり前をやらなかったら、未知の美味しさがあったのです。



小豆かぼちゃは、あまりにも美味しかったので何度も作りました。
ある時、かぼちゃが手に入らなかったので、さつまいもで作ったことがありました。

きっと美味しいはず、と予想したのですが、出来上がりはそれほどでもありません。
小豆もさつまいもも、それぞれは美味しいのに、合わせると何の感動もなくフツーの味しかしない。

単に、さつまいもを蒸して塩を振って食べた方が、むしろ美味しい。
小豆とかぼちゃを合わせることで生まれる美味しさが、小豆とさつまいもとの間にはないのです。

ここには組み合わせて作る必然性が、ない。

この時、菜食料理のおいしさとは、素材と素材の組み合わせにあるのかもしれない、と漠然と思いました。

そして、感じたことがありました。
野菜は、甘みや乳製品など、旨みを足したり重ねると、野菜らしさがかすんでしまう。
ぎりぎりに削ぎ落とすことで、むしろ素材の味は引き立つ。
それが、菜食料理の独特の美味しさ=滋味ではないだろうか。
そんなことが、頭を巡りました。

味の本質


道場に来た当初は、お肉もお魚も使えないので、お料理をするのに戸惑いました。
ですが、菜食料理は使える素材に制約があるので、工夫する面白さを、段々と、そこに、見出していきました。

例えば、スープを作るとします。
一般的にはベーコンを加えると、確実に美味しくなります。
ですが、菜食にはこれ一つあれば美味しくなる!といった、アミノ酸の極めて豊富なキメの食材がないので、その手は使えません。

だったら、どうやって味の厚みを作って行くか。
だしの素材は、何を使うか。
お昆布、干し椎茸、切り干し大根。
それによって、合う具材は何かを選んで、スープを作る。

調理の考え方が、菜食とお肉やお魚を使う一般のお料理とでは、全然違うことがわかってきました。



お肉やお魚は旨みが強いので、さっと一切れ、塩を振って焼いただけでも美味しくなります。
菜食のお料理は、一つ一つの素材の旨みが控えめなので、美味しくするためには何か、仕掛けのようなものを考える必要があるのです。

その基本となるのが、素材の組み合わせではないか。
その思いに、確信を与えてくれたのが、あるお料理でした。

”ジャガイモとセロリのローズマリー風味”

『クチーナ ベジターレ』という料理本(柴田書店 伊崎裕之著)にあった一品です。

ジャガイモとセロリを1センチくらいの厚さにスライスして、ローズマリーで香りを付け、オリーブオイルで蒸し煮にしたもの。
このお料理が驚くほど美味しかったのです。

使っている油はオリーブオイルなのに、ローズマリーの酸味が味全体に深みを与え、バターのような濃厚さ。
香りもセロリと合わさって、鼻腔に広がる感じが心地いい。
蒸し煮なので味が重層的に広がって、ありふれた素材を使っているのに特別感がある。
そして、調味料は塩だけしか使ってないのに、豊かな味わい。
(ヴィーガンカフェで働いていた時、このお料理を作ると、同僚の誰かが必ずセンスがいいね、と褒めてくれました。)

この時、自分の中で、公式のようなものが生まれました。



菜食料理の美味しさとは、最小限の素材で最大の美味しさを生み出す、組み合わせにある、と。
その組み合わせによって、美味しさが、1+1が2をこえて、3や5、あるいは7や8まで飛躍する。
それが菜食料理の個性(=存在理由)ではないだろうか。

”ジャガイモとセロリのローズマリー風味”に、玉ねぎやにんじんなど、何か一つでも足してしまうと、味はぼやけてしまいます。

菜食料理は、俳句に似ていると思いました。
五七五の限られた文字数で、言葉の選択や、配列、音のリズムによって、感動の次元が宇宙にまで引き上げられるあの感覚。

”ジャガイモとセロリのローズマリー風味”でいうと、ハーブ(またはスパイス)の働きは、偉大な裏方です。
全体の印象(美味しさ)に余韻を与え、強弱をもたらします。
これは俳句でいうなら、字余りや字足らず、あるいは助詞の使い方と、似ている。

