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『子どもを比べない』ために、私がやめたこと

「うちの子、もう寝返りができるようになったの」
「トイトレ始めたら、あっという間にオムツも卒業できちゃってね」
この言葉たちに焦り戸惑い惑わされてきた。

相手は特にマウントを取る気なんてサラサラなく、ただただ事実を述べただけなのに、どうしてこうも、私は卑屈になって、我が子もどうにかと思ってしまうのか。
「えー!すごいねー」
と言いながら、多分腹の底では、グツグツとしたものがあった気がする。
うへぇ。怖い怖い。
これも皆、我が子を愛する母のなせる技なのか。

でも、ここで、私はハッキリと断言したい。

「人それぞれ色んな事情があるしね〜。育ってきた環境が違うから〜。我が家のことは我が家のこと〜。」と、のらりくらりと断言することは避けてきたが、一世一代の覚悟を決めて、ここで断言する。


『親が子どものことを比較して、あーだこーだと焦ってすることは、100%意味がないし、全て子どもに皺寄せがいきます。』


私がここまで、なぜ言い切るのか。言い切れるのか。
何を隠そう、私自身が、思いっきり子どものことを比較して、子どもに皺寄せがいっていたからだ。
(ごめんなさい。)

そして、今、これを読んで下さっている読者の方。
ご安心ください。
読み終わった時には、比較する教育がいかに無駄で、しんどい事なのか理解でき、子どもの比較を辞められるようになっています。
と思います。(えっ?!)


冒頭にも書いたが、我が子のこととなると、どうしても周りの成長が気になり、できていないと不安になり、焦り、何かさせないとと躍起になってしまう。
私の育て方合ってるのかな?
この子まだできてないけど、もしかして何か障害があるのかな?
と、ちょっとしたお友だちの"できるようになった話"にすぐ動揺してしまう。

私たち母親は、日々、可愛い笑顔だけ見ていれば良いわけではなく、一人の人間を育てている。
できない事を、できる様にしていってやらないといけない。
なので、当然にその様な焦りや悩みが出てきてしまう。

だが、こういう気持ちを持つ事自体は、当たり前のことで、「私だけ他の子と比べてしまって…」なんて悪い母親を演じる必要は全くなく、むしろ親なら当然の感情だ。

そんな『我が子を思う気持ちを持っている』という事を自覚した上で、焦らないように、躍起にならないようにしていきたいということだ。


長男生後4ヶ月、お散歩中に会ったママさんと話していた時のこと。
私「何ヶ月ですか?」
お散歩ママさんA「4ヶ月です。」
私「えー、一緒ー!すごいしっかりしてますね(←何を持ってしっかりなのか分かっていないが、良く使うワード)」
Aさん「わー、そうなんですね。最近、寝返り打てるようになって。それで、ちょっとしっかりしてきたかもです。」
私「えっ、もう寝返り打てるんですか?!えーすごいー。ウチの子まだなんです。(赤ちゃんに向かって)すごいねー。寝返り打てたのね。偉いねー。」
Aさん「これからですよ。突然、コロンッて成功してて。けど、寝返りできたらできたで、困りますよ。気付いたらうつ伏せになってたりして。もう目が離せなくて。」
私「わぁ…確かにそれはそうですね。今よりもっと目離せなくなりますね。」
という、会話をした。

この日から私は、子どもの体の横にオモチャを置いて、寝返りして取れるように、特訓を始めた。

子どもには「ほら、鳥さんここにいるよ、取れるかな?そうそう、お手て、伸ばしてごらん。頑張れーもうちょっと、後少し!おぉー、すごいすごい、いいぞいいぞー」
と楽しく声をかけていた。
が、きっと胸の内では、
『寝返りができたあの子はすごい、我が子はダメな子』
と、無意識に思っていたと思う。
(あぁ…辛い…)

子どもの成長過程において、離乳食を始めた、立った歩いた、喋った、走った跳んだ、オムツが外れた、字が読めた、など、つい「他の子は…!」というタイミングは、嫌と言うほどある。

『子どもを比べない』
と、書かれている育児本やコラム、エッセイも山ほどある。

比べるつもりはなくても、数多あるタイミングで比べてきてしまった私。
そんな私が、比べることの無意味さを知ったある日のこと。


立った歩いたもゆっくり目で、膝をビヨーンと伸ばしたまま跳ぶ長男の姿を見て、これは……と思い、体の使い方を教えてくれる体操教室に通わせることにした。

長男4歳。
彼なりに一生懸命やりながら、無理なくとても楽しく通っていた。

体育館の壁際に座り、ずっと見ている保護者たち。
毎週毎週見ていると、あの子運動神経すごいね、というのが分かってくる。
となると、「体の使い方を教えてもらえればそれでいい」と思っていたはずの、私の心の奥底から、「あの子には勝てないけど、あの子と同じくらいにはなれないかな。もう少し早く走れるようになったらな。もう少し縄跳び跳べるようになったらな」
という、いや〜な気持ちがムクムクと湧いてきた。

そして、家での練習が始まった。
もちろん、子どもは何も言っていない。
「あの子に負けたくない。もっと早く走れるようになりたい。縄跳び100回跳べるようになりたい。」
なんて、一言も言っていない。
全て私の独断だ。