そういえば、書きながら思い出したのですが、かつてのグルメさんの彼が、
「デザートで果物を使うんだったら、その果物以上の美味しさがなかったら、それはデザートじゃないんだよね」
とよく言っていました。

当時はふんふんと、ただ聞いているだけでしたが、思っていた以上に、その考え方は脳裏に刻み込まれていたようで、調理をする際、その素材を使う必然性は何なのかと、無意識に考える癖がついていた気がします。

”小豆かぼちゃ”の体験は、菜食料理の美味しさとは何か?についての探求心を、一気に深めてくれました。

そして、お料理にバターや生クリームを使ったら、間違いなく美味しくなるのだから安易、と思うようになり(←過去の自分です)、生来のひねくれて物を見る性格の悪さが、菜食料理と合致していたように思います・笑



ハーブというと、思い出があります。
かつて神泉にあった「エヴリーヌ」というフレンチレストラン。ランチでもデザートワゴンが出て来ました(このシステムは、すぐ後になくなりましたが)。

そこのデザートが、例えばフレッシュなラズベリーが大きな器の上にぎっしりと乗ったピスタチオのムースなど、どれも絶品で、中でも”桃のコンポート”がひと際、忘れられない味でした。

桃が、えもいわれぬエキゾチックな香りがするのです。
その正体は何なのか、食べた後、気になって、考え続けて、ようやく「あれだ!」とわかりました。
赤ワインと甘みを加えたシロップに、乾燥したミントの葉が使われていたのです。
(これは何度も作りました。レストランで出てきたものに、かなわないとはいえ、なかなか美味しく出来たと思います)

ハーブやスパイスというとお肉料理に使うイメージでしたが、道場のお料理にも使い始めるようになりました。



ところで。
お世話になったヨガ道場は修行するための場所で、禁欲は必須のはずでした。
小洒落たお料理が求められるところではありません。

しかし、当時の道場は人気低迷で、経営はかなり厳しい状態。
元ミュージシャンだったという道場長は、そこはかとなくナンパな雰囲気の漂う感じで、労働が嫌いなタイプの人間。

「俺は、もう、今生はいいんだ。
来世、頑張るから」

と、世捨て人的な発言を時々、されていて、逆にいうと本や漫画の持ち込み禁止とか、道場にはいくつかルールもありましたが、良くも悪くも私の存在に対してもスルー。

ひどいうつ状態だったので、ヨガの修行で心を強くする方法や、瞑想法なんかも学べるのではないかという期待もあったのですが、そういった指導もなし。

沖ヨガとか(よくわかりませんが)、もっとしっかりしたところへ行くべきだったんじゃないのか。
お金をドブに捨てたのか・・・等々、後悔も走りましたが、そのおかげで何をやっても注意されず、好きなだけ台所にひきこもって、自由にお料理が出来たのは、ラッキーでした。

経営のヤル気のない道場長と、料理以外生きる気力のない私。
そこは、何かが引き寄せられる空間だったのかもしれません。

ちなみに、道場長の名誉のために書き足すと、それからしばらくして、道場長はネットによる集客の方法を見出すことに成功。
瞑想などしに来る人の数が急増し、経営も右肩上がりになったそうでした。
ミュージシャンをやるくらいなので、直感力というか霊力のつよい方で、イケメンさんでした。



話は横にそれました。
戻します。

ハーブについては参考になった本があります。
北村光世さんの『ハーブクッキング』(柴田書店)。

この本は、習うより慣れろでハーブの知識がなくても、見ながら作っていくうちに、自然とハーブの選び方がわかってくる一冊でした。

本の中で一番、気に入ったお料理は、オクラのピクルスです。

ピクルスにディルが使ってあって、オシャレなのです。
また、オクラをピクルスに使うというセンスも斬新で”外国”を感じさせ、その感覚が楽しく、ハーブを使った野菜料理に夢中になりました。

ディルは、フレンチドレッシングに混ぜて、ゆでたじゃがいもに和えると北欧風になります。
シンプルに、蒸したカブにディルと米酢と塩を振りかけると、カブの甘みが引き立って不可思議な香りの一品に。
じゃがいもはトマトソースを添えて、バジルやオレガノ、そしてオリーブなどを足すとイタリアンテイストになります。

道場のダサダサの台所でも、色んなお料理を作ると、テーブルの上は海外旅行しているようで、愉快な気分になれました。



ハーブは、料理のインスピレーションを高めてくれます。

ある日、ヴィーガンカフェで働いていた時、無農薬の畑で育った立派なルッコラが、キッチンに送られてきました。

ルッコラは胡麻の香りに似ています。
ちょっと考えて、何か変わった副菜を作りたかったので、厚揚げときのこを煮浸しにして冷やし、ルッコラを添えてみました。

胡麻の香りがするので、和の素材の厚揚げと合わせても違和感はなく、趣が変わって新鮮です。
こういうカテゴリーをずらした組み合わせが、デザインをしているような感覚で、楽しいんですよね。

こうしたセンスも、思えば食べ歩きをしたフレンチから来るものでした。



今となっては珍しくない組み合わせですが、昔、青山に「レ・クリスタリーヌ」というレストランがあり、そこで出てきた、穴子のフリットにバルサミコソースが添えてあって、ガラムマサラをアクセントにした一品が、とても印象に残ったのです。

それまで味わったことのない香りと、美味しさでした。
イタリアンのバルサミコと、インドのガラムマサラ。
料理のカテゴリーの異なる香りを組み合わせるセンスに、自分の狭い常識が揺すぶられる思いで、動揺したのを覚えています。

時々、ごぼうの唐揚げを作ります。
下味はお醤油とみりん、スパイスは五香粉とガラムマサラを少々。
ごぼうはどこか穴子と香りが似ている気がして、ガラムマサラを合わせると、隠し味ですが、やっぱり美味しくなりました。

片栗粉をまぶしてカラッと揚げると、ごぼうの旨みが凝縮。不思議とこうばしいアーモンドの香りもしてきます。

スパイスによって、地味なごぼうが、無国籍風の小洒落た感じに変身するのが錬金術的で、菜食料理の面白味です。

ハーブやスパイスは、お肉やお魚料理だけでなく、むしろ菜食のお料理で使うと、野菜の味が立ち上がり、エッジが入るのが、発見でした。

味の演出 「食感」


フレンチを食べ歩いた経験から得たものは、やはりたくさんあって、その一つが切り方でした。

今でも、その美味しさははっきりと覚えています。
東京の文京区・白山にあった「ラ・ベル・ド・ジュール」というフレンチレストランのお料理で、ある日の前菜に、魚介のスープが出て来ました。

それほど大きくない白い器にいろんな種類の魚介が入っていて、一口、食べてびっくりしました。
口いっぱいにブワーッと美味しさが広がるのです。

そう感じる理由の一つはこれかもしれないと思ったのが、切り方でした。

スープの器に入っていた魚介の種類は、正確には覚えていないのですが白身魚と、サーモンか鱒のピンク系の魚、ホタテ、エビなど強い味のするものは入っておらず、全体に優しい味。
それらが、全て同じ大きさのダイス状にカットされていたのです。

大きさが同じなので、口に入れると、それぞれの味、香り、食感の弾力の違いなどがデフォルメされて感じられるのです。

噛む楽しさがそこにあり、そして、噛むごとに、次はどんな旨みがやってくるんだろう、というようなリズム感もあって、美味しいという言葉では言い足りない豊かな一皿でした。

それからしばらく経って、ああいう美味しさというものがあるのだと、後から理解が追いつきました。

美味しさとは、単に旨味ではなく、切り方という「演出」が作り上げるものなのだと。



ある日、ヴィーガンカフェで働いていた時、パーティー料理の一品に野菜のフリットを作ることにしました。

ありきたりのものは出したくない。

具材を何にしようか考えて、ふと、あの魚介のスープのことが思い出され、あれを入れよう、と閃きました。

フリットの具材は全て、同じ大きさのダイス状にカット。

野菜のフリットなので、

・新玉ねぎ
・カリフラワー
・蒸して軽く柔らかくした人参と、じゃがいも

それに、冷凍庫にストックしておいた”ひよこ豆”を解凍して用意しました。
大きさはひよこ豆が基準です。

野菜の中に豆が混ざると、楽しい違和感です。

新玉ねぎの噛むとジューシーでみずみずしい感じ、熱が加わって旨みを増すカリフラワー、にんじんの優しい甘さ、じゃがいものねっとりとした食感、そして”ひよこ豆“の噛んだ後、舌がざらっとする感触。