「もっと早く走れるように、ママと競争だー」
「もっと手振って、もっと足上げて」
と、本気で走り、
「縄跳び跳ぶ時は、こうやってするのよ」
と、聞かれてもないことを伝授する。

色んなことをやるうちに、子どもの意欲が下がってきた。
そりゃそうだ。
頼んでもないことを、さもあなたの為にとやらされ、言葉の端々から、自分が出来ていないことを痛感させられる。
今思うと、これが教育虐待かと、心から反省する。

そして、とうとう私は先生に相談した。
「あの子はすごく運動神経いいですよね。どうしたら、もっと走れるようになるんでしょうか?やっぱりもっと小さい頃から、運動させとかないとダメでした?」

先生はビックリ仰天目を見開いた。
「確かに、あの子は運動神経いい方です。だけど、お母さん、あの子にだって、できない事ありますよ。そう見えるだけで、全部完璧にできる子なんて、いませんから。向き不向きがあるんです。向いてることに出会った時、逆に何かできないことにぶつかった時、自分がどうするかなんです。○○くん(うちの子)だって、たくさんできてますよ。」
それを聞いて、今度は私がビックリ仰天目を見開いた。
「いやいや!」と言い返したかったが、そこでレッスンが始まった。

その日は跳び箱の日だった。
跳び箱なんて、やった事ない我が子。
跳べるのかな?とちょっと心配しながら見ていると、まさかの跳べた!
あれ?跳べるんだ。
あれよあれよと5段までいき、先生が我が子だけのために、6段にまで増やしてくれている。

ふと、例の運動神経抜群の子に目をやった。
跳べていない。
2段も跳べていない。
涙を流しながら、自分だけ跳べない2段をずっと繰り返している。
他の子の兼ね合いもあり、3段に上げられた。
その子は泣きながら、座ったまま、じっと他の子を見ていた。

奇跡的にその日の英雄となった我が子よりも、
普段は何でもできるあの子が、跳べなくて、跳べなくて、何度挑戦しても跳べなくて、ぐちゃぐちゃに悔し涙を流していたあの光景が、忘れられなかった。


家に帰って、跳び箱を一人だけ何段も跳べたことを、たくさん褒めてあげようと思っていたが、息子は一切自慢しなかった。
特別すごい事をしたという意識がなかったのだ。

私は、比べることの無意味さを改めて知った。

先生の言っていた通り、人には必ず向き不向きがあって、全て完璧に出来る子なんて、人なんて、この世に一人もいない。

あの子には走ったり跳んだりが向いていて、
我が子には跳び箱が向いていて。
あの子は運動自体が向いているから、今回の悔しさにきっと向き合って、どうにかしようとするだろうし、我が子には、運動よりも他の事が向いていて、だから跳び箱を何段も跳べたって、特に自慢もせず、それ以上追求したりもしない。

たったそれだけの話。


この日を境に、私は憑き物が落ちたように見方が変わった。

他の子が、早くに九九が言えようが、かけっこが速かろうが、一切何も思わなくなった。
心から「すごいね!」と言えるようになった。

そして、子どもたちにずっと言い続けていることがある。

「年齢によって、できるできないは、もちろんある。だけど、年齢に関係なく、その子の得意なこと、そうじゃないことがたくさんある。

2人でどこかに行っていて、もし道に迷ったとして、お兄ちゃんは地図が得意だから、地図で道を調べられる。弟くんは、人に話しかけることが得意だから、道を尋ねられる。

お兄ちゃんが、誰かに道を尋ねるのよって言われても難しいでしょ?弟くんがこの地図見るのよって言われても難しいでしょ?

人にはできること、できないことが同じくらいあって、もしかしたら、できないことの方が多いかもしれない。
間違って欲しくないのは、できないことは悪いことじゃないということ。
人には皆んなできないことがあるから。
それと同時に、ちゃんとその人ができることもあるってこと。
お互いに出来ることをやったら、何でも解決できるってことね。
だから、2人で出来ることを合わせるのよ。
できなかったら、また別の人の出来ることを借りればいいから。そしたら、何でもできる様になるからね。」

子どもたちは、すんなり納得してくれた。
相手ができない時、もちろん責めることはないし、自分ができない時は、ちょっとやってくれない?と助け合っている。

私自身のことを思い返してみると、自分のことを特に人と比べたことはなく、他の人ができていたら、「へぇー」くらいに思っているような、あまり欲のない子と言われてきた。
が、自分が頑張っていること、やりたいと思っていることで、自分の思い描いているレベルに達していないと、とても悔しかった。

もうこれも本当に当たり前のことだが、子どもたちと自分は別人格で、一つ一つの物事に対して、向き不向き、得意不得意は別なのだ。

親だからと言って、その子を完璧にしようだなんて、甚だ無理な話であるし、何より烏滸がましいことこの上ない。
その子にはその子の良さ、その子のペースがある。

基本的なこととなると、どうしても、やっぱり焦る時もある。
だけど、あの跳び箱のことを思い出して、人にはそれぞれ活躍できる分野があるんだなと、心に刻むことにした。

親としてできることは、子どもの出来ないことに目を向け焦り散らかすのではなく、出来ていることに目を向け、そっちを思う存分伸ばすこと。

そうすれば、その時できなかったこともできるようになっていく。(これも経験している。)

心配より、信頼。

今日はどんな事に挑戦していくんだろう。
楽しみだな♪


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