ひよこ豆を加えることで、より食感の楽しさが味わえる個性的なフリットが仕上がりました。

以来、パーティーがあると「あのフリットが食べたい」と、リクエストがかかるようになりました。

植物性の素材は一つ一つの旨みが控えめでライトなので、美味しいと感じさせるには演出が必要です。
「食感」を意識することで、菜食料理の奥行きが広がりました。

味の演出 「コントラスト」


ヴィーガンカフェで働き始めて間もない頃、初夏の季節だったのでかぼちゃのサラダを作ることにしました。

かぼちゃのサラダは、意外と、美味しく作るのが難しい気がします。
ほくほくした味のいいカボチャなら、そのまま蒸して食べる方が美味しい。

サラダにすると美味しく作れない理由は何なのか。
かぼちゃの甘味を、存分に引き上げられていないからではないかと、思いました。

で、どう作ったかというと、蒸したカボチャに、ゴーヤを合わせました。
かぼちゃの甘みにゴーヤの苦味を合わせることで、味に「コントラスト」が生まれます。

ソースは、西京味噌と白胡麻ペーストと塩を合わせたもの。
ベジマヨと称し、和え物のベースによく使っていて、苦味のあるゴーヤに甘みのあるソースを合わせました。

ですが、それだと、西京味噌の甘みがかぼちゃの甘みと合わさって、ちょっと重くなったので、最後に生姜のすりおろしを加えました。
これで全体に味が引き締まります。
夏らしさも生まれて、バランスがとれました。

ちなみにこのサラダも、お客様から好評でした。



「コントラスト」を意識すると、面白いものが出来上がります。
私は夏場、ピーマンのお味噌汁を作ります。

味噌は麦味噌。甘みがあるので、ピーマンの苦味と、よく合うのです。
またピーマンは、ごわっとした野生味があり、中和させるため舌触りのなめらかなお豆腐を使います。

甘みと苦味、食感の強さと柔らかさなど、反対の性質のものを合わせると「コントラスト」によって、お皿全体のエネルギーが高まります。
それが、食べ応えや満足感につながります。

菜食料理は、適当に材料を合わせて作ると、”小豆さつまいも“のように、味が単調になったりぼんやりしたり、美味しくない出来になりがちです。

一つ一つの素材の味のインパクトが控えめなので、演出が必要で、その主たる要素が「食感」と「コントラスト」であると言えます。

美味しさとは何なのか


道場では、隔月で断食合宿が行われました。

私はスタッフだったので、修行に来る人たちのための断食用の食事を用意すれば、合宿に参加出来る特典がありました。

合宿中は、一日に何度か、瞑想を行い、山を散歩したりして、プログラムをこなします。

やり始めは身体がスッキリして、心も整い、とても気分がいいのですが、空腹で物が食べられない苦しみは、日に日に増して、まさに苦行。

合宿が終わったら、何を食べるか。
どこのお店に行こうか。
誰かと話をする時も、一人でいる時も、頭の中はその計画で一杯でした。



合宿の最終日はお昼で終わり。
昼餐に、お膳が出るのがきまりでした。

修行をよくがんばりました、というご褒美です。

お膳の中身は、

・ごはんは、お粥に近いものがお茶碗に三分の一程度盛られたもの
・ほとんど具の入っていない、味噌を薄ーく溶いたお味噌汁
・デザートに、二分の一本にカットされたバナナ

このバナナが、特別な美味しさでした。
断食合宿は3回ほど参加しましたが、毎回、これが楽しみでした。

それで、思ったのです。

世の中に美食と称されるお料理は、それこそフレンチ、中華、イタリアン、お鮨、鰻etc・・・色々あります。
大枚叩けば、何だって食べられます。

でも、この断食明けに食べるバナナ以上に、美味しいものって、この世にあるだろうか。
これこそ、究極の美食ではなかろうか。

ここで、また問いが生まれました。

旨みのつよさが、必ずしも美味しさの絶対条件ではない。
だとすると、美味しさとは何なのか。

道場でのこうした経験から、美味しさの定義に多様性が生まれたような気がします。

「極上の粗食」とは


精進料理の“蓮根団子“から始まって、これまで発見してきた事柄を、箇条書きにして、まとめてみます。

・菜食料理の美味しさは、最小限の素材で最大の美味しさを生み出す、その組み合わせにある。

・素材に合ったハーブやスパイスを使うことで、美味しさが底上げされる(ハーブやスパイスは菜食料理だと、野菜の味を立ち上げる働きがある)。

・調味料や素材の数は、削ぎ落とす。
それによって野菜本来の味が引き出され、滋味が生まれる。

・美味しさは、味(=本質)と演出。
演出の主たる要素は「食感」と「コントラスト」。

これらの要素を組み込んで作った菜食料理を「極上の粗食」と名付けました。

美味しい菜食料理とは何か。
どうしたら作ることが出来るのか。

それについて導き出した答えであり、その調理の発想を因数分解したものです。

結果的に、

・使う素材の数が少なく
・調理法もシンプル

それゆえ、作りやすいのが特徴です。
(レシピもあります。短時間で手軽に作れるので、よろしかったら試してみてください。#創作大賞2026 #フード部門  にて応募済)

思えば、道場にいようがどこにいようが、まずいものは食べたくない、美味しいものが食べたい、というわがままで食い意地の張った性格が、美味しさの探求の原動力でした。

それは、道場を出てからも続きました。



ある日、帝国ホテルにパンケーキを食べに出かけました。
色んな人が美味しいというので(SNSやメディアもそうですし、カフェで働いていた時の同僚が絶賛でした)、どんな味なのか試しに出かけたのです。

きれいな焼き色のついたパンケーキが重ねられた上に、バターがのって、横にイチゴが添えられています。
シロップをかけて食べるようになっていました。

これに私はちょっとだけ、違和感を感じました。

あくまで個人的な感想です。
フレッシュな苺を使うのであれば、自分だったら、どこかに生クリームを使うのにな、と。

苺は生クリームや、練乳など、ミルク系の味がよく合います。
パンケーキの生地の食感と、フレッシュな苺との間に、距離を感じたのです。苺のプリザーブならパンケーキとの親和性はより増すのでは、など、そんなことが、頭を過りました。



この日のパンケーキですが、思わぬおまけがありました。

実はオーダーしてから時間が経つのに、なかなかお皿がテーブルに届かなかったのです。
どうしたんだろう?と心配していたら、ギャルソンの男性が訪れて、
「すみません、只今、焼き直しておりまして」
と、お詫びがあり、クラシカルな脚付の器に乗ったバニラアイスクリームが運ばれてきたのです。

こちらとしては、のんびり本が読みたかったので、何の問題もありません。

なのに、しばらくすると、今度は、もう少し年配の髪型のピシッとされた男性の方が来られ、
「この度は、お客様の貴重なお時間を無駄にしてしまいまして、大変、申し訳ありませんでした」
と、深々と頭を下げてお詫びをされたのです。

こちらは大変、恐縮です。

「いいえ。おかげでアイスクリームまでいただくことが出来まして、ラッキーでした(←本心)」
と返事をすると、
「ありがとうございます。担当の者に伝えさせていただきます」
と、丁寧におっしゃって、去って行かれました。

この一件で、私は帝国ホテルのサービスに敬服し、ファンになりました。

それだけでなく、運ばれてきたバニラアイスクリームの上に乗っていた(ウエハスではない)クッキーが、感動でした。

焼き具合というか、食感が絶妙で、ハラハラして、これまで食べたことのない軽やかさ。
バニラアイスとの調和がとてもよく、学びのある(そして、忘れられない)外食経験となりました。

私は神経質過ぎるのかもしれません(そもそも、社会に適合出来にくい、ひきこもりです)。

ですが、このひねくれた性格がキャッチしたものが、譲れないものとして内側に醸成され、それが自分の料理を形作っていった気がします。

第2章 10年のひきこもり。人生を詰んだはずの絶望の向こう側は、光があった


ある日、道場で一年近く、修行で滞在していた人が、出ることになり、最後の晩餐を作ることになりました。

いつもよりちょっとご馳走を作りたくて、映画の1シーンに出てくるような、夏の日の夜の、くつろいで庭で食べるテーブルをイメージしました。

メインはじゃがいものニョッキ。
ソースは、オイルベースでタマネギときのこ、ガーリックにナツメグの香りをつけたもの。
それに、サラダとスープとデザートという構成。

いつも作るのは、スタッフのためのお料理です。
献立は自由でしたが、この日は一から、自分の作りたいものを思う存分、作ることが出来て、器も出来るだけ素敵なものを選びました。

テーブルに運んで、お皿が並んでいる様子を見た時、そこに「自分」を発見しました。



私は10年近く、ひきこもりをしていました。
自分には何もないというのが、コンプレックスでした。

自分にはこれ、というものがない。

これが趣味ですとか
これが好きですとか
打ち込んだものも
特技も
何もない

それが劣等感でした。

だから、道場に移り住んで、菜食料理を知って、のめり込む事が出来て、
ようやく好きなものに出会えた!というよろこびには、安堵の思いもありました。

最後の晩餐を作った日は、不思議な感覚でした。

自分は、媒体という気がしたのです。
料理を作り終えて、抜け殻になったようでした。

目の前にあるのは、自分がこれまで読んできた本や、映画や、食べ歩いた経験が、形を変えて、テーブルに並んでいる。

まるで、自分の分身のようでした。

その時、ふと、悟りました。
料理は、表現なんだ、と。

そのよろこびを、初めて知った出来事でした。



道場で出会った菜食料理は得体の知れないものでした。
普通のお肉やお魚の調理法では、美味しく作ることが出来ない。
料理のセオリーのようなものが、ありません。

今から振り返ると、

・精進料理
・マクロビオティック
・ヴィーガン

菜食料理のジャンルの名称は、いくつかありますが、それらは健康のためのメソッドや思想といった考え方を示すもので、美味しさの調理法を表すものではありません。

自分が作ろうとしている菜食料理は何なのか。
理解して、把握して、骨格を与えたいという衝動。

それは、自分探しでもありました。

何もない自分の、穴ボコを埋めるように、美味しさとは何か、問いながら料理をしていった気がします。

そうして出来上がったものが「極上の粗食」の哲学でした。

道場に来た時、人生を詰んだと思いました。
ですが、絶望の底なし沼の向こう側は、光がありました。



道場は不思議なところで、誰でも来ていいという場所ではなく、審査がありました。

霊能力のある先生を案内され、観てもらってきてください、と言われたのです。
もし私に悪霊がついて心に変調をきたしているなら、道場に来てもらっては困る、というのが理由です。

当時、スピリチュアルの世界は疑っていたし、好きではありませんでしたが、重いうつを抱えて行くところはどこにもなく、言われた通り、観てもらいに行きました。

霊能者の先生は、私を見てこうおっしゃいました。

「あなたはお母さんのことで、悩んでいますね」

その通りでした。

「道場は山の中にあって、環境がいいから、そこでしばらく過ごしたら、よくなりますよ」

その通りになりました。

第3章 好きなことを損得勘定抜きでやってみたら、扉が開いた


自分が心から欲しいものは何なのか。
本当の自分と、いまある自分が、ズレているような感覚が付き纏っていました。

代官山のフレンチレストランでランチを食べた後、恵比寿に立ち寄り、ベルギー製のチョコレートタルトを買って帰って家で食べた日。

食べ過ぎもいいところで、胃がもう1ミリも動かない。
苦しいのに、グルメの彼と一緒に笑っていた自分は誰だったんだろう。

ふざけてはしゃいだりしたのは、楽しい思い出ではあったけれど、道場で生活をするようになって、そういえば自分は子どもの頃から、お肉は好きではなかったことを、思い出しました。

欲を全開にして満たすことは悪いことではない。
私は、サインを発していた身体を、無視していた。

道場の本棚に、マクロビオティックの本が置いてあり、ページをめくると
「すべての病の原因は食べ物にある」
との一文が、目に入りました。

そんなバカな、ナンセンス。
科学が万能だ、と信じていました。
その実、うつが薬で治るとは全く思っていませんでした。

本を読み進め、砂糖について書かれてある箇所に来た時、ハッとしました。
私は、ケーキや菓子パン、甘いものを毎日のように、中毒的に食べていた。
不調は必然だった。

それまでも「食事が心を作る」といったタイトルの本は、書店で見たことがありました。
はー?としか思えませんでしたが、この時、何かが腑に落ちました。



道場に移り住んで、ひと月くらい経った時、ある日の食事が、不思議な感覚を伴いました。

献立は以下の通りです。

・玄米
・人参とお揚げの入ったひじきの炒め煮にごまをふりかけたもの(ごはんの上にかけて食べる)
・小豆かぼちゃ
・ブロッコリーのアーリオ・オーリオ
・ごぼう、大根、玉ねぎなど根菜類の入ったお味噌汁
・ほうじ茶

食後、食べたものがどこへ行ったんだろう?というくらい、しっかり食べたのに、胃がとても軽いのです。
まるで食べる前のような感じでした。

これは自分だけの感覚なのか、一緒に食事をしたスタッフに聞くと、彼も「軽いよね」と言っていて、それが食事を変えて変化を感じた、最初の体験でした。

その時、こんな食事を続けていったら、きっとうつは治ると、直感しました。



道場には8ケ月間、滞在しました。
来る前と後とでは、体調が一変しました。

具体的に書いてみます。

・あるのが当たり前だった頭痛と腹痛がなくなって、不調のない快適な身体の感覚というものを知った。
・生理の時はいつも薬を飲んでいたのに、その生理痛がなくなった(更年期障害もない)。
・身体のだるさが大幅に減った(心が前向きになり、明るさが生まれた)。

肝心のうつは、今から思うと食事で7割くらい改善したように思います。

もともとひきこもりで不健康体質。
その前から体調は悪いのがデフォルトで、まるっきり別人になったようでした。

と言っても、道場で食べていたのは、特別なものではありません。

主食を白米から玄米に変えて、あとは、

◻︎出来るだけ、
・旬の野菜を食べる
・根菜類をとる
・豆類をとる
・海藻をとる
・乾物類をとる
・雑穀類をとるようにする
・お料理にお砂糖は使わない

これらを意識して、休日は、食べたいものを自由に食べていました。
(ちなみに私は完全にベジタリアンであったことは、一度もありません。
ベースは菜食ですが、何でも食べます。
理由は食文化の豊かさを享受したいからです)

この経験から、一人でも多くの人に「食」の大切さを伝える仕事がしたいと、考えるようになっていました。



道場を出て、以前より行ってみたかったある瞑想場へ向かいました。

朝から晩まで、誰とも目を合わせても、口をきいてもいけない空間で、みっちりハードな瞑想スケジュールが組まれていました。
そこで、3日目の午前が終わった時。

わざわざその場所へ来ているにも関わらず、初日から瞑想に全く集中出来なくて、イライラはピークに達し、逃げるように走ってトイレに駆け込みました。

なぜ、私の不安は無くならないのか?

母親に対する怒りが強烈に込み上げてきました。
「あんな親の元になんて、生まれて来たくなかったよ」

その瞬間、身体の内側から、龍がうねるようなものすごいエネルギーが放出されて、うつが治りました。
自分を否定する声が、ピタッと止んだのです。

その瞑想場からの帰り道、声が聞こえてきました。

・好きなことをやれ
・損得勘定を考えるな

その通りに、実践しました。



東京のアパートに戻り、一人になって、決めたことは、彼と別れる事でした。
そして、職探しをするために、ハローワークへ、行きました。

働いてみたい仕事は見つかりましたが、残念ながら待遇はアルバイト。

アラフォーで、身分がバイトというのは、自分的に許せないものがありました・笑
何よりこの先一人で生きていくのに、不安定過ぎます。

でも、あの声が私には聞こえた。
それがやりたい仕事なら、バイトでもいいはずだ。

道場を出た時、疑問に感じた事がありました。

食事を変えただけで、どうしてここまで身体が健康になるのか。
それまで食べていたものと、何がどう違うのか。
「食」がもたらす、身体と心との関係について、知りたい。

もともと、自分はゆったりしたペースでしか生きられない。
もう、何の無理もしたくない。
どうせバイトだ。
思い切って、週休3日で仕事をしようと決めました。

当時、全財産は銀行の普通口座に70万円。
バイトで得られる収入は、月10万程度。
一人暮らしなので、毎月10万近くの赤字です。

半年しか、もたない。

しかし、そんなことは知るか、という心境でした。

生活が立ち行かなくなったら、その時はその時だ。
今度こそ、自分の好きなことをやる道を歩むのだ。

結果、どうなったかというと、きょうだいの中で気も心も身体も一番強かった祖母にガンが見つかり、医者から余命が下され、その通りに亡くなりました。
それによって、祖母が残していたお金が孫たちに分けられ、仕事を続けることが出来たのです。

奇跡が起きたと思いました。

それから1年ほど経って、転職をしました。

週に3日休みがあると、勉強する時間は確保出来、栄養学に関する本を読み漁りました。

なぜ食事でうつが良くなったのか、不思議でしたが、後から低血糖症が原因だとわかりました。

また、食事によって身体が健康になるだけでなく、病気を治すことも出来るなど、知れば知るほど興味は広がり、もっと学びを深めて、専門的な仕事がしたくなりました。



この時も、不思議な流れでした。

「こういうところで仕事がしたい」と、最初に空間のイメージが頭に浮かびました。

ある日の仕事帰りです。
いつもなら素通りする本屋さんに、なぜか気になって入りました。

そこで、求人雑誌に目が止まり、何気なく手に取って、立ち読みしていると、栄養学系の仕事を専門に扱う派遣会社があることを発見。

履歴書を書き、応募して、面接に行くと、そこはイメージした通りの職場でした。
勤務場所も家から近く、これでようやく経済的な自立を果たすことが出来ました。

本当に、

・好きなことを
・損得勘定考えないで

進んでみたら、生き延びられました。

10年近くひきこもっていたのに、現実に待っていたのは、想像を超えた明るい未来だったのです。

その仕事ですが、残念なことに3年近く働いたところで派遣切りに合いました。
やりがいもあって天職とすら感じていたのに・・・
絶望です。

しかし。
派遣で働きながら、いつしか料理の道に進みたいという願望が、湧いていました。



ある日、歩いていると、あるお店のドアのところに、スタッフ募集と書かれた段ボール紙がかかっていました。

料理は好きだし、次は飲食店で働くのもいいかもしれない。
とりあえず、的な感じで電話をして、面接に行くと、なんとそこは、ヴィーガンカフェだったのです。

何十回、何百回と、その前を通ったことのある、知る人ぞ知る的、謎のお店。夏になると、扉の入り口に白い麻のカーテンがかかり、風が吹くと揺れる様が異国のようでした。

そのカフェは、ユニークなシステムをとっていて、その日の調理担当者が自由にメニューを考えて作ってよく、またもや驚きでした。

まさに、夢に見た理想のお店だったからです。

道場を出た時、菜食のカフェかレストランで働きたいという気持ちもありました。

でも、私がやりたいのは、自由に料理を作る事。
決まった料理を毎日作るのは、やりたいことではありませんでした。
だけど、そんなお店はきっと、どこにも、ないはず。

そう思い込んでいました。
常識的に考えればそうでしょう。

ところが、そんな理想のカフェが、現実に存在していたのです。
しかも、住んでいるアパートの、目と鼻の先に。



ある日、カフェの仕事が終わってから、スタッフ全員が集まり、どうしてここで働こうと思ったのか、オーナーを囲んで一人ずつ話をする機会がありました。

私は、自分の経験から、食事がいかに人の身体と心を健康にするのか、そのことを料理を通して伝えたかった、そしてお料理をするのが大好きだったから、と答えました。

そのカフェで、私は作ってみたいお料理を、片っ端から作っていきました。
お客様にも、よろこんでもらえました。

そうやって「極上の粗食」の骨格が、形作られていきました。



欲しいものは、目の前にあるのかもしれません。
求める心のゆくところを進めば、きっと、そこに、たどり着きます。

好きなことを損得勘定なしでやったら、扉が開いた。

この世界は、自分が考えている以上に、もっと自由で、その先もまだずっと続いています。



